三 東へ、東へ
モイザと共にする旅路は、ニユにとってとても楽しかった。
相変わらずモイザはあまり友好的ではないが、それでも一応話してくれる。何にせよニユには一人ではない事が、心から嬉しいのだ。
何日も掛けて東へ進み、とある小さな村の宿で二人は朝を迎えた。
朝食を取りながら、ニユは地図を覗き込む。
「この村の先は広い広い草原だね。それを行くと低めの山があって、山向こうに街があるみたい。今日はその道を行く事で良いかな?」
「勝手にすれば? うちは別に異論はないわ」
かなりそっけない態度であるが、一応は了承されたと見て、ニユは頷く。「じゃあ、それで決まりね。朝ご飯終わったらすぐ出発だよ!」
一時間後、宿を出た二人を乗せて、エジーが草原を駆けていた、
青い空、どこまでも続くかと思える緑。そんな美しい景色の中、だが、ニユの後に座るモイザは悲鳴を上げ続けている。
「嫌、揺れないで。揺れないでよ。ああ、グラグラするのは嫌っ。きゃっ、落ちるわ!」
どうやらここ数日で分かった事は、モイザが山羊に乗るのが苦手である事。
「山羊なんか、馬と比べたら楽勝なのに……」
ちなみにニユは大の馬嫌い。馬に比べて山羊は温厚だし振り落とさないしで彼女は得意だ。
「ああっ。危ないって。やめてよ、山羊! うちを振り落とさないでってば! 餌ばっかり食うだけ食う癖に人の役には立たない。これだから動物は嫌いなのよ……」
モイザの止めどもない愚痴を聞き流しながらニユは少し考えた。
どうして自分はモイザに嫌われているのか。
嫌われているという程ではないかも知れない。どうして彼女に好かれていないのか。
『友達』になった後も、「あんたなんか友達じゃないわ。旅のお供よ」とか「あんたは力が強いだけ。うちを守って頂戴」とかばかり言うし、ニユの事を名前で呼んでくれない。
つまり、全く距離を縮められていないのだ。
それは何故なのか。
今までにできた親友は四人。
グリアム、ケビン、ルーマー。
彼らはいずれもニユが助けたのがきっかけで出会い、仲良くなった。
モイザだって同じ筈なのに。
「きっと、きっともっと仲良くなれる。仲良くなってみせる。それでつまらない事で笑い合うんだ。だって」
だってその方が、楽しいではないか。
「あんた、何か言った?」
「……、モイザと仲良くしたいなあって」
「ふん。よく言うわ」
そう言われて少し凹むが、でもめげないニユなのであった。
そうこうしているうちに、草原の彼方に若草色の山が見えて来た。
「……あれが」
朝言っていた、山であろう。
あれを越えれば目的地。だが――。
気が付くと日が南の空高くに輝いており、ニユのお腹が高らかに鳴った。
「とりあえず、お昼ご飯食べなくっちゃね」
「そうね。うち、準備するわ」
そうしてご飯を食べながら、モイザは顔を顰めた。「良い加減、そろそろパンやめない? うち、パンばかりで飽きたわ」
「まあそりゃ屋敷の料理と比べたら全然だけど……、パンだって美味しいよ」
「庶民の口ね」
「どこが! アタシ、男爵令嬢なんだけど!」
こんな事を言っている間に、ニユはふと思う。「……平和だね」
つい呟いてしまった言葉にモイザが首を傾げると、ニユは軽く被りを振った。
「ううん。アタシ、こうやってゆっくり旅した事、なかったから。いっつも悪い動物達が邪魔してさ。……だから、平和だなあって」
ニユの一度目の旅、それは悪魔の作り出した悪しき動物、魔獣達との戦闘が絶えなかった。
しかし今はどうだろう。心地の良い風を受け、穏やかな心持ちで昼食を食べられる。
「……ドンを倒して、良かった」
ニユは確かに、この世界を救ったのだと実感し、なんだか嬉しくなった。
「その悪い動物って奴が何だか知らないけど、知りたくもないわ。できれば出会いたくないものね」
嫌そうに首を振るモイザに、ニユは微笑んで見せる。「大丈夫。安心して。さあ、そろそろ行こっか」
草原を走り抜け、白い雌山羊は、小山の麓まで来ていた。
赤いリボンを風に靡かせて、ニユは山の頂上を見上げる。
高さは程々に低め。かつ傾斜がきつく、徒歩で登るのは大変そうだ。
だが、こちらにはエジーがいる。
白山羊は軽やかに駆け出すと、辺りの木に足を引っ掛けながら飛び跳ね、進む。その身のこなしの美しさは、まるで曲芸のようだ。
生い茂る木々の間をかき分け、進む事半時間。
地面がほとんど縦になっており、エジーの鉤爪がなくては登れないぐらいになって来ている。
ニユはエジーに、モイザはニユに必死でしがみ付き、落ちないよう必死だ。
「お、落ちるわっ。あんた、低い山だって言ってたじゃないのっ」
「低いのは低いけど、道が険しいからこんなに時間掛かってるんだよ!」
体が揺さぶられ、嘔吐感が込み上げるが、我慢。でも耐え切れずに、ニユは黄色い液体を撒き散らした。
「おぇ。おぇ。はぁ、はぁ。……あ」
見上げると、どこまでも遠いかと思われた天辺がすぐそこだ。
木の一本に足を掛ける雌山羊。そのまま少女二人の重量を乗せて、力一杯のし上がった。
「はぁ、はぁ、ふぅ。よ、漸くだね……」
喘ぎ、喚きながら、やっとこさ辿り着いた頂上を見回すと――。
「え」
そこには、目を疑う凄惨な光景が広がっていた。
木々が所狭しと並ぶ円形になった山の頂上、そこに血の池に沈む漆黒の亡骸が散乱している。
そして中央に立つのは漆黒の巨牛――、全滅した筈の魔獣の生き残りが、ニユを鋭く睨み付けていたのだった。
三 魔獣王との戦い
目の前の光景を、ニユは一瞬信じられなかった。
共食いして滅びた筈の魔獣、それが山の頂上中央に立ちはだかっている。
その黄色の瞳には殺気が立ち込めており、黒牛の身体中には、赤黒い血がこびりついていた。
よく見ると、黒牛の周辺に散らばっている黒い塊は魔獣の死骸であり、ニユはやっとこの状況を理解する。
この魔牛は、あらゆる魔獣を喰らい尽くし、生き残った魔獣の王者であるのだと。
「ぐもおおおおお」雄叫びを上げ、猛烈な勢いでこちらへ突っ込んで来る魔牛。
それを軽やかに跳んで避けるエジーからニユは飛び降り、棍棒を構える。
「あ、ちょっとあんた。こいつ、わっ」
一人で山羊の背中の上に取り残されたモイザは投げ落とされ、地面を転がる。
踵を返し、彼女へ突進しようとした魔獣王、その図体を太い棍棒が阻んでいた。「させないよ。貴方の相手はアタシ。……久し振りに血のダンス、踊っちゃおう」
微笑む茶髪の少女が棍棒を牛の頭部へ叩き付ける。
寸手でかわす魔牛だが、二本ある角のうち一本が折れ、宙を回転しながら飛んで行った。
「ぐおおおおお」激昂した漆黒の巨牛が咆哮を響かせる。
その間にひょいと魔獣の背中に飛び乗ったニユが、背中伝いに駆け、棍棒で頭を割ろうとしたその時。
漆黒の巨牛が、思わぬ行動に出た。
頭を砕かれる寸前、魔牛がその重量でありながら高く宙へ飛び跳ねたのだ、
「うわっ」
何の支えもないニユは体制を崩して転がり落ちてしまう。牛の太い前脚が上がり、一瞬死を覚悟したその時――。
「うちの事も、忘れないで頂戴」
黄色いコートを揺らす赤毛の少女が、その脚を吹き飛ばしていた。
前脚の一本を失い、よろめく魔獣王。その隙にさっと起き上がり、ニユは飛び退いて難を逃れた。「ありがとう、モイザ!」
「…………」
そのまま魔牛と対峙するモイザ。
「うちの力、見せ付けてやるわ!」
叫ぶ彼女を見て、ニユは少しばかりの驚きを得る。
その手に、大きな鉈が握られていたからだ。先程前脚を切り飛ばしたのも、それに違いない。
「へえ。モイザ、戦えるんだ……」
感心するニユを振り返らず、モイザが鼻を鳴らす。
「いざという時の為に持っていたのよ。生憎強盗に襲われた時は使えなかったけど、まさかこんな形で役立つとはね」
円形の山舞台の上で、モイザと牛の血の舞が始まる。
顔の皮を切って剥き、目玉を抉るモイザ。それに対し黒牛も負けてはいず、突進を繰り返し、時には跳躍して、彼女を惑わしている。
「アタシ達も行くよ!」
舞台の隅で小さくなっていたエジーに飛び乗り、ピンクのワンピースを揺らめかせるニユも参戦。
ニユの棍棒が牛の背中を砕き、モイザの鉈が魔牛の後脚をもぎ取って、魔獣の体から激しく朱色の血が噴き出す。
「そろそろフィナーレにしよう!」
白山羊が軽く跳躍し、漆黒の巨体を蹴り倒す。そのまま棍棒が頭を割ろうとしたその時――。
「きゃっ」牛の尾が素早く動き、少し離れて立っていたモイザを絡め取った。
帽子が脱げ落ち、彼女の体が尾に振り回される。細い右足が牛の残りの一本の角に突き刺さる。
そしてそのまま山のはるか下へ投げ落とされる、寸前。
「モイザ!」
ニユが叫んだと同時に、彼女が跨っていた筈のエジーが駆け出していた。
牛の尾に投げ飛ばされ、宙を舞うモイザの体を見事にキャッチ。危うく崖から滑り落ちそうになるがなんとか踏ん張った。
「ぐおおおお」
そちらへ走り寄ってモイザ達を食べようとする牛の上、ニユが可憐に笑う。
「……楽しかった。さよなら」
グシャリと音がし、魔獣王の頭が潰れた。
かくして、漆黒の巨牛との戦いは幕を下ろしたのである。
白山羊の背の上、モイザは痛みに身悶えしていた。
痛い。痛い。温かな血が、右足からダラダラと流れ出す。
「……しくじったわ」
武器である鉈を使いこなせなかったからああなったのだ。そもそも村娘である彼女は戦い慣れなどしていないので当然と言える。
なんとか起き上がり、一息吐いた彼女の元へ、茶髪の少女が駆け寄って来た。
「モイザ、大丈夫?」
そして足の傷を見て、顔を蒼白にする。「は、早く手当てしなきゃ。待ってて」
大急ぎで背負い鞄からタオルを取り出す少女。彼女はモイザの足にタオルを当て、必死に押さえ付け始めた。
「止まれ止まれ止まれ。ダメ、あ、ああ、モイザモイザモイザ、死なないで……」
ちょっとした傷――とは言えないが、死ぬような傷ではない。
モイザは呆れて少し笑った。「こんな傷で、死なないわ、よ。痛い、けど……」
痛い。右足の皮が裂け、そこから血が出てはいるが、じきに止まるだろう。
「そう、良かった。心配したよ」
茶髪の少女が心から安堵したような笑みを浮かべる。それを、モイザは不思議に思った。
「どうして、そんなにうちの事、心配するの」
無駄に馴れ馴れしくするし、無駄に気に掛けて来る。
それがモイザには疑問でならなかった。
「決まってるじゃん。友達だからだよ」
当然のように答える少女に、やはり赤毛の少女は首を振り、無理解を示した。「それは、あんたが言ってるだけだわ。うちは、どうしてあんたがそんなに優しいのか、分からないのよ」
今、モイザとニユは一緒に旅をしているが、あくまで一時的な関係――、目的を果たせばさようならの筈である。
それに、出会い方が出会い方だ。なのにどうして、そんなに親身になれようか。
モイザが妹のオリーに対する時は、いつも優しい。
だがニユとでは訳が違う。それなのに向こうは、好意ばかり向けて来て。
「貴方と、もっと仲良くなりたいからだよ。一人じゃ嫌だから。一緒に笑いたいから。……あ、そうだ。まだ話してなかったっけ。ちょっとアタシの話、聞いてくれる?」
こ首を傾げてそう尋ねて来る少女。
彼女の瞳が真剣な物を含んでいるのが分かって、嫌だと言ってもダメだろうと思いモイザは頷いた。
話を聞き終えたモイザは、唇を噛んで黙り込まずにはいられなかった。
目の前の少女が、そんな事を胸に抱えているなんて、思ってもいなかったのだ。
大切な人が死んでいく辛さ。それでも世界を守ろうと思う強さ。絶対助けるという誓い。
信じられなかった。馬鹿で力だけ強いと思っていたこの茶髪の少女が、こんな事に耐え、旅をしていたなんて。
彼女の願いはモイザと同じ、大切な人を救いたいというものだ。
なんだかモイザは自分が馬鹿らしくなった。自分が彼女の鞄を盗んだ事の気恥ずかしさに、故意でニユを見下そうとしていたのである。
だが実際はモイザと一緒だった。いや、モイザなんかよりずっと凄い。『救世主』であったのだ。
「だからアタシは仲間の貴方を死なせたくない。もっと仲良くなって、貴方と笑いたいんだ。……あ、血、止まったみたい。良かった」
気付くと足の痛みは和らいでいた。でも代わりに心がズキズキと痛み出す。
「……ごめんなさい。助けて貰ったのに」
ずっと、彼女を軽蔑していた。嫌っていた。化け物だと思っていた。
男爵令嬢とか言っていたが実際信じていなかったし、彼女に全く心を許していなかった。
それはニユに対する強い不信感と、恐怖のせいだったろう。
でも今はそれがすうっと晴れていく感じがした。彼女の心が、知れたから。嘘偽りのないお人好しだと分かったから。
一緒に望みを叶えてあげたいと、そう思った。
「ありがとう、ニユ」
微笑んで、モイザは知らず、ニユの手を握っていたのであった。
急斜面を滑り落ちるように山を降りると、辿り着いたのは小規模の町、ヤヤドード。
仙人の住むアンダヤム山脈の西側で、すぐそこに山が見える。
いよいよ明日は仙人の山――。ニユはなんだかとてもワクワクしていた。
だって、もうすぐ仲間三人を生き返らせる方法が分かるかも知れないのだ。
ベッドで横になり、欠伸をしながらモイザが呟く。「今日は大変だったわね。うち、疲れたけど少し楽しかったわ」
「アタシもまさか魔獣の生き残りがいるとは思ってなかったからびっくりしたけど……、でもモイザが無事で良かった。明日も頑張ろうね」
少し笑いながら、寝巻き姿の赤毛の少女が頷く。「そうね、おやすみなさい、ニユ」
「おやすみ」
根を閉じれば、色々な考えが湧いて来る。
仙人とは、どんな人なのだろう。
そもそも実在するのか、しないのか。
本当に知りたい事を、知っているのか。
様々な不安がある。でも大丈夫だ、どんな困難があったとしても乗り越えてやる。
そう心に決めて、ニユは眠りの中に落ちて行った。