一 赤毛の少女
翌朝、男爵邸から最寄りのラダラの街で買い物を済ませたニユは、地図を覗き込む。
地図上に広がる大陸の東側、そこにアンダヤムという山脈がある。
そのどこかに仙人の住む山があるに違いないと思われる。詳しくどこの山であるかは、現地で聞けば良い。――とにかく目指すは東だ。
前はラダラの街から北へ行ったから道のりが険しかったが、東は街伝いなので大して道は悪くなく、旅は順調だ。
たった一つ不満があるとすれば、寂しい事。でもそんなの、エジーがいるから大丈夫とニユは自分に言い聞かせ、前を向き続けた。
何日も何日もエジーを走らせ続け、辿り着いたのは大陸東南東の小都市、ベッキーニであった。
ベッキーニの大通りで買い物を済ませると、日はまだ南の空高くに煌めいていた。
「今日は次の街まで行けるかな」
誰にともなく呟き、ニユは商店街を離れて、街の広場のベンチに座り込む。
背負い鞄を下ろし、地図と昼食を取り出す。
「えっと、次の街は……」パンを食べながら、地図を眺めるニユ。
この街からしばらく東へ行くと、小さな村がある。そこで宿を取り、今日は終わりにしよう。
「よし」ピンクのワンピースを揺らして立ち上がった時、広場に一人の少女が現れた。
彼女を見て、ニユは思わず息を呑む。
蜜柑色の帽子を被り、黄色い長丈コートを風に靡かせる細身で背の低い少女だ。歳は恐らくニユと同じで十五ぐらいだろうか。彼女の背中までの赤毛は美しく輝いていた。
「あの、あんた、ちょっと良いかしら」
突然にそう問われ、ニユは首を傾げる。「こんにちは。……良いけど、何?」
「うち、旅人なの。あんたそれ、地図でしょ。道に迷ったから、ちょっと見せて欲しいの」
そんな事ならお安いご用だと、ニユは笑顔で少女に地図を手渡した。
「ありがとう」それを黒瞳で眺め回し、やがて赤毛の少女は地図を返した。
「分かったわ。お返しするわね。さようなら」
そう言って踵を返す少女に、ニユは手を振る。「さよなら、旅、気を付けてね」
彼女を見送ると、「そろそろアタシも」とニユも立ち上がる。
そしてエジーに跨ろうとして、遅まきながらに気付く。
「あれ? ない。あれ……?」
ベンチに置いていた筈の背負い鞄が、消失している事に。
辺りを見回す。が、どこにも落ちている様子はない。つまり。
「……信じられないっ」
あの赤毛の少女に盗られたに違いなかった。
いつ盗まれたのか分からない。でも彼女が話し掛けて来る前は確かにあったのだから、間違いないだろう。
背負い鞄の中には大金が入っている。それがなくては、この先の旅が続けられない。
――厄介な事になってしまった。
ニユは唇を噛み、白山羊に飛び乗った。「エジー、あの赤毛の娘を追って。早く!」
颯爽と山羊が広場を駆け抜け、少女の向かった東側、住宅街に突入。
こうして、ニユと赤毛の少女の追いかけっこが始まったのだった。
――だが一時間後、ニユは背負い鞄を取り返せていなかった。
何度も赤毛の泥棒少女を見掛け、追ったのだが、何しろ住宅街が入り組んでいるのですぐ見失ってしまい、とうとう逃げられたのだ。
今は仕方なしに聞き込み調査中。
「ここら辺で、赤い髪の女の子が走って行くのを見なかった?」
「さあね。あたしゃ知らないよ」と主婦らしき女は首を振った。
「赤毛の娘、知らない?」
「知らないね。そんなのがいたら、覚えてる筈だ」と太っちょの男は鬱陶しそうに答えた。
「ねえねえ、黄色いコートのお姉さん、見なかった?」
「うーん。僕、見たよ、あっちの方に走ってった」と少年は路地の方角を指差した。
そちらへ進む事、半時間。
「赤毛の女子じゃと。そうじゃ、さっきそこを走ってるのを見たわい」
「うわーん、その娘に食べてたアイス、盗られちゃったよう」
「最近、ここらで泥棒の噂があるだ。それはきっとそいつだべ。捕まえねえと、えれえ事になるだ」
確かに、少女へ近付いているらしい。
さらに追う事二時間。
聞き込みを続けるうち、こんな話を沢山耳にした。
近頃、ベッキーニの街で、無惨な死体が毎日のようにどこかに転がっている。その全てが身ぐるみを剥がされ、真っ裸だというのだ。
強盗の仕業だと街中で噂され、恐れられているという。
「あの娘がそんな強盗には見えなかったけど……」
でも実際、鞄を取られたのでなんとも言えない。
日暮れも近付いて来て、商店街から路地に入り、辺りは随分と寂しくなって来ていた。
「もうダメかも……」
これだけ時間があったら、彼女はもう別の街へ逃げているかも知れない。
「どうしよう」あの背負い鞄がなければ、この先どうやって旅を続けるのか。すっかり一文なしになってしまったが、男爵邸に戻るのもできない。どうやって稼げば良いのか。
項垂れ、すっかり元気をなくしたニユの前に、分岐点が現れた。
右か左か。どちらへ行けば良いか分からない。
「……右へ行こう」
ただの当てずっぽうでしかないが右を指す茶髪の少女に従って、エジーはそちらへ駆け出そうとした。
その時。
「きゃあ。や、やめて!」
甲高い悲鳴が、路地を木霊した。
それは明らかに鬼気迫るものがあり、ニユは瞬時に愛山羊へ命じた。
「あの声は左からする。左へ走れ!」
泥棒の少女の事は、この際どうでも良い。
誰かの悲鳴とあらば、いくら忙しくても、自分の事は後回しにしてしまう。それがニユという少女の性格であり、美徳だ。
そして複数の角を曲がり、辿り着いた所には――。
四人の物騒な格好の男女と、地面に押さえ付けられる一人の少女がいた。
そしてその少女を見て、ニユは驚愕する。
彼女こそが、ニユが探し続けていた、あの泥棒娘だったのである。