二 再来の亜人戦、偽神の正体
「亜人!」
高く叫び、白山羊から飛び降りてニユは、熊人の方へと駆け出していた。
棍棒と長刀のぶつかる音が、廊下中に木霊する。
「愚娘、どうして我へそんなにも怒りを向ける。怒っていては、良い勝負にはならんぞ」
「怒るな!? 無理な話だよ! アタシは貴方達の事が嫌い! 大嫌いなんだ! ここまで嫌った者なんかいないぐらい、大嫌い!」
叩き付ける。無我夢中で放った棍棒の一撃を、巨体の熊人は長刀を軽く当てるだけで止める。そのまま足で蹴って茶髪の少女を軽々と吹っ飛ばした。
地面に背中を打ち付ける。だが諦めない。瞬時に立ち上がり、また熊人へ――。
「私の事を忘れてもらっちゃ困りますわあ」
直後、腰を何かで抉られてニユは再び倒れた。
吹き矢だ。狸人の吹き矢攻撃が、すっかり油断していたニユを射抜いたのである。
「うぐぅ、うぁ」身悶えしつつ、立ち上がろうとする。でも痛みで全身に力が入らない。腰から流れる血。足が震えて立てない。
熊人が近寄って来る。嫌だ、立たなければ、また。「立て、立て、立て立て立て立て立てぇぇぇぇぇぇ!」でも、やはり足に力が入らなかった。
「ど、うして……」
熊人の長刀が、ゆっくりとニユの首へ向けられる。死への警報が、脳内を高く鳴り響いた。逃げなければならないのに、動けない
そこへ、青紫色のドレスを揺らす白髪の少女が突然、ニユの目の前に現れた。「貴様はワタクシが相手なのね。下等な亜人風情に、契約者を傷付けられちゃ、堪らないのね」
振り向く少女が微笑し、ニユの額へ手を差し伸べた。
傷が癒えていく。抉られた腰の肉が再生し、血はすっかり止まった。――なのに。
「あれ……?」
足に力が入らず、全身が小刻みに震えている。
おかしい。おかしいおかしいおかしいおかしい。立て立て立て立てと、脳内で声が必死に絶叫を上げている。なのに震える。足が震え、手が震え、声が震えている。
何故、自分はこんなに震え上がっているのか。こんなのでは。
「みんなを、助けなくちゃ、また……」
また、仲間が死んでしまうではないか。震えている場合じゃ、ないのに。
体たらくなニユを庇ったせいで、グリアムは死んだ。
ニユが力になってあげられなくて、ケビンは息絶えた。
全てニユのせいだ、だから今度は身を張って、みんなを守らなくてはいけないのに。
「いけないのに……」
怖くて縮こまっているなんて、なんと情けないのだろうか。
失う事が嫌だ、だから戦いたい。でも加わったら邪魔になるのではないかと、またニユのせいで誰かが死んでしまうのではないかと思うと怖くて、立ち上がれない。
ラフレシアとモイザが懸命に戦っているというのに。
「情け、ないな……」
ふと、笑みが漏れる。
いつものニユらしくもない。考えるのは苦手。だから、いつも思うままに行動するのがニユという少女の在り方だ。
ケビンが好きだと言ってくれた茶髪の少女なら、もし目の前で、赤毛の少女が吹き矢に狙われていたら、どうするだろうか。
立って、走り出す。勢いでモイザを突き飛ばし、彼女ごと地面に倒れ込んだ。
彼女達の背後、吹き矢が駆け抜けて行った。
「に、ニユ……?」
「待たせてごめんね。アタシ、戦うから」
そう微笑むニユの頬に、モイザの平手打ちが打ち込まれた。「遅いのよっ。何をへこたれてたか知らないけど、うちと一緒に、あの狸娘を叩き潰してやりましょう」
「うん」
真っ直ぐに立ち、棍棒を構える。王の間への扉の前、こちらを睨み付ける裸体の狸女が身をよじった。「ああら。怖い怖い。どうしてそんな目で見つめてますのお、へなちょこの癖にい」
嘲笑い、たっぷりした腹を叩いて笑う女に、ニユは宣言した。
「アタシは男爵令嬢、ニユ。……アタシの名にかけて、貴方達を倒す!」
ラフレシアと熊人ポロベアの戦いは、加熱していた。
「岩になって押し潰されないとか、貴様、どんなに頑丈なのね!」
「あのお方が仰るには、亜人の中でも最強らしいのでな」
現在、ラフレシアはやや苦戦中だ。
この亜人は、針で突き刺しても分厚い皮が破れず、鉄杭で胸を貫こうとしてもダメ、しまいには巨岩で押し潰そうとして逆に持ち上げられてしまうという、とんだ規格外な奴なのだ。
「……なら、これはどうなのね!」
そこらの壁を適当に削り取り、それを鎖に変え、敵に投げ付ける。
『教徒』に対しては抜群の鎖縛り。だが。
「こんな程度で、我が怯むとでも?」
縛った鎖を粉々に砕いて、熊人が嘲笑。そして、悪魔型のラフレシアの黒い尾を、切り落とした。
大量に噴き出す血が、辺りを赤く染める。
変化して傷はすぐに塞がって尾も元通りになったが、彼女の怒りを燃えたぎらせるのには充分だった。
「……。よくも、よくもワタクシの可愛い尻尾を切ってくれやがったのね、許さないのね、亜人風情が。悪魔の恐ろしさ、侮られちゃ困るのね!」
直後、廊下中に眩い光が満ちて――。
そこにあった筈の熊人の姿が消え失せ、そこには、彼の武器だった長刀だけが残されていた。
それを成した白髪の美少女が、満足げに微笑する。
これこそがラフレシアの本気の力。血飛沫一つ飛ばさずに、光に変化して相手を焼き殺す。
一つの戦いが、呆気なく終幕した。
ぽっちゃりした小柄な体を跳躍させ、小豆色の髪を靡かせながら、狸人グムグがちょこまかちょこまかと逃げ続けている。
「ああ、もう!」
自慢の棍棒を振り回す。だが、後少しだけ届かない。
次々と吹き矢が迫り来る中、ニユの跨る雌山羊が必死に敵を追い掛け、もうすぐ追い付くその時、狸女が驚きの行動に出た。
彼女は思い切り床を蹴り、壁に足を付ける。そのまま垂直な壁をまるで平らであるが如く駆け登り、天井のシャンデリアに飛び乗ったのである。
一方、勢い余ってエジーは壁に激突、ニユも一緒になって倒れ込んだ。
「でも諦めない!」
全身痛むが怯まずに立ち上がり、ニユは狸人を睨み付けた。
豪華なシャンデリアの上、こちらを見下ろす狸人の姿がある。彼女は丸っこい狸耳をひくひくさせて嘲笑った。「ああ、滑稽。滑稽ですわあ。ねえ、ねえ、ねえ! なんて滑稽なのですかしらあ。まだ諦めないなんて、そんな事言っても、負け犬の遠吠えなのですわあ。私の毒矢を受けなさあい。……それ、それ、それ、それ、それ、それ、それ!」
楽しげに歪んだ笑みを浮かべ、狸女が吹き矢を放つ。
瞬きの後、天から無数の矢が降り注ぎ、棍棒で防ごうとするニユだが間に合わず、全身に突き刺さる――、寸前。
「滑稽なのはあんたの方だわ。うちは、あんたなんかの相手をしてる暇はないのよ。……存分に泣き喚きなさい」
ニユの背後から声がして、矢が一瞬にして真っ二つにされる。そして、煌く何かが真っ直ぐに飛んで行き、狸人グムグの腹を切り裂いた。
「ふ、へ?」
腑抜けた声を上げた亜人。次の瞬間、盛大に血を撒き散らしながら床へ真っ逆さまに落ちる。
それと同時にニユの視界の中に現れた赤毛の少女、彼女は軽く微笑み、そしてニユの頬を軽く引っ叩いた。「役立たずっ」
「ごめん」それを受けてニユは、驚きつつも可愛く舌を出して謝罪する。
「謝るのは全部が終わった後よ。……トドメはあんたが刺しなさい」
モイザの言葉に姿勢を正し、ニユは敵を真っ直ぐに睨み付けた。
血を流しながら呻き、諦め悪く身悶えする亜人へ、終わりを告げなくてはならない。
長い長い亜人との因縁、その終わりを。
「助けて下さいなあ。もう大人しくしますからあ」
小豆色髪を振り乱し、醜く泣き喚く狸女の姿は、なんとも哀れだ。しかし、ニユの心に一切の同情はない。――彼らは、その存在からして忌むべき者達なのだから。
「悪いけど、ここで死んでもらうよ。これ以上貴方達を放って置く事は、アタシにはできない。……貴方のご主人様もやっつけるから、地獄で見といてね」
「ひっ」
微笑む茶髪の少女の手から振り下ろされる棍棒が、最後の悲鳴を上げる半獣娘の頭を叩き割っていた。
血飛沫が上がり、後は物言わぬ亡骸が残っているだけだった。
「……やった、みたいだね」
安堵し、跨るエジーの頭部の上に、倒れるようにして覆いかぶさるニユは大きく息を吐く。
そして同時に、廊下中に光が満ち、もう一つの戦闘にも幕が降りた。
――最後の亜人戦、その決着であった。
「傷だらけみたいだけど、無事で良かったのね」
ニユとモイザの傷を治しながら、ラフレシアがそう微笑んだ。
「ラフレシアこそ、大丈夫そうで何よりだよ。あの熊人を倒してくれて、ありがとう」
ニユでは、あの強力な亜人に勝てなかったかも知れない。ラフレシアの超常的な力があってこそ、勝利する事ができたのだ。
「当然なのね。だってワタクシは、ニユの契約悪魔なのね。契約悪魔である以上、契約者に尽くすものなのね」
青紫色のドレスを揺らし、ふんぞり返って自慢げな白髪の少女。ニユは微笑でそれを眺めた。
「微笑ましい所悪いんだけど、うち、早く行きたいわ」
突然のモイザの言葉に、ニユはハッとなる。
彼女の言う通り、こうゆっくりしてはいられない。茶髪の少女は王の間への大扉を見つめた。
「きっと、あの中にブライアンと、もしかしたら西の悪魔がいるに違いないね。……行こう!」
少女全員が跨った白山羊が、ゆっくりと扉の前に進む。そしてニユは、大扉を押し開いた。
この先に、何が待ち受けているのか。ニユの胸は不安と期待という、相反する感情に高鳴っている。
でも、心は決まっている。――何があろうと絶対に、最後はみんなで笑い合うと。
そして開いた扉の中、広間の中央で玉座に腰掛ける人影がある。
それは、こちらを見るなり笑い出した。
「ふふふ、ふは、はははは。や、やっと来てくれたねえ。僕は『幸神』ブライアン。よろしく。ふふ、は、はは、わははは」
『幸神』ブライアンと名乗った人物。頭から足まですっぽりと白い布を被った青年は、笑い、笑い、狂気的に笑い転げている。
覚悟はしていたのに、ニユの背中をゾッと悪寒が走った。――ブライアンは、見るからに頭のイカれた狂人だったのだ。
彼は尚も喋り続ける。
「で、でも、君達はここで死ぬんだ。愚かしいねえ。ふははは、はは。君が望む未来は来ないよ、ニユ」
突然に自分の名前を呼ばれ、茶髪の少女は茶色の瞳を丸くし、身を強ばらせずにはいられない。「なんで、アタシの名前を……?」
まだ一切名乗っていない筈だ。まさか『幸神』は、予知でここへ訪れると知ったニユ達全員の名前を知っているのだろうか。
だが、その考えはすぐに『幸神』の口によって否定される事になる。
「君の考えは手に取るように分かるが、それは違う。僕は君の名を知ってて当然なのさ。……、オレを殺し切れたとでも思ってたのかよ? 本当、兄貴とお似合いの、馬鹿な小娘だぜ」
「……!」
白い布を剥ぎ、姿を現した狂人に全員が息を呑む。ただ、ニユ一人がその意味が違っただろう。
驚愕。それ以外の言葉で表せない感情が胸に走り、ニユは一瞬自分の目を疑った。
だって。だって、そこにいたのは。
「ドン――!」
黒髪藍眼の少年――、否、魔人が、こちらを嘲笑っていたのである。




