三 南大橋
蛇の山を離れ、南を目指す事十日。
山を越え、幾つもの街を抜け、ただひたすらにエジーを走らせて辿り着いたのは、大陸最南部のとある町だった。
男爵邸からもそう遠くはなく、半日程行け場帰れるのだが、ニユは戻るつもりはない。
何故なら、置き手紙に書いたからだ。全てが終わってから帰る、と。だから、男爵邸にはまだ戻らない。
ニユ達が南を目指して来た理由――それは無論、南の悪魔の居城である、大陸から少し南の小島へ行く為だ。
「島に上陸するには、南大橋という大きな橋を渡らなければならないらしいわ」
朝早く、朝食を食べながら地図を覗き込んで、モイザがそう言った。
「南大橋、か……」
南の小島には、島特有の部族が住んでいると、ニユは聞いた事がある。でも何故だか橋を渡る事は、ほとんど叶わないらしい。
「でも」橋を渡らなければ、南の小島には辿り着けないのだ。
「心配する事はないのね。ワタクシが鳥になって貴様達を運んでやるのね」
だが、心を決めたニユに、ラフレシアが思いも寄らない方法を提示して来た。
あまりに突飛な意見だが――。「確かに、その手はありだね」
それなら、何の危険も冒さずに、島へ上陸できる可能性が高い。
「うちも、その方が良いと思うわ。山羊に乗らなくて良いし」
モイザも、エジーに乗りたくないという別の角度から賛成。彼女は未だに動物は苦手である。
「じゃあ、そうしよう。朝ご飯が終わったら早速行っちゃおう」
宿を出て、エジーをしばらく走らせ海岸までやって来た。
目の前に、黒く立派な南大橋が立ちはだかっている。そしてその彼方には、小島が見えた。
「ここなら良いのね」そう呟き、白髪の美少女が真っ白な巨鳥に姿を変えた。
その背中に、ニユとモイザ、エジーが飛び乗る。
ちなみに何故宿の前からラフレシアに乗らなかったのかと言えば、一つは彼女が疲れてしまうからと、そしてもう一つが他人に怪しまれるからである。一度悪魔を連れていると知られれば、どんな目に遭うか分からない。元々悪魔は忌み嫌われた存在なのだ。
「実際は、結構可愛いけど」
ここ数日旅して分かったのだが、決して本人は認めないものの、ラフレシアは意外に優しいという事だ。
性格がひん曲がっていた北の悪魔、ダフォディルとは大違いである。
それはともかく、全員が乗り終えたのを確認すると、ラフレシアは大きな純白の羽を広げ、飛び立った。
「落ちないように気を付けるのね。落ちたら、ひとたまりもないのね」
「あんたこそ、うちらを振り落とさないようにしなさいよ」
そんな会話をしながら、上空へ上空へと舞い上がっていく。
ラフレシアにしがみ付くニユは下を見下ろし、大興奮。
「見て、南大橋!」なんと長いのだろう。永遠と思える程に伸びている。「見て見て、海が綺麗! それに遠くの山まで見えるよ、凄い!」
そのあまりのはしゃぎぶりに、「静かにするのね!」とラフレシアからお叱りを受けた。
でも本当に景色が美しい。青空に映える、絶景だ。
はるか下の南大橋に添い、白い巨鳥は飛び続ける。
一方エジーはと言えば、落ちないようニユが抱え込んでいる。毛がもふもふで気持ち良い。が、白山羊自身は怖がっているようで、ブルブル震えていた。
そんなこんなありながら、楽しい空の旅――に、なる筈だった。
「何!?」
しかし突然、すぐ隣を稲妻が走ったのだ。
「危ない! 伏せなさい!」
モイザの声がし、頭を下げてみれば、ニユの頭上を閃光が駆け抜けて行った。
「……、下を見るのね」
ニユは、ラフレシアにそう言われて地面を見下ろし、絶句する。
そこに無数の黒い影があったからだ。
いつの間にだろうか、南大橋を一面埋め尽くしているそれは、ペンギンに他ならなかった。ただし、漆黒の。
「魔獣……!」
つまりこれは、南の島へ行かせまいとする、魔獣の襲撃なのである。
再び、光がこちらへ迫る。今度はラフレシアの右翼を貫き、背後へ消えて行った。
否、光ではない。それは真っ白な、炎だった。信じられない事だが、炎がまるで稲妻のように飛んで来たのだ。
「うがああああ」叫びながら、ラフレシアが落ちて行く。
彼女に必死で抱き付きながら、ニユの頭に死への警報が高鳴り、叫んでいた。「うまくかわして、海へ飛び込んで!」
「分かった、のね」
体のすぐ近くを、炎の閃光が通り過ぎて行く。悲鳴がし、モイザの右足がもげ、ラフレシアのもう片方の羽も折れた。
落ちる。落ちる。どんどん落ちて――。
ぼちゃん。
水に全身を叩き付け、一瞬海の中に沈んだ。
「おぷ、あぷ」息が苦しい。水を飲む。溺れる。「た、すけて……」
すぐそこの橋の上から炎の稲妻が放たれた。海から突き出した左手が焼かれる。熱い。痛い。死ぬ。こんな所で。誰か。死ぬ。苦しい。
痛みに、意識が遠のいて行く。そんなニユの体を、右足から血を流し続けるモイザが揺さぶった。「しっかりしなさい! ラフレシア、早く!」
「分かってるのね!」
ラフレシアが浮き輪に姿を変え、浮上する。水上に頭を突き出した少女達はなんとか意識を繋ぎ、一呼吸。そして東の悪魔の妖術によって体に負った傷が消えて行き、脳に響いていた激痛は治った。
「はぁ、はぁ。……ありがとう」
ニユは一安心。だが直後、その体をモイザが抱き寄せていた。
「え?」
背後を炎が走る。次は前だ。避ける。危ない、すぐ横に。ああ来る。来る。どんどん稲妻が、炎が、放たれてこちらへ来る。
「これじゃ、埒が明かないのね」
橋の上に登れれば、とニユは思うが、そこまで行ける筈がない。橋上の魔ペンギン達が放って来る炎は止む事を知らないのだ。
これが南大橋を渡れない理由。普通なら炎の閃光を喰らえば一発で死んでしまうだろう。
でもラフレシアなら。「ラフレシアなら、風に変身して上に行って、やっつけられるんじゃない?」
だがニユの提案に、浮き輪になったままの彼女は首を振った。「でも、その間の浮き輪はどうするのね? ああ、危ないのね、山羊!」
エジーのすぐ背後を、炎が通って行く。
「確かに、浮き輪か……」
浮き輪の代替品を用意する事なんて、この状態でニユにもモイザにもできる筈がない。それに今だって危ないのだ。早くなんとか状況を打開しなくては――。
「馬鹿ねえ。……うちらも風になれば良いんじゃないの」
橋の上に群がっていた、漆黒のペンギン達が、次々に弾け飛び、肉片が辺りを舞い散る。
生き残り、炎を黒い嘴から噴き出すペンギン。だが、それらも一瞬にして突如現れた斧で真っ二つにされた。
ニユは宙を舞いながら、今までにない、不思議な感覚を得ていた。
モイザの提案で、ニユ達三人とエジーは、ラフレシアの力によって風に変化した。
そして海上から橋の上へと舞い上がり、激しい戦いを繰り広げ始めたのである。
現在ニユに実体はない。だが、ペンギンを包み込み、握り潰す事で破裂させ、どんどん血の花を咲かせていた。
パン! パン! と音を立てながら、彼方でペンギンが弾けるのは、きっとモイザの仕業だろう。
一方のラフレシアは斧や槍、時には鞭など様々な物に姿を変え、魔ペンギン達を引き裂いていく。いくら炎で焼き焦がされようとも、風に戻れば大丈夫だ。
同じく風になったエジーは、体当たりをして敵を吹き飛ばし、力を尽くしてくれている。どんな姿でも、物凄く頼りになる。
炎がニユの体をすり抜けて行く。まあ、今は体がないので意識、というのだろうか。
「ごめん、ね!」
そう心で叫び、ニユが握り潰したペンギンから、次々と上がる甲高い悲鳴。
見ると南大橋はすっかり血溜まりと化し、その上の百匹程の魔物が、見えざる敵へ炎を向けていた。
「ニユ、モイザ、離れるのね。これから激しい事をするのね!」
風から実体――漆黒のドラゴンの姿に戻ったラフレシアがそう叫ぶ。
「分かった」と、口がないのでやはり心の中だけで呟いて、ニユは海上の空中へと退避する。モイザやエジーも、逃げている事だろう。
「行くのね! 汚らしい魔獣は、死に伏すが良いのね!」
一斉に自分へ向かう炎の稲妻をものともせず、悪魔は一瞬で無数の鉄の針へと変化した。
それが一度に魔獣の群れへ降り注ぎ、容赦なく体を貫く。
「ピギギギギィ!」
この世のものとは思えぬ悍ましい絶叫が響き渡り、橋上に血の雨が降り注いだ。
――こうして、南大橋の戦いは終結したのである。
「モイザ、凄いね。一緒に風になって戦うなんて、アタシ、全然思い付かなかったよ」
「……悔しいけど、人間にしては冴えているのね」
戦いが幕を下ろし、血だらけの南大橋の上でニユとラフレシアから賞賛を受けたモイザは自慢げだ。
「当然よ。うち、頭が良い自信はあるの」
この作戦はモイザが思い付き、ラフレシアの力で成し得たもの。――本当に、ニユは二人に心から感謝せずにはいられない気持ちだ。
「それにエジーもね。ありがとう」
茶髪の少女に撫でられ、元の姿に戻った愛山羊も嬉しそうである。
「とりあえず、魔獣どもはやっつけたし、橋を渡ろうか」
果てしないと思われた南大橋――、だがその終わりは見えている。
エジーに跨りながらそう言うニユに、モイザは嫌そうに首を振った。「いいえ。ラフレシアに乗りましょう。山羊に乗るよりずっとマシだから」
だが――。「ワタクシは疲れたのね。もう飛ぶ力は残ってないのね、山羊に乗って行くのね」
「えー。悪魔なんだから、頑張りなさいよ」
余程エジーに乗って移動するのが嫌らしく、モイザは尚もわがままを言うが、ラフレシアは首を縦に振らなかった。
「南の悪魔との戦いに備える為もあるのね。賢いと言うのなら、我慢するのね、小娘」
「……分かったわよ」
渋々、といった様子で、モイザも白山羊に乗る。白髪の少女もその後に続いた。
それを見届け、ニユは可憐に微笑んで叫んだ。
「さあ、南の小島へ!」
橋を渡り切って、ニユが最初に感じたのは暖かな風だった。
目の前に広がるのは、緑豊かな長閑な村。――やっと、南の小島に上陸できたのである。
「おお、何者かが来たぞ」
声がし、そちらへ視線をやれば、五人程の老人達が目を丸くしてこちらをマジマジと見ている。
その褐色の顔面には奇怪な模様、恐らく刺青と思われる物が施されている。
「あんた達は?」
首を傾げる赤毛の少女の質問に、老人達は不審げな顔で答えた。「我々は、この島の住民。見かけない顔だ。そちらこそ何者だ!」
「アタシ達は旅の者だよ。橋を渡って来たんだ。ちょっとこの島に用があるんだよ。ちょっと、聞いて?」
簡単に事情を話すと、老人達は頷いてくれた。
「そういう事であったか。あの橋の魔物には、我々も困り果てていたのだ。――それを倒してくれたとは、なんと有難い事か。さあさあ、こちらへ」
と、いう訳で村の宿へ案内されると、そこにはやはり部族らしい刺青をした若い女性が待っていた。「あら。外からお客さん? 珍しいものね。まあ、橋の怪物をやっつけてくれたの。ありがとう! どうぞどうぞ、私の宿で泊まってね」
やはり魔獣を倒したニユ達を歓迎し、女性はなんとただで宿の部屋に通してくれた。
「みんな、喜んでくれてるみたいで良かった」
ニユは村人達の安心したような笑みが嬉しくて、そっと笑った。
「そうね。うちらの行動が、図らずも部族達の役に立ったみたいね。まあ、うちにとってはどうでも良いけど」
気付くと時刻はもう夕刻だ。「南の悪魔の所へ行くのは明日にして、今日はゆっくり休むのね」
ニユもモイザも、今日はもうクタクタだった。ラフレシアの言う通り、明日、南の悪魔とのご対面にしよう。
夕食を取り、ベッドに横になりながらニユは考える。
「一体、南の悪魔ってどんな奴なのかな?」
友好的であってくれれば良いな、と思いながら、こうも思う。
あの黒ペンギンは、きっと南の悪魔を守る為に作られた魔獣に違いない。だから、きっと南の悪魔も、警戒体制なのだろう。
「まあ敵対的でも、戦って仲間に付けるだけだわ。……『望みを叶える』悪魔であって欲しいけれどね」
「本当なのね」
さあ、明日はどんな一日になるのだろうか。
僅かな不安と、強い期待を胸に抱きながら、茶髪の少女は深い眠りの世界へ落ちて行くのだった。




