一 懐かしき男爵邸
暖かな日差しの降り注ぐ、心地の良い昼下がり。
辿り着いたのは、石造の豪邸だった。
それを目にする茶髪の少女、ニユは懐かしさに思わず長く息を吐いた。
吐息は感慨によるものであり、決して負の意味ではない。
ずっとここに戻って来るのを心待ちにしていた。――現在は、思い描いていた最善の状況ではないけれど。
跨っていた純白の雌山羊、エジーから軽やかに飛び降りる。
すっかり懐いた愛山羊を馬小屋で待たせ、豪邸、男爵邸の正門を開け、中へと足を踏み入れたのだった。
ニユはここ、ドッゼル王国の男爵令嬢である。
とある事情により、二ヶ月近く旅に出ていたのだが、やっと、ここへ帰って来たという訳だった。
扉を開けると、屋敷のメイド長がすっ飛んで来た。「どちら様でございましょう?」そして、ニユの姿を見て目を見開く。「ニユ様!」
驚かれるのも当然だ。なんたって、ニユは置き手紙を一つだけ残し、無言でこの屋敷を旅立ったのだから。
「ただいま。……心配かけて、ごめん。入るよ」
懐かしき我が家。世界が混乱に呑まれたというのに、何も変わっていない。それに茶髪の少女は心から安堵した。
最悪、屋敷が焼かれていた可能性だってあったのだ。
食堂へ入ると、高年の男女が机を囲み、紅茶を啜っていた。
見慣れていた筈のその光景を見て、ニユは涙が出そうになった。
「……母さん、父さん。ただいま」
たった二ヶ月ぶりなのに、まるで一年も二年も会っていなかったみたいに思うから不思議だ。
お茶をしていた男女二人――男爵夫妻が、ニユを見つめる。そして男爵夫人が、突然飛び付いて来た。「ニユっ」
抱かれ、ニユは温もりに、思わず泣き出してしまう。母の懐は、なんと心地良いのか。
「ニユ、ニユ、ニユなのね。本当にニユね。ああ、心配したのよ。ほんとに、ほんとに心配したんだから……」跳んで喜ぶ男爵夫人は、娘の頭を撫で繰り回しながら涙した。
「母さんっ、母さんっ、ごめん……。ごめんなさい。父さんも」
仰天する男爵。だが彼はすぐに、穏やかに微笑んだ。「おかえり。絶対帰って来ると思ってたよ」
「ありがとう」ニユも負けじと、明るい笑みを浮かべる。
感動の再会は、今、果たされたのだった。
「ニユ様が戻られたお祝いです。今日はご馳走にしましょう」
そう言ってメイド長が張り切って夕食を作り始めたのだが……、ここまで豪華だとは思わなかった。
机に並べられた夕食を見て、ニユはびっくりする。
ありとあらゆる高級食材を揃え、ニユの好物だらけのメニュー。見るだけで涎が出て来た。
「わあ。美味しそう。ずっとパンだけだったから、こんなの久し振り。いただきまーす」
目で美味しい、鼻で美味しい、舌で美味しい。もう最高の料理だ。
長らく、基本的にはパンしか食べていなかったニユは、華やかな食事に心から癒される。
そんな彼女へ、突然に男爵夫人から問いが掛けられた。
「ねえ、ニユ。置き手紙に旅に出るって書いてあったけど、何をして来たの?」
笑顔で夕食を口に頬張っていたニユの手が、一瞬止まる。
問われて当然の事だが、すっかり気を抜いてしまっていたのだ。
どこまで話して良いのだろうか、と彼女は迷った。
本当は全部、洗いざらい話したい。でもそれではダメだ。きっと心を柔らかく折られてしまう。だから、ニユはできる限り簡略に、今までの事を語り始めたのだった。
始まりは、黒髪の少年ケビンと出会った事。
漆黒の犬達に付け狙われる彼を助け、この屋敷に招いて、泊めてやった。
しかし真夜中、彼がニユの部屋を訪れて、自分が第二王子である事を明かした。そして一緒にこの世界を揺るがす魔人、ドンを倒す為に旅に出てくれと懇願。
ニユはそれを引き受けて、メイドかつ一番の友達であったグリアムと、三人で出発した。
本当に、色々な事があった。
そしてルーマーという少女を仲間に加えて、北の最果て、魔人の城付近まで辿り着いて。
悲しみの連鎖はそこからだった。
氷のドラゴンの尾が腹に突き刺さって、ルーマーが死んだ。
敵城へ入ってからすぐ、人馬人との戦いでグリアムがニユを庇って絶命。
最後には蛇女に傷付けられ、大量出血でケビンも死んでしまった。
全ての仲間を失ったニユ。だが奮闘し、ドンを倒す事に成功。
そして『救世主』と称えられるようになったのであった。
語り終えると、両親は目を丸くした。
娘がこんな大冒険をしたなんて、無論、すぐには信じられないのだろう。
でもニユの、嘘偽りのない綺麗な眼差しを見て、すぐに疑いは消えてしまったらしい。
「そうなの。母さん誇りに思うわ」
「そうか。……ありがとう。お前は偉いよ。だが、もう二度と、勝手に遠くへ行かないでくれ。お願いだ」
母の賞賛と、父の願いを受け、ニユは頷く。
そのまま談笑は続き、やがて食事も終わって、ニユは寝室へ行く事にした。
「おやすみ、母さん、父さん」
「おやすみ」
抱き合い、部屋に入る。
またしばらく見れないであろう、両親の顔を脳裏に焼き付けながら。