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第9話:最終戦・上

「どういうことだシャヌス!?」


 落ち着きのある深い色合いの調度品でまとめられた豪奢な貴賓席に、魔王子グレイの甲高いヒステリックな声が響く。


「奴は、いや、お前たち兄妹(きょうだい)はルフナに何をしたんだ!?」


 闘技場で成される闘士同士の会話は、魔術的な仕掛けにより細大漏らさず観客に聞こえるようになっている。先刻のウヴァとベルガモットのやりとりも例外ではなかった。

 グレイは困惑していた。

 かつて愛した娘の身に、()()()()()()()()()()()が起きたのは承知している。だが、彼が知っているのは所詮は言葉の上での話である。


『貌に傷を負い、純潔を失った』


 言葉という記号に変換された現実は、僅か十数字である。婉曲化された光景は、受け手の感性によってはどこか淫靡で蠱惑的ですらある。


 傷物になってしまった少女が自ら身を引き、社交界から姿を消した。


 それが、ルフナに起きた事件に対するグレイの認識だった。


「右目とは何だ!?」


 しかし、現実はグレイの想像をはるかに超えて残酷だった。

 グレイが最後に見たルフナは、たしかに右目に包帯を厚く巻いていた。

 だが、まさか眼球を失っていたとは思わなかった。


「……」


 シャヌスは黙したまま静かに紅茶をすする。ぼんやりとティーカップを見つめているその眼差しから、彼女の感情は一切読めない。


「ペコーは、お前の何なんだ!?」


 王都の広場で(はりつけ)にされていた裏社会で幅を利かせていたならず者と、シャヌスとの関係を示唆していたあの事件が、闘技場での彼らのやりとりとつながっていく。

 グレイの中で、あらゆる情報がルフナのか弱い儚げな身体に集約されていく。


「答えろ! お前たちは、ルフナに何をしたんだ!?」


 ヒステリックに声を荒げるグレイ。だが、対するシャヌスは無表情で小首をかしげ、静かにつぶやいた。


「……あぁ、ルフナ」


 まるで今までその名を忘れていたかのような声色だった。グレイは背中に何か薄ら寒いものが滑り降りるのを感じる。


 そこへ、何かが投げ込まれた。どさり、と重い音が響き、侍女たちが悲鳴を上げる。

 それは、壊れたベルガモットだった。

 美貌が見る影もなくはれ上がり、歯の抜けた口からはうまく聞き取れない言葉のようなものががぶつぶつと垂れ流されていた。


「所詮はダークエルフ……」


 そんな義兄の変わり果てた姿に、シャヌスは冷たく吐き捨てた。


「まさか、一介の乳母に何もかも壊されてしまうとは……」


 薄い唇が三日月のような笑みを形作った。それは嘲笑だった。

 その嘲りは半ばシャヌス自身にも向けられているようだった。その貌は蝋人形のように無表情である。


「シャヌス……君は一体……」


 魔王子の声に怯懦(きょうだ)の色が混じる。そんな彼に、シャヌスは微笑みかけた。

 酷薄の中に慈愛と憐れみを含んだ、不気味な色合いの微笑みが、グレイには牙を剥きだしにする得体の知れない怪物のように見えていた。


 数分後、貴賓席から異様な音を聞いた数人の警備兵が部屋を訪れた。呼びかけに応えはなく、恐る恐る豪奢な扉を開いた彼らが見たのは、全身を切り刻まれて惨殺された10人ほどの男女だった。彼らは魔王子グレイとその婚約者の侍従を務めていた者たちだった。死体の山に埋もれていた唯一の生存者(ベルガモット)は、呆けたようにうわごとを繰り返すだけでものの役にも立たなかった。


 そして、惨殺された死体の中に魔王子グレイとシャヌスの姿は無かった。



◇ ◇ ◇



 シャヌスがルフナと初めて出会ったのは、王都の寄宿学校だった。


「何だか、恥ずかしいな……」


 ルフナはシャヌスの来ている服を見ていた。この時のルフナの格好は厚手の生地で仕立てられた白いエプロンドレスであり、首元や手首までしっかりと布で覆われ、大きく広がった釣鐘型のスカートは地面をこするほどの長さがあった。

 王都の流行は絹や麻の薄い生地で肩や太腿を大きく露出させるものであり、名家の令嬢とは言え王都とは遠く離れた領地から出てきた少女の姿は純朴に過ぎた。


「わたくしも、ですわ」


 ルフナの気持ちは深く理解できた。シャヌスの来ていた服は形こそ王都の流行に沿っていたが、それは偶然の結果でありエルフの一般的な服装が当時注目されていたにすぎない。

 その証拠に、王都の女性たちは原色に近い派手な色合いの服を着ていたのに対し、シャヌスのそれは地味な草色をしており、野暮ったさは如何(いかん)ともしがたかった。


 要するに、2人とも身分はあるものの結局は田舎から出てきたおのぼりさんに過ぎなかったのである。


 そんな2人はとても気が合った。まるで幼い頃から共に育った姉妹のように。


 ルフナは吸血姫の暗く廃頽的なイメージとは程遠く、陽光に銀色の髪を煌めかせ、小さな身体を目いっぱい動かして全身で感情を表現する少女だった。

 子犬のように人懐っこく、ころころと表情を変える彼女をシャヌスはいじらしく思っていた。一方で、時折見せる腹を据えた時の意志の強さ、鋼線のような心の芯には尊敬の念すら抱いていた。


 ルフナを嫌ったことなど一度もない。

 ただ1つの点をのぞいて。


(あの吸血嗜好さえなければ……)


 それが吸血鬼(ヴァンパイア)の生命維持に必要な生態だというのなら、憐れみと共に許容できたかもしれない。だが、そうではなかった。

 他の吸血鬼(ヴァンパイア)は不明だが、少なくともルフナはパンと野菜と肉か魚があれば飢餓を感じることはなかった。

 彼女の吸血欲求はどちらかと言えば性欲に近く、それも理性の下で制御可能な嗜好と言うべきものだった。


 かつて一度だけ、ルフナがうっとりと潤んだ眼でシャヌスの首筋を見つめていたことがある。あの時の、身の毛もよだつ生理的な嫌悪感はしばらく忘れる事ができなかった。

 ルフナもシャヌスの気持ちに気付いたのか、後にも先にもあのような目つきをしたのはあの時だけだった。それでも……


「……」


 シャヌスは首を振ってまとわりつく思考を振り払った。

 思い出すだけでおぞましい。想像するだに恐ろしい。


「やめろシャヌス! 何をするつもりだ!」


 かたわらでグレイのわめき声が聞こえる。彼は今、魔法の鎖でぐるぐる巻きにされ、2体の木偶(でく)人形に担がれていた。すべて、シャヌスの高度な魔術だった。


(もし、ルフナがこの男と結ばれていたら……)


 あの吸血嗜好が王都に流行する時が来るかも知れない。王都の流行は、文化の醸成である。それだけは許してはならなかった。


「何なんだ、ここは……」


 2人は今、魔王城の地下迷宮を進んでいた。


 魔王の息子が怯えた声を上げた。自分が生まれ育ったはずの王城にこのような場所があることを彼は知らなかった。ゆえに、余所者(よそもの)であるはずのシャヌスがこの場所をまるで自分の家の庭のように歩いているのが不気味であった。


「殿下は、王都の成り立ちをご存知ですか?」

「知っている」

「始まりは小さな集落に過ぎませんでした。戦災、貧困、逃亡した奴隷――あぶれ者となった様々な種族の者たちが寄り集まり、家を建て、狩猟と採集で食いつなぎ、やがて農耕を始め――」

「知っている!」


 グレイの苛立ちは恐怖の裏返しでもあった。それを見透かしたシャヌスはそっと肩をすくめた。反抗期の弟に手を焼く姉の目をしていた。


「では、歴史の裏側の話をしましょう」

「裏側?」

「魔王様の世界統一はこの土地から始まりました。しかし所詮は逃亡者たちの隠れ里。土地は痩せ、交通の便は極めて悪い……。この地を王都に仕立て上げる労力と犠牲は計り知れません」

「何が言いたい?」

「王都に相応しい土地は他にいくらでもありました。つまり、魔王様は郷愁(きょうしゅう)だけでこの地を王都に選んだのではないのです。あの方は、()()()()()()()()()()()()()()()のです」


 広大な迷宮が唐突に終わりを迎えた。長く真っ直ぐな廊下の向こうに、巨大な扉が現れた。

 囚われの魔王子を石の床に降ろし、木偶人形たちが重い扉を押し開いた。

 現れたのは、書斎ほどの広さをした殺風景な部屋だった。唯一の(あか)りは、のっぺりとした床の中央に描かれた精巧な魔法陣から発する青い光だった。


「これは……?」

「かつて、ニンゲンの国に勇者と呼ばれた青年がいました。祖国とそこに吸まう同胞たちの命運を負わされた青年は、前面にそびえる強大な魔王の力に、背後に(うごめ)く味方の顔をした敵たちに、そして、1人、2人と失われていく仲間たちの命に、心を蝕まれていきました」


 暗い室内に、シャヌスの声が唄うように響く。あるいは、呪詛のように。


「しかしある時、青年は知ってしまったのです。あらゆる状況を打破する逆転の一手を」

「それは一体――ッ!」


 その時、凄まじい激震が部屋を襲った。


「くっ、乱暴な――」


 シャヌスの悪態をかき消す爆音と共に粉砕される石の壁。そして室内に吶喊(とっかん)する巨大な影。薄桃色の肌の凛とした女性の上半身と、黒と白の斑をした屈強な獣の後肢。そして二つの艶めかしく巨大な乳房。


「迷宮を真っ直ぐ進んでくるなんて、無粋ですよウヴァ様」

「私ごときの名前を憶えていて下さるなんて光栄の極みです。未来のお后様」


 そんなウヴァの身体からは、怒気が立ち昇る様が目に見えるようで、さすがのシャヌスも笑顔が引きつるのを止めることができなかった。


「ここで何をしているのです?」


 鋭い目を向けるウヴァに、グレイは助けを求めようと口を開く。だが、その時にはすでに魔法の鎖がグレイの口もとに絡みつき、(のど)を締め上げて言葉を封じられていた。


「自衛ですわ。義兄を失った今、わたくしはこのか弱い身を理不尽な暴力から守らなくてはなりません」

「理不尽?」


 ウヴァの柳眉がぴくりと跳ね上がる。

 それを見たシャヌスは、さも慌てて取り(つくろ)うようにまくしたて始めた。


「ウヴァ様、貴女は誤解をされているようですわ。確かに、義兄(あに)のしたことは許されることではありません。貴女のお怒りもごもっともです。でも、わたくしも知らなかったのです。よもやルフナを傷つけたのが義兄(あに)だったなんて……」


 細い指の爪が手の平に食い込み、シャヌスの拳から血が滴る。噛み締められた奥歯からは今にも軋みの音が聞こえてくるようだった。

 大粒の涙が翡翠色の瞳を濡らし、ぽろぽろと流れ落ちる。


義兄(あに)は、わたくしのために……わたくしを……殿下に嫁がせるために……ルフナを……ッ!」


 そこには、傷ついた親友を想い、外道に()ちた身内への愛憎に揺れ動く女がいた。


(何なんだ、この女は!)


 魔王子グレイは戦慄していた。つい先刻までルフナのことなど忘れていたシャヌスの演技に、ではない。

 見え透いた嘘で自分自身を取り込み、本心からの血と涙を流す彼女の精神性に、である。


(化け物……)


 魔族の王子をしてそう呼ばせてしまう存在。

 こんな者を妃に迎えていたら、半年も経たずに国は彼女に乗っ取られていたに違いない。


「ベルガモットがお嬢様にしたことを、貴女は知らなかったのですね?」

「当然ですわ! ルフナはわたくしにとってかけがえのない親友です! 義兄の企みを知っていたら、この身を(てい)してでも阻止いたしましたわ!」


 胸元のブローチに誓いを立てるように、シャヌスは叫ぶ。シャヌスの発する熱い感情の波を、ウヴァは重く冷たい鉱石のような佇まいで受け流す。


「その言葉が聞きたかった」


 (くら)く燃える瞳がシャヌスを射抜く。


「シャヌス様のお召しになっているそのブローチ、見覚えがあります。お嬢様が、亡き奥様から受け継いだ形見の品によく似ている」

「当然ですわ。ルフナが()けていたものがあまりに素敵だったから、よく似たものを取り寄せたのです。まさかお母さまの形見だとは知りませんでしたが……」


 シャヌスとしてはウヴァの追及を牽制したつもりだった。だが、次のウヴァの言葉はシャヌスの虚を突いた。


「でしょうね。シャヌス様が、お嬢様のブローチを身に着けているはずがない」

「……それは、なぜですか?」


 (いぶか)しむシャヌスに、ウヴァは告げた。


「お嬢様のブローチについていた宝石は、()()()()ですから」


 その刹那、シャヌスの(かお)から血の気が引いた。

 数多(あまた)の妖精や精霊の命を搾取して精製される人造魔石は、生命と魔力を凝縮させた禁忌の美しさを持つが、一部の種族――特にエルフ等にとっては、腐乱した水死体を見るような生理的拒絶感を掻き立てる代物である。

 例え千の仮面を使い分ける女優であろうとも、身体の内から沸き上がる種としての根源的恐怖には抗えない。


「嫌ァ!」


 発作的にブローチをむしり取り、床に投げつける。

 だが、ブローチはウヴァの凄まじい反射神経により石床にぶつかる前に拾い上げられていた。


「嘘ですよ」

「……」


 今更ながらシャヌスもわかっていた。魔力に敏感なハイエルフが天然の魔晶石と人造魔石の区別がつかないはずがない。だが、それでも、一瞬の心の隙を最悪の形で突かれてはひとたまりも無かった。


「でも、貴女は自分で認めたわけです。このブローチがお嬢様の物であると」

「ウヴァ……」

「お嬢様がブローチを身に着けたのは、()()()が最初で最後。つまり、貴女がこのブローチをお嬢様の物だと知っている以上、ベルガモットがお嬢様にしたことを貴女も知っていたことになる」


 ぎり……と歯の(きし)む音が聞こえた。


「貴女は、お嬢様から右目を奪い、純潔を奪い、尊厳を奪い、未来を奪い、母親とのつながりまで奪った――!」

「ウヴァ……」


 陶器のように白く滑らかな肌に、青黒い血管が走るように浮かび上がる。


「ウゥヴァァァァァァ……」


 嘘の仮面を理の爪ではがされたシャヌスの(かお)は醜く歪んでいた。


「ふふ、あはは、アハハハハハハハハ!」


 引きつった顔のまま、シャヌスは哄笑した。


「アハハハアハハァァァァガアアアアアアアアアア!」


 哄笑が咆吼に変わる。

 がくりと膝を付き、腕を巻き付けるようにして自身の身体かき抱くと、破片にまみれた石床に自らその壮絶な笑顔に激突させた。


「このわたくしがあぁあぁああぁあああぁぁぁ! 獣人ごときにぃいいぃぃぃいいいいいぃぃ!」


 何度も、何度も。辺りに血の雫が飛び散る。

 鼻が折れ、歯が砕けてもなお、顔面をぶつけ続ける。


「はぁ……はぁ……」


 瓦礫(がれき)が砕け、シャヌスはようやく血まみれの貌を上げた。


「これで……満足ですか……? わたくしを痛めつけて……拷問して……自分に都合のよい答えを引き出して……」

「――!」


 息をのんだのはグレイだった。

 シャヌスにとって大切なのは、自分が心理戦に敗れた事実を隠す事だった。血に染まった貌は、自分はあくまで理不尽な暴力に屈したのだと主張する新たな仮面だった。


「それは通じぬよ、シャヌス」


 だが、それもウヴァの背後から現れた人影が発した声によって凍り付いた。

 現れたのは深く刻まれた皺に囲まれ、糸のように絞られた剣呑(けんのん)な眼と、(つや)を失った白く長いあごひげを持つ、ウヴァに負けず劣らずの巨体を持つ老人だった。


「父上……」

「魔王……陛下……」


 シャヌスははっとウヴァを見る。遥か頭上から見下ろす彼女の無温の瞳は、初めから対話などするつもりが無かったことを如実に語っていた。


 罪人に罰を。

 悪行に報いを。


「一部始終、余は見せてもらった。シャヌスよ、これ以上の虚言、これ以上のあがきは余の耳と目を侮辱するものと知るがいい」


 しわがれた静かな声。だが、老いさらばえてなお、世界を統べる男の黒く巨大な威圧感の前には小娘の仮面など踏み砕かれる卵の殻に等しかった。

 

「ふふっ、ふふふふっ……」


 しかし――


「あはっ、あはははははははっ!」


 それでも――


「おめでたい! おめでたいですね! 劣等種族の浅知恵というものは!」


 シャヌスは(わら)う。


「グレイ殿下。先ほどのお話の続きをしましょう。ニンゲンの勇者が王都と呼ばれるこの地で何をしたのか!」

「やめよシャヌス! これ以上は――」

()び出したのです! 強大な魔王を(たお)す力を! 腐敗した祖国を滅ぼす力を! 異界の門を開き、招かれざる邪神を!」


 魔王とウヴァ――人と魔の闘争を知る者の顔が苦渋に歪む。


「はぐれ魔族たちがコツコツと開拓してきた1つの村が、勇者によって滅ぼされました。すべては、邪神を招喚する生贄(いけにえ)のために! 生きながら四肢を断たれ、串刺しにされてなお蠢く千の芋虫たちの血と肉と叫びによって!」


 英雄譚を歌う吟遊詩人のように愉悦のこもった朗々とした声が、おぞましい黒い歴史を語り続ける。


「もうお分かりですね? ニンゲンの国を滅ぼした者は本当は何者だったのか? 魔王軍四天王のうち3人を消した者が何者だったのか? そう、この王都は、魔王城は墓標なのです。邪神の復活のために生き地獄を味わった数多の命と、邪神の封印のために散っていった者たちの魂を鎮めるための!」


 シャヌスが手の平をグレイに向けた。


「うッ――」


 鎖に戒められた口から、くぐもった悲鳴が漏れた。

 魔法によって形成された風の刃が彼の肌を裂き、噴き出た血が風に導かれてシャヌスの手の平の上にたゆたう。


「そしてもう1つ。この地こそが邪神の眠る結界……」

「ウヴァ! あ奴を止めろ!」


 魔王の言葉と共に、獣人の巨体が(はし)る。だが、シャヌスに操られた木偶人形たちが魔王子の身体を盾にして立ち塞がり、さすがのウヴァもほんの一瞬とは言え躊躇(ちゅうちょ)せざるを得なかった。

 その一瞬をシャヌスは逃さなかった。


「魔王の血筋によって、結界の鍵は開かれる……」


 青く光る魔法陣に、グレイの血が注がれた。


「何と言う事を……」


 魔王の絶望の嘆きが絞り出された。


「余の命を削り、各地の霊獣の力を借り、人造魔石さえも利用して維持していた結界が……。お主、自分が何をしているのかわかっておるのか?」

「当然ですわ。だって、邪神の存在を勇者に教えたのは我々エルフですもの。魔王様にもお教えしましたね。結果、先に勇者がカードを切り、魔王様がゲームを制した。邪神の封印に貢献したわたくしたちは魔王様の治める世に高い地位を占めた」


 シャヌスの魔王を見る目には、すでにひとかけらの尊敬も畏怖も存在しない。


「問題です。先の戦争の真の勝者は誰だったのでしょうか?」

「お主――!」


 魔法陣に亀裂が走る。あふれ出る黒い液体のような闇。闇はぬらぬらとした無数の触手のような形をとってシャヌスの身体を這い回る。


「愚かな! それがかつてどのような厄災をもたらしたか、知らぬお主――いや、()()()ではあるまい!」

「もちろん。招かれざる邪神のことは、我々ハイエルフは他のどの種族よりも存じ上げておりますわ。村人の雑多な魔力などを集めるから暴走するのです。まあ、そうなるように仕向けたのも我々ですが」


 闇の触手は増殖し、成長する。すでに部屋全体が闇に覆われつつあった。


「来いウヴァ! 撤退するぞ!」


 魔王が「転移(テレポート)」と唱え、足下に転移魔法の方陣を展開する。グレイを抱きかかえたウヴァもまとわりつく木偶人形を蹴り砕いて魔王に続こうとする。


転移(テレポート)


 だが、シャヌスの方が詠唱が遅かったにも関わらず、方陣は魔王のものよりも早く展開されていた。


「父上!」

(せがれ)!」


 グレイの身体が光の粒子へ変換されていく。魔王は無意味とわかっていても反射的に消えゆく息子の手を掴もうとする。父親の枯れ木のような手は虚しく空を掴み、導かれた光の粒子の行き着いた先は魔性の白い腕の中であった。


「グレイ殿下には生きていていただかなくてはいけません。狂った獣人に老いた魔王が弑逆(しいぎゃく)され、復活してしまった邪神を殿下とわたくしが止める。英雄として魔王となったグレイ陛下をわたくしが后として支える。いささか手荒になってしまいましたが、かえって早く目的を達することができそうです」

「バカな、そんな筋書きに私が協力すると思うか!」


 鎖に代わり、シャヌスの両腕に抱かれたグレイが声を上げる。

 シャヌスの細い腕はまるで白い蛇のように魔王子の身体に絡みつき、彼の渾身の抵抗にもびくともしない。


「ご安心下さい。この先殿下を待っているのは無限に続く夢幻の快楽。ただただ、至上の幸福に身を任せていらっしゃればよいのです」


 それは、他者の生、今を生きる者の想いや意志に対するシャヌスの価値観そのものを現わす言葉だった。

 絶望を噛み締める魔王とウヴァが転移魔法によって消えるのとほぼ同時に、広大な地下迷宮は爆発的に増殖した漆黒の肉の沼によって埋め尽くされた。

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