第7話:最強の竜騎士・前編
魔王のおひざ元である王都には、巨大な建造物が2つある。1つは言わずと知れた魔王城。そしてもう1つは王都のはずれに建設され、未だ一部が未完成の闘技場である。
ニンゲンとの戦争を終え、個人や小規模パーティが踏破できる秘境や遺跡も少なくなった。力を持て余した者や刺激を求める者たちが溢れると犯罪が増える。武勲を求め、探求心を満たそうと己を鍛えてきた彼らが、今さら肉体労働者として生白い軟肉の上役に使われるなど到底我慢できるものではなかった。
そんな彼らの欲求を満たすためにこの闘技場は建てられた。
当初の闘技場では高みを求める闘士が集って腕を磨いたり、軍隊の模擬戦闘などが行われ比較的健全な催し物が開催されていた。
しかし、やはり潜在する危機がなければ張り合いが生まれないのはヒトも魔族も変わらない。
闘争と勝利の残滓はしだいに空虚と退嬰へ変質し、その精神的飢餓を満たすためにより刺激的な娯楽が求められるようになった。
つまり、奴隷や罪人を嬲りものにする残酷ショーである。
この日のイベントは、各地で勃発した小規模な反乱を制圧した際に捕縛された罪人たちの公開処刑であった。といっても、手足を拘束された罪人を並べて首を刎ねるといったものではなく、彼らは枷をはずされ、武器を持たされて互いに殺し合いをさせられたり、凶暴な魔獣と戦わせられたりした。
勝った者には恩赦として自由を与えられるというのが建前であったが、今だかつて生きて闘技場を出られた者はいない。
「死闘を勝ち抜いた10名の者たちよ。魔王に仇なした罪人とは言え、その勇猛さには評価に値する」
魔獣の咆吼と罪人の悲鳴、そして大観衆の歓声の嵐がひとしきり吹き荒れた後の闘技場。その最上部に据えられた貴賓席から、魔王子グレイの言葉の割にいささか軽薄な声が響いた。
「だが、罪人と魔獣の血で諸君らの罪を洗い流すわけにはいかない。諸君らが自由を得るに値する存在であることを、今一度、神聖な戦いにおいて証明する必要がある」
この場において、言葉の意味の整合性は問題ではなかった。観客にとって大切なのは、自由のために死闘を勝ち抜いた罪人たちの絶望の顔と、彼らが野に放たれることはないという安心感。そして、更なる血の狂宴である。
闘技場に並ぶ10名の罪人たちの前で、巨大な扉が重々しく開いてゆく。
現れた人影に、罪人たちの顔は蒼白に染まり、観客は歓喜の声を上げた。
『ベルガモット!』
『最強の騎士!』
『竜を駆る者!』
『勇者殺し!』
白い軍服を纏い、弓矢を背負い、身の丈を超える長大な騎士槍を持ったダークエルフの青年が優雅に手を振って声援に応える。黄色い歓喜の声がいっそう高まった。
次いで、観客たちの頭上を黒い影が覆った。
『おお、ベルガモットの黄金竜だ!』
現れたのは、ベルガモットを竜を駆る者たらしめる金色に輝く巨竜である。だが、今回は少々いでたちが異なっていた。
足に、異様に太い鎖でがんじがらめになった巨大な白い塊を掴んでいたのだ。竜の巨体に勝るとも劣らない大きさの塊は、内部から淡い光を発していた。
ゆっくりと、慎重に降ろされてもなお地響きを起こす超重量。
膨大な魔力で構成されていた鎖が光の粒子となって消えていく。すると、塊の外側に張り付くように折りたたまれていた8本の脚がゆっくりと開いていった。
『蟲……いや、蜘蛛か……?』
透き通るような白い毛で覆われた巨大な蜘蛛。その頭部にあたる部分が隆起し、白い曲線的な外骨格を纏った女性の上半身を形作る。
『おお……』
観衆は一瞬声を失った。
体毛と同じ、極細のガラス繊維のような銀髪、白く艶めかしい流線形の装甲、匠の手による彫刻のように整った顔立ち。
全てが白いその身体の中で、唯一深い紅色をした複眼。本来、眉毛があるべき場所に小さな眼球がもう一対ある。それを見た者の背中がぞくりと震えるのは、異形の不気味さからか、それともその色彩の妖艶さからか。
だが、観衆を唸らせたものがもう1つある。
この竜に匹敵する――いや、脚の長さを含めれば竜の翼開長をはるかに凌駕する巨体を誇る彼女の口に、戦竜部隊が飛竜を調教するのに使う魔力の込められた轡が噛まされていることだった。
『これはもしや……』
『ベルガモットの新たな伝説か?』
ベルガモットは驚くべき優雅な跳躍力でふわりと飛翔し、巨大な蜘蛛女の背上に着地した。
女性の固い貌に変化は無くとも、深紅の瞳に怒りの色が浮かぶのがわかる。
当然、ベルガモットは意に介さない。その手には女性の口に噛まされた轡から伸びる鎖の手綱が握られていた。
「皆さん!」
ベルガモットの朗々とした声が闘技場に響き渡る。それだけで、観衆の半数はうっとりと瞳をとろけさせていた。
「コレはルクリリ島の鳥人や人魚が守り神と崇めていた霊獣、ルクリリです! ご覧の通り、僕はこの怪物を降伏させることに成功しました!」
わぁっと歓声を上げ、観衆が沸き上がる。
自らに向けられる嘲笑を感じ取ったのか、霊獣ルクリリは怒りの眼で彼らを見渡し、巨大な鎌のような片腕を振り上げようとした。
――だが、それよりも速くベルガモットがその細身からは想像できない力で手綱を引いていた。
グッ……
陶器の軋みとも悲鳴ともとれる不気味な音が響き、ルクリリの上半身が大きくのけぞる。
間髪入れず、ベルガモットは手綱に魔力を流し込んだ。
ガァァァァァーーーーッ!
鼓膜を貫くような金切り声。
ルクリリの身体のあちこちが黄色く発光し、稲妻を迸らせていた。
それは、クリスタルの結晶柱のようだった。クリスタルはルクリリの外骨格のヒビ割れを穿ち、肉体に直接打ち込まれていた。失われていたはずの片腕や後ろ脚の半数も巨大なクリスタルの柱が義肢のように埋め込まれている。
人造魔石。
魔族とニンゲンの戦いの中で、魔力に劣るニンゲンが模擬的に魔法を使うために編み出した技術である。多くの妖精や精霊の命を犠牲にするおぞましい精製過程ゆえに、その技術は魔王により封印され、現存の人造魔石は発見次第、魔王に提出することが義務付けられている。
今、ルクリリの身体には、狂暴化した霊獣を抑え込むという名目のもと、魔王から貸与された人造魔石が多数埋め込まれ、肉体に直接魔力の電流を流し込まれるようにされているのだった。
「君の相手はそこじゃないよ」
ベルガモットは巧みに手綱を操ってルクリリを嘲弄し、無理やり彼女の身体を闘技場の中央に向けさせる。
そこには、色を失った10名の罪人が呆然と佇んでいた。
「さあ、彼らと闘うんだ!」
ベルガモットの命令に、ルクリリは嫌々をするように身をよじらせた。
罪人たちの中に、鋭いクチバシと鉤爪を持つ大柄な鳥人の男性と、小柄で顔立ちこそ可憐だが見るからに獰猛な目つきと乱杭歯をした人魚の女性がいた。どちらもルクリリ島の住民であり、それぞれの部族で戦闘を指揮していた者たちだった。
彼らはルクリリにとって、大切な我が子たちだった。
「ご主人様の言うことを聞けよ!」
電流がルクリリの身体を内部から灼く。
外骨格のつなぎ目から、沸騰した白い体液が噴き出した。
◇ ◇ ◇
「ちょっと可哀想じゃないかな?」
観客席の上部にあり、闘技場全体を一望できる貴賓席。
魔王子グレイは困惑気味の視線をかたわらの女性に送った。
「お優しいグレイ様……」
シャヌスは微笑み、称賛の視線を返す。だが、その後の言葉はあくまで毅然として王子の優しさを突き放していた。
「優しさと人徳だけでは、民衆は治められませんわ。お義父様――陛下がニンゲンたちに行った処置をお忘れですか?」
「……」
かつて、ニンゲンの国を滅ぼした魔王は、投降した王家や貴族の子女を幼子にいたるまで処刑した。
平民においても、武器や人夫の売買や輸送を行って私服を肥やした商人は貴族同様の扱いを受けた。
連日行われる公開処刑により、生き残ったニンゲンたちは覇気を奪われると同時に恐怖と諦観を与えられ、自ら農奴へと落ちていった。
一方、長引いていた戦乱に疲れ、荒んでいた魔族たちは勝利の実感と共にカタルシスを得、戦後復興に向けてまだまだ続く過酷な状況を受け入れた。
「いつまで続くのだろうね、恐怖の時代は……」
グレイに気付かれないように、シャヌスはふっと溜息をついた。
彼に向けている言葉や表情ほど、シャヌスはグレイの優しさを評価していない。むしろ軽蔑と嫌悪を抱いてさえいる。
誰も死なず、誰も傷つかないだけが優しい世界ではない。高潔で正しい価値基準が劣悪を排除していく浄化装置がなければ、世界は美しくならないのだ。
そう。正しい価値観。
シャヌスが百年の時を生きた深緑の森を出て、多くの種族の者たちに接して感じたのは、他種族たちの審美眼の腐敗だった。
多種多様な価値観を認め合い、尊重し合うことが必ずしも全体の精神を向上させるとは限らない。
例えば、眼下で醜くもがいている霊獣ルクリリ。
グレイがあの蜘蛛の怪物に対して同情的であることもそうだが、闘技場を埋め尽くす観客の中でもかなりの割合があれの姿を美しいと感じていることがシャヌスには信じられない。
どれだけ永い時を生き、体内に魔力を溜め、神性を得ようと、相手はしょせん蟲である。心身の構成がまるで異なる存在に、同調する情などあろうはずもない。一見、情のように見える仕草も、結局は似て非なるものに対する錯覚なのだ。
あの上半身だけがヒト型をし、人型種に擬態しようとしているかのような姿には生理的な嫌悪と恐怖を覚えずにはいられない。
そして、全身に埋め込まれた――シャヌスが命じて埋め込ませたと言った方が正しいか――人造魔石である。
代々、深緑の森で自然と共に生きてきたハイエルフの末裔であるシャヌスにとって、人造魔石はもはや正視に耐えない汚物である。例えるなら、様々な小動物の腐乱死体の塊を見ているような気分である。
シャヌスとしては、自分たちの真似事をしようとする醜い異形が、人造魔石という汚物にまみれた姿でのたうち回る様をグレイや民衆と共に愉しむつもりだったのだが、グレイをはじめ多くの魔族がルクリリの姿に美を感じとってしまったのは誤算だった。
シャヌスは、そっと指先を胸元のブローチに触れた。
今、この世界の価値観は腐敗している。
(わたくしが王妃となった暁には、彼らに正しい美意識を教え導いてあげなければ)
いささか興覚めを覚えるものの、シャヌスは観戦を続けた。
黄金の竜を従える高貴で勇敢なダークエルフが、神を騙る醜悪な存在とそれを母と信奉する邪教徒を駆逐する。それこそが正しい世界であるとシャヌスは信じきっていた。
◇ ◇ ◇
闘技場の罪人は9名になっていた。
鷲の頭と翼を持つ鳥人の男性が、突如奇声を上げると天高く飛翔し、ルクリリを虐げるベルガモットを直接討たんと、上空から吶喊したのである。
翼を折りたたみ、敵に鋭いクチバシを向け錐のように回転し、己の身体を衝撃波をまとう矢と化す。
だが、相対するベルガモットの反応は冷淡に過ぎた。ふん、と鼻を鳴らし、手にしていた騎士槍を構えて敵を正面から迎え撃つ。
鮮血と肉片が爆ぜる。散った羽毛が虚空を飾る。
ギ、ア、ア、ア、ァーーーーーッ!
ルクリリが、陶磁器に尖った金属をこすった様な悲鳴を上げた。
どさり、と肉塊が石床に落ちた。
「……」
頭が粉みじんに砕けた鳥人の死骸を見る、小柄な人魚。彼とは共に島の守り人をまとめる立場として戦友以上の、兄妹のような感情を抱いていた。そんな彼女には、自害同然の特攻をした『兄』の心境が痛いほどわかった。
赤子の頃から母と慕ってきた存在が、他所の男に足蹴にされ、拷問器具で調教される様を見せられて正気でいられる子がいるだろうか。ましてや、母を縛る最大の枷が自分たちの命であると思い知らされた時には。
「……ごめんよ、母様」
人魚の娘は、闘技の際に支給された錆びついた短剣を握り締めた。切っ先を口にくわえる。もうこれ以上、ルクリリを苦しめたくなかった。
「させないよ」
矢が、人魚の手を貫いた。何本かの折れた血染めの牙と共に、短剣が軽い音をたてて転がった。
ルクリリの背上で、弓矢を構えたベルガモットが嗤っていた。
「お前は母親に殺されるんだ!」
乱暴に手綱を引くベルガモット。ルクリリは手足を石床に突き立てて抵抗する。激しい光と轟音と共に電撃が再びルクリリをいたぶる。
「……」
人魚は、地面に突き立てられたルクリリの脚をじっと見つめていた。人造魔石の結晶を埋め込まれたそれは、さながら電撃を帯びる剣となっていた。
あれに抱き付けば、間違いなく死ねるだろう。
「許して……母様……」
自分が死ねば、ルクリリは悲しむだろう。だが、ルクリリの子は自分だけではない。一方で、自分にとっての母は、自分達にとっての母はルクリリしかいないのだ。
人魚の娘は、ルクリリの腕に埋め込まれた魔石に向かって突進した。陸上の不利をものともせず、獰猛な牙で罪人たちのバトルロワイアルを勝ち抜き、生きる権利を噛み取ってきた娘である。その勢いは、水中と変わらず凄まじいものだった。ざらついた石床に擦られた魚の下半身が、赤黒い血の帯を遺している。
死を覚悟した娘の目には、母の姿しか映っておらず、耳には母の声しか聞こえていない。だから、娘は気付かなかった。
闘技場の入り口、巨大な扉が爆音と共に弾き飛ばされ、そこから黒い影が矢のような速さで突進してきたことに。
「させない」
影は、猛然と死に向かう人魚に正面からぶつかった。
「1度に子を2人も失うのは、辛すぎるわ」
直後、人魚の視界が暗転した。
「え?」
何が起きたのか分からないのは、観衆も同じだった。
戦場に闖入してきた黒い影が突進する人魚にぶつかったと思ったら、人魚は決死の勢いそのままに真逆の方向へ吹っ飛んだのである。人魚は背中から壁に激突し、目を回しながら昏倒していた。
事態を把握していたのは、白い蜘蛛神の上に立つダークエルフの両眼だけだった。
影は人魚に組み付き、巧みな身体裁きで逆方向へ投げ飛ばしたのである。
「見事な技を見せてもらったよ。君はいったい何者だ?」
巨大な霊獣の背上から、最強の騎士ベルガモットが無粋な乱入者を見下ろした。
「ラブレターを送ったのに無視されたから、こっちから来てしまったわ」
艶めかしい筋肉をまとった薄桃色の肢体と、強靭な骨と腱をまだら模様の毛皮で覆った巨大な下半身。半人半牛の女性が、巨大な乳房を揺らし、挑発的な仕草でベルガモットを誘っていた。
観衆の間にざわめきが拡がっていった。
『何だ、あの女……乳牛の獣人か?』
『乳でけぇ……』
『ベルガモットの前に乱入するなんて、どこの命知らずだ?』
『乳でけぇ――!』
蜘蛛神の背上でも、ベルガモットは首を傾げていた。彼女の言うラブレターとやらに心当たりがなかったからだ。
そんな彼にはお構いなしに、女性は地面から何かを拾うと、凄まじい肩力でそれをベルガモットの顔に投げつけた。
「っ!?」
躱すこともできず、顔面にそれを受けてしまうベルガモット。それは、白く泡立つルクリリの体液だった。
「――ッ!」
それは、観客から見ても挑発としては充分だったが、エルフやそれに近い種族の者たちから見れば、それは挑発を超えた侮辱だった。
自分たちを差し置いて自然の支配者を騙る異形の体液。それは彼らにとって、ある意味で排泄物よりも汚らわしい物体なのだ。
「私と戦いなさい。最強の坊や」
それはもはや抜き差しならない決闘の申し込み。
血に飢えた観衆が一気に沸き上がった。
『あの乳牛女、最強の騎士にケンカを売りやがった!』
『ベルガモット様! あんな不躾な女、やっつけちゃって!』
希代の英雄ベルガモットが、下品な掟破りの獣人に正義の制裁を下すのか。
凶暴だが妖艶な体躯の乳牛の獣人が、いけ好かない若造を叩きのめすのか。
どちらにせよ、これは良い見世物だ。