第5話:私の乳を搾ってくれない?
魔王城。それは言わずと知れた世界の支配者の居城である。
この聳え立つ魔王城を起点として扇状に王都の街並みが広がっており、魔王城よりも高い建物は存在しない。
王都に暮らす多種多様な魔族たちは、等しくこの魔王城を頭上に感じながら生活することを強いられる。それは支配であり抑圧であると同時に、秩序と安寧を意味していた。
今、この巨大な摩天楼の一室で、紅茶を嗜む1人の女性がいた。ゆるやかに波打つプラチナブロンドの髪を肩のあたりで切り揃え、理知的な雰囲気を纏うハイエルフ。そんな彼女の豪奢なバルコニーでの紅茶の時間は、慌ただしく開け放たれた扉の音によって中断された。
「シャヌス! これはどういうことだ?」
現れたのは癖のある栗色の髪で端正な顔を縁取った若者だった。黒を基調としたシックなスーツを着け、背中からは灰色をした堕天使の翼が生えている。
奇しくも、若者の名は己の翼の色と同じグレイといった。民からはあまねく『殿下』と呼ばれる立場にある、魔王の息子である。
魔王子グレイはメイドの制止を振り切り、己が婚約者に詰め寄った。
「落ち着いてください、殿下」
シャヌスの長く尖った耳にも、城前広場の騒動は届いている。暴行され、磔にされていた男が城下の裏社会を仕切っていた竜人ペコーと判明したことも、そこにいかにも意味深長に自分の名前が記されていたことも。
『王太子妃シャヌスに捧ぐ』
この文言に対する解釈は二通りあった。
法の眼をかいくぐって悪事を重ねてきたペコーの私刑が、王都の浄化を望むシャヌスの意を汲んだものであるという好意的な解釈と、ペコーとシャヌスの隠されたつながりを知る者が彼女を糾弾しているのだという敵意のある解釈である。
冷静さを失っている魔王子の問いは、いささか言葉足らずであるが、要はどちらの解釈が正解なのかを尋ねているのだった。
「わたくしにも解りかねますわ」
シャヌスは慎重に言葉を選んだ。
「いくら法で裁けない相手とは言え、暴力を暴力で制するやり方は魔王様をないがしろにする行為。わたくしはそのようなことは望みませんわ。わたくしとペコーの癒着の疑いについては論外です。わたくしがどうすればあのような男と関りを持てるのか、皆目見当もつきません」
「では、なぜ君の名前が――」
「わたくしが知りたいくらいです。もしかしたら、わたくしのような田舎エルフが殿下に寵愛されることを良しとしない方は意外に多いのかもしれません」
田舎エルフとは、深緑の森で隠者のように暮らしていたハイエルフを揶揄する言葉である。
深窓のハイエルフは、憂いに潤んだ瞳を伏せて、儚げな微笑を浮かべる。無意識なのだろう。細い指先が、胸元のブローチを所在無げにいじっている。漠とした不安を健気に耐える女性の姿を前に、魔王子は己の軽率な行動を恥じた。
「すまない。君を責めるつもりはなかったんだ」
グレイはシャヌスの細い肩を後ろから抱き締めた。
「そんな、責められたなんて思っていませんわ」
指先と目線で王子に甘える。2人はそっとキスを交わした。
「私は君を――未来の妻を信じる。そうだ、私の配下に直接真相を探らせよう。一刻も早く君の不安を取り除いてあげたい」
「ありがとうございます、殿下」
グレイが部屋を出て行く。シャヌスが冷めた紅茶に目線を送ると、すかさずメイドが温かい紅茶と取り換えた。
「まったく。我が義妹ながら、相変わらずの女優っぷりだな」
新しい紅茶に口をつける間もなく聞こえてきた不躾な言葉に、シャヌスはわずかに眉をひそめる。
「……千客万来ですわね」
魔王子と入れ違うように入って来たのは、浅黒い肌をした長い銀髪のダークエルフの青年だった。
華やかな白い軍服を纏う青年は魔王子の婚約者の耳元に、無遠慮に口を寄せる。
「いいのかい? このことを王子に調べさせて」
「お坊ちゃんには何もできませんわ」
シャヌスは静かに吐き捨てた。
「それよりわたくしは、雑種とは言え竜人であるペコーをあそこまで追いつめた者の方に興味があります」
「確かに。少しはできる奴がいるみたいだ。どう思う? そいつは僕らの敵になるかな?」
「なるでしょうね。アレはおそらく、わたくしに対する宣戦布告でしょうから」
敵は知っている。シャヌスとペコーのつながりを。
ハイエルフ特有の美しい碧色の瞳に、ねっとりとした妖しい光が宿る。
彼女の背中を抱くダークエルフの青年の口許にも、不敵な笑みが浮かんだ。
「そいつはいいや。最近は本気を出すどころか、準備運動すらまともに相手してくれる奴がいなくてね」
「おごれる者も久しからず……。慢心は身を滅ぼしますわよ?」
ダークエルフの青年はふんと鼻を鳴らし、バルコニーの手すりに手をかけた。眼下には中庭で訓練にいそしむ騎士たちの姿があった。
青年がすっと手を上げると、騎士たちは直ちに直立不動の姿勢をとった。青年はさらに、上げた手を真横に伸ばして合図を送る。
「慢心じゃないさ。これはれっきとした事実だ」
飛竜にまたがり、一斉に飛翔する騎士たち。その数、およそ百騎。
「この戦竜部隊はこの世で最強の軍隊だ。そして僕は――」
竜騎士たちの背後で、一際巨大な影が大きく翼を広げる。
それは、ペコーが変化した竜の姿など比べ物にならない大きさの、黄金の鱗に覆われた真竜だった。
「僕は、彼らの中で最も強い。僕は真竜を駆る者にして勇者殺し。世界最強の竜騎士ベルガモットだ」
◇ ◇ ◇
思わず目を背けたくなる衝動を必死に抑え、村娘は頬を歪ませ、歯を食いしばりながら必死に針を動かした。だが、一方のウヴァは顔の筋肉をピクリとも動かさず、積み上げられた藁の上で静かに身体を横たえている。
今、娘はウヴァが先の戦いで受けた唯一の傷――矢が刺さり、さらに鉤爪で抉られた乳房の傷口を針と糸で縫い合わせているところだった。
ようやく縫合が終わり、娘は肺の中の空気をすべて吐き出すような溜息をついた。
鍋で煮沸した布で血をふき取り、最後に獣の皮と骨を煮詰めてつくったにかわを塗り付ける。
「ありがとう」
静かに礼を述べ、ウヴァは起き上がるとすぐに陽の当たる場所で寝息を立てているルフナのもとへ向かった。
ルフナは吸血鬼だが、日光は苦手ではない。むしろ、温かい陽の光が大好きで、銀色の髪に陽光を煌めかせる姿が似合う少女だった。
もう1つ、吸血鬼を日なたに寝かせる切実な理由がある。
ルフナはあの時以来、暗がりに怯えるようになってしまっていた。夜に目を覚ましてしまうと、けたたましい声で叫び、泣き出してしまうほどに。
だから、彼女のいる村はずれの水車小屋は夜中でも松明の灯が消えることはない。
それが少女が慣れ親しんだ領地を離れなければならない理由でもあった。あの地は年を通して夜が長いのだ。
「ママ……?」
ウヴァの気配に気づいたのか、ルフナは目を開けた。もっとも、まともに開いたのは左目だけで、半開きのまま開けることも閉じることもできない焼け爛れた右まぶたの奥は、黒い虚無が垣間見えるだけである。
少女が、小さな鼻をくすんと鳴らす。ウヴァは少女の小さな躰を優しく抱き上げると、胸を少女の唇に当てがった。んく、んく、と少女の咽喉が鳴る。
ルフナの艶を失い、真っ白になってしまった髪を撫でつけるウヴァの頬に、一つぶの雫が流れた。
ルフナが産まれると同時に命を落としてしまった実の母に代わり、ウヴァはルフナに母乳と共にめいっぱいの愛情を注いで育ててきた。ルフナが乳離れをした時は、その成長を喜ばしく思うとともに、一抹の寂しさをも感じたものだった。
だが、こんな形の乳返りは望んでいなかった。
今、ウヴァの目の前にいるのは手足の細長い乳児である。ウヴァの愛と思い出とともに育まれて来た少女の自我は、これ以上なく無惨に壊されてしまった。
現在のルフナは、『ママ』という言葉をようやく覚えた、他はひたすら泣き叫ぶことでしか己の意思を表示できない赤ん坊である。
けぷ、と腕の中で少女がむせる。それでせっかく飲んだミルクがほとんど吐き出されてしまった。
ウヴァは怒らない。丁寧に汚れを拭いてやり、また根気よく乳をやる。
その様子はまるで、賽の河原で苦しむ亡者の親子のようで、村娘はついに見ていられなくなり、目を伏せた。
「てぇへんだー! 姐さん!」
だから、慌てふためいた村人が不躾に駆け込んで来た時には、少しだけ救われた気がした。
「お侍だ! でっけぇ刀持ったお侍が来ただよ!」
ウヴァの眉がぴくりと動く。
「やあ、邪魔するよ」
醜声ではないが、どこか背筋をざわつかせる声。ぬっと入って来たのは異様に長い太刀を携え、口許を布で隠した女剣士だった。
「邪魔よ、東方美人」
「そんな凍てつく気を放つものではないよ屠龍雷。子供の教育によくない」
いつの間にか、刀の鞘がウヴァの目の前に突き出されていた。余人には視えないが、ウヴァが思わず発してしまった殺気はことごとくこの鞘に吸い寄せられ、持ち主の手元で霧散していた。
ルフナはきょとんとした顔でウヴァを見つめている。
「……何の用?」
「色々あるが、まずは――」
いきなり、東方美人は地べたに正座した。刀をかたわらに置き、深々と頭を下げる。指先まで美しい土下座だった。
「――何のつもり?」
「まずは、不肖の弟子の不始末をお詫びしたい。よもやあのような蛮行をはたらくとは」
「また随分と昔の話を……」
「そのようだが、つい最近まで死んでいた小生にとっては昨日のことに等しいのでね」
東方美人の弟子とは、かつて一軍の将として先陣を切って魔王軍と戦った、勇者と呼ばれた男であった。
「彼奴には剣だけでなく、人の道も教えていたつもりだったのだが」
しかし、その勇者は前方に強大な敵、後方に陰謀めぐらす味方、次々に斃れてゆく仲間たちによって徐々に心を病み、大局を見失っていった。そしてついに目先の功を焦るあまり、とある魔族の村を焼き討ちしたのである。
虐殺された村人の中には、ウヴァの夫と幼い息子も含まれていた。
学者稼業の合間に、小さな花壇で花を育てるのが生きがいの穏やかな夫だった。
母に似てやんちゃでわんぱくで、父に似て優しく感受性の強い息子だった。
「古傷を抉られている気分だわ」
その後、勇者は討ち取られ、ニンゲンの国は滅んだ。
許すつもりも同情する気もさらさら無いが、勇者に対しては多少の理解がないわけではない。勇者としての使命感と国や民の命運を背負う重圧に耐え、敗戦という目の前の現実に直面し、それでもなお剣と人の道を歩めるのは逆にヒトデナシの部類であろう。
例えば、ウヴァの前で土下座している人物のような。
「……わかった。もうこの話はするまい」
女剣士は刀を取るとゆらりと立ち上がった。
「さて、黄泉返っておいて何だが、この世界はいささか亡者には居心地が悪くてね。そろそろ成仏したいのだが、どうも現世の未練を断ち切らなければ叶わぬらしい」
「未練、ね……」
しゃらん、と刀が鳴った。この妖刀に取り憑かれた亡者が望むことなどわかりきっている。
空間が歪んだ。
東方美人が発するのは、熱く滾る陽炎のごとき闘気。ウヴァが発するのは、蒼く澄んだ清流のごとき冷気。二つの気は複雑に渦巻き、絡み合うものの決して混じることも対消滅することもなく、ひたすらに膨張を続け、狭い小屋の中にはち切れんばかりに充満する。
既に、この気に中てられて剣士を案内してきた村人は泡を吹いて失神しており、村娘も顔を真っ青にしてへたり込み、呼吸もままならない様子である。
「ふえぇ……」
そんな2人の気を霧消させたのは、ルフナの弱弱しい泣き声だった。2人の剣呑な空気を感じたからではない。単にまだ腹が満たされていないのを訴えていたのである。
少女は衰えた筋肉で必死にウヴァの乳房をまさぐり、吸い付こうとしていた。
「なるほど、小生よりも、そちらのお嬢ちゃんの方が大切かね」
「殺気が子どもによくないと言ったのは貴女よ」
ウヴァは、相手の発する気に己の気をぶつけ、受け流し、ルフナが邪悪な気にさらされないようにしていたのである。
ふっと、東方美人の眼が笑った。亡者にも戦闘狂にも似つかわしくない、慈しみのこもった目だった。
「迷っているのかね? それとも、私怨に関係の無い村を巻き込んだ罪悪感かな?」
「貴女には関係のないことよ」
「だが、親近感は湧く。小生には、生きながら亡者のように現世をさまよう貴君をどうにも放っておけない」
ウヴァの目元にぴくりと動揺が走った。
「さっさとケリをつけたまえ。小生との勝負はそれまで預けておこう」
そういうと、東方美人は部屋の隅にどっかりと腰を下ろした。
「どういうつもり?」
「お嬢ちゃんとこの村は小生が護るゆえ、疾っとと私用を済ますがいい」
「……」
「そう睨みつけなさんな。仇討ちに協力するのは剣士の誉れだ」
「ニンゲンの心は信用できない」
「なるほど。では取引と言えばどうかな? 小生にとっては本気の貴君と手合わせをする、それだけが現世での望み、最高の報酬なのだ。ゆえに貴君には死なれても腑抜けられても困る」
「自分勝手ね」
ウヴァは真っ直ぐに東方美人を見た。
躰と気をぶつけ合ったからこそわかる。彼女の言葉に、嘘はない。
ついでに、横顔のあたりに、村娘の「お前が言うな」という視線をピリピリと感じるが丁重に無視する。
「それと、小生にも1つ気にかかることがあってね」
言葉の割にさして興味もなさそうに、東方美人は言った。
「確かに、貴君との手合わせができないまま病に斃れたことは小生にとって痛恨極まることだった。だが、だからと言って、生者必滅の理を覆すような力を小生は持っていない」
「じゃあ、貴女はどうやって黄泉返ったの?」
それだ。と剣士は頷く。
「小生の亡骸に呪術を施し、反魂させた者がいる。だが、小生はその術者を見ていない。掘り返された墓の前で目を覚まし、この太刀と書置きを見つけたのみだ」
「書置き?」
「ペコーの元に往けばいずれ貴君に逢えるであろう、とね」
どうやら、ペコーすら知らないところで別な動きがあるようだった。東方美人を蘇らせ、ウヴァを始末させようと画策している人物がいる。
「まあ、小生にとっては術者の意向などどうでもよい。貴君と手合わせさえできればそれで」
彼女らしい言い方だが、それはつまり、彼女は自分を蘇らせた術者には恩義や忠誠心は一切ないという宣言でもあった。いずれはウヴァと戦うつもりだが、それまでは味方として信頼してほしいという意思表示。
「私は、これ以上お嬢様に何かがあったら、お嬢様と共に死を選ぶ。貴女とも決して戦わないからそのつもりで」
「心得た。屠龍雷」
「――何? それさっきも言ってたけど」
「小生の国では、貴君のことをこう呼んでいたのだよ」
「……ウヴァでいいわ」
ようやくお腹を満たして満足したのか、ルフナはウヴァの胸にしゃぶりついたままくぅくぅと寝息を立てていた。そんな彼女をそっと藁布団に寝かしつけると、ウヴァは東方美人に振り返った。
突然、ウヴァは地面に膝をついた。次いで指先を地に付け、深々と頭を下げる。
「お嬢様のこと、よろしくお願いします」
「ああ。心得た」
彼女の突然の行動にも動じず、東方美人は飄々と答えた。
ウヴァは顔を上げ、今度は村娘の方に向き直り、もう一度頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「え? あ、へぇ……」
いきなりのことで、娘はしどろもどろになってしまう。そんな彼女を見つめるウヴァの瞳は、すこしだけ柔らかくなったようだった。
「それじゃ……」
「早速往くのかね?」
「いいえ、その前に少し準備をしなくては」
そういうと、ウヴァは身に着けていたボロボロのエプロンを脱いだ。巨大な双球がぼろんと揺れる。
「おぉ……」
東方美人の口から、初めて動揺した声を上げた。
思わず圧倒される村娘と剣士に、ウヴァはその胸をずいっと突き出した。
「留守の間の、お嬢様のお食事を作り置きしなくては」
「それってまさか……」
「私の乳を搾ってくれない?」
次の日、村はずれの水車小屋からは甘く濃厚な匂いが漂っていた。家の中にはひょうたんが積み上げられており、その総重量は村娘の体重に匹敵していたという。