第3話:肉の盾
村の様相は一変していた。
山道と村の入り口の間には、粗末ではあるが物見櫓と高い木柵が建設されていた。木柵には厚い板が張られており、板と板の隙間から弓矢を放てるようになっている。
村人たちの士気は高かった。ここまで来たらやるしかないという、猫を噛む窮鼠のような心情もあったが、狼男や山の巨人をも蹴散らした牛の獣人ウヴァが味方に付いてくれたという希望と、何より元から奪われる予定だった米や麦を自分たちでたらふく食べたことが大きい。
「竜でも鬼でも、いつでも来やがれ」
しかし、一部には彼らのようなお祭り気分に浸れない者もいる。憤死した老人に代わり、仮の村長となった娘もその1人だった。
村のはずれにある水車小屋。粗末なわら布団で、昼夜悪夢にうなされる淡雪のように儚い少女――ルフナの世話をしながら、娘は押し寄せる不安を押しのけることが出来ずにいた。
やせ細った少女の包帯やおむつを取り換えるたびに、少女の受けた仕打ちに身震いをせずにはいられない。その傷が、もしかしたら自分も負っていたかもしれないものだと思うと、恐怖が冷たく巨大な実体となって覆い被さってくるような感覚に襲われる。
特に凄惨なのはルフナの顔だった。少女の小顔は右側の頬から上が焼け爛れており、右のまぶたの奥には眼球が無く、半開きのまま閉じも開きもしないまぶたの奥には底なしの闇が潜んでいるようだった。
少女の、この小さくて華奢な身体に降りかかった過酷な経験に戦慄する。
そして自分たちの未来にも。敵は、このような所業ができる者たちなのだ。情も道理も通じない、純粋な暴力の信奉者。そんな者たちと、まともに戦うことなどできるだろうか? こうして見ると、皆で苦労して作った防壁も弓矢も、ちゃちなオモチャとしか思えなくなってくる。
そして、その不安は的中する。
「奴らが来たどー!」
物見櫓の上から、見張りの男が叫んだ。男たちは我先に弓矢を掴むと、村の入り口に向かう。
山の一画から土煙が上がっている。
彼らが猛烈な勢いで山道を下っているのだ。
「なっ――」
だが、村人たちが見たものは、竜人に率いられるならず者の集団ではなかった。否、確かにならず者たちはいる。だが彼らの前面に押し出されていたモノが、村人たちの戦意を急速に奪っていった。
それは、裸にされ、板に括り付けられた若い女たちだった。おそらく、他の村から攫われて来たのだろう。
ペコーは見抜いていたのだ。村人たちが防壁と弓矢で武装していることを。
「ニンゲン殺すに弓矢は要らねぇ。裸の女があればいいってな」
4頭の馬に引かれた屋根の無い豪奢な馬車に立ち、竜人ペコーは嗤った。
「肉の盾か……」
馬車の影から、異様に長い太刀を抱き、口許を白布で隠した着流しの女性がつぶやいた。その濁った瞳に、感情はうかがえない。
「東方先生はお気に召さないかい? まあ、元は同じニンゲンだしな」
「そこまで嫌悪はしておらんよ? 感情で生きるニンゲンを無力化するに効果的な策だ。ただ、小生の美学には合わんというだけの話さ」
ふん、と鼻先で嘲笑うと、ペコーは声を張り上げた。
「出てこい乳牛女! 村の奴らを皆殺しにされたくなかったら、この俺とタイマンで勝負しろ!」
(よく言う)
女剣士は感嘆と軽蔑の入り混じった吐息をもらした。
己の強さに絶対の信頼と誇りを持っていながら、決して相手と同じ土俵で戦おうとしない男。一見矛盾する行為だが、それは己以外は全て格下と信じる彼の高すぎるプライドに起因している。
彼は勝ちたいのだ。圧倒的に、己は一切傷つかず、敵を寄せ付けもせず、一方的に蹂躙したいのだ。
情けも容赦も存在しない戦場において、その徹底した思考はある意味正しい。
「どうした? 出てこないなら、まずはこの女の中から1匹血祭に上げてやるぞ!」
すすり泣いていた女性たちから、絶望の悲鳴が上がった。
だが、村は沈黙を守っていた。
「へっ、冷たいねぇ。それとも俺がそこまではしないと高ァ括ってんのか?」
ペコーは配下の小鬼に顎で指図する。小鬼は下卑た笑みを浮かべると、短剣を手に盾にされた女性の1人に近づいていく。
「嫌ッ! 嫌ァァァッ!」
その光景を喰い入るように見つめるケダモノたち。刃が、女性の柔らかい肌に食い込もうとする――その時だった。
「お望み通り、来てあげたわよ」
頭上から、冷たい女性の声が降って来た。
「あぁ!?」
生い茂る木の枝が激しく揺れ、重量のある何かがペコーの背後に降り立った。
乾いた破裂音と共に、馬4頭で引かせていた屋根なしの馬車――もはや戦車と言える代物が踏み砕かれ、一瞬でただの廃材と化した。
足下を崩されたペコーの首に、屈強な腕が絡みつく。
「えっ?」
竜人ペコーの喉から、思わず間の抜けた声が漏れた。
彼が、自分が背中を取られ首を絞められているのだと理解するのに数秒を要した。
(まぁ、そう来るわな)
驚愕するならず者たちの中で唯一、影に潜む女剣士は冷静に分析する。
ペコーが、村人の籠城戦を予期していたことを、ウヴァはさらに予期していたのだろう。だとしたら、ペコーのように相手がもっとも嫌がることを本能的に察することのできる類のとる行動は、ある意味で読みやすい。
考えたくもないことを考えればいいのだから。
(鬼の思考だな)
相手が何らかの形で人質を取ることを見抜いたウヴァは、あらかじめ森の中に身を隠し、ただ1人、ペコーが隙を見せる瞬間を狙っていたのだ。
「竜らしく、炎でも吐いてみる?」
耳元で嬲るようにささやくウヴァ。首を極められてしまったら、いくら炎のブレスを吐いても真後ろにいるウヴァには届かない。
「……それで、俺に勝ったつもりかよ?」
絞められた気道から、何とか声を出すペコー。
「アンタの出番だ、東方先生!」
ウヴァの貌に、初めて動揺が浮かんだ。
視線の先にいるのは、幽鬼のようにゆらりと佇む女剣士。温度の無い視線が交差する。ウヴァは知っている。この剣士に間合いという概念は意味を持たない。
「東方美人……、生きていたの?」
「久しいね、沈黙の。ずいぶんと爽やかな姿になったものだ」
そよ風がウヴァの一張羅であるほつれたエプロンの裾をめくる。何をどうしたのかはわからないが、風は明らかに東方美人と呼ばれた剣士が起こしたものだった。
「棄てたわ。その名も鎧も」
「そうかね」
しゃらん、と太刀が音を立てる。
「腐臭がするわよ、東方美人」
「この世に未練が強すぎてね、恥ずかしながら黄泉返ってしまったよ」
「それでならず者の用心棒に? 剣聖の名も堕ちたものね」
「恥ずかしながら」
「おい先生!」
冷ややかな態度のウヴァはともかく、まるで世間話を愉しんでいるかのような東方美人の態度にペコーは苛立った。
「アンタ、コイツと戦うのが望みじゃなかったのかよ!? 早くこいつを斬っちまえ!」
「断る」
「何!?」
「言ったはずだ。肉盾は小生の美学に反する。人質を取った相手に打ち勝ってあっさり成仏できるほど、小生の魂は効率的ではないのだよ」
つまらなさそうに告げる東方美人の瞳に、情と呼べるものは見られない。人質に対する憐みや義憤などは欠片もなく、あるのは己の求める闘争への渇望、それのみだった。
(戦闘狂が!)
しかし、そこに感情も打算もないだけに、交渉の余地もまた皆無である。
「女共を解放しろ……」
手下たちは一瞬、躊躇するが、すぐに行動した。縄を解かれた娘たちはおぼつかない足取りで村に向かって駆け出す。木柵の向こうから何人かの勇気ある男たちが着物や布を持って走りより、彼女たちを抱きかかえるようにして柵の向こうへと姿を消した。
「さぁ先生、これで――うおッ!?」
すでに巨大な剣閃が放たれていた。すかさずペコーを離し、飛び退くウヴァ。吹き荒れる衝撃波が哀れな馬車の残骸を巻き上げ、背後の大木が左右に分かれてゆっくりと倒れていく。
「刀は美しいのに。持ち主が無粋すぎるわ」
「そう思うなら貴君が引き取ってくれたまえ。ただし、小生を殺してね」
2人が交わした会話はそれきりだった。
ゆらりと無造作に立つ東方美人の、周囲の空気がチカチカと明滅する。同時に彼女を中心に無数の真空波があたりを無差別に斬り裂いた。あまりの速さゆえに視認すらできない抜刀術。だが、繰り出される不可視の剣撃を、ウヴァは驚異的な反射神経でかいくぐる。ウヴァの拳が突き上げられる。巻き起こる強烈なつむじ風を剣士は自らの身体を回転させていなし、その遠心力を加味した太刀の一閃が横凪に払われる。
森林の一画が一太刀で無慈悲に伐採される。だが、ウヴァはリンボーダンスのように身体を大きくそらして剣閃を躱すと、その無理な姿勢のまま片足が地面にめり込むほど踏み込み強引な蹴りを真上に放つ。
森の木々よりも高く上空へ突き上げられる東方美人。だが、その身体に傷はない。ウヴァの蹴りと同じ勢いで自ら空へ跳び、威力を殺したのだ。
通常、人間が足を地から離すとその後の行動は極端に制限されるが、こと東方美人にとってその理屈は通用しない。ウヴァもそれを見越し、自身も空高く跳躍して追撃を試みる。
東方美人はウヴァの予想通り、虚空を蹴って真横に翔んだ。ウヴァもまた同じように空を駆ける。2つの軌道が空中でぶつかり合った。長大な刃と重鋼な蹄が火花を散らす。風圧が木々を激しく揺らし、千切れた若葉が乱れ飛ぶ。
翼を持たないはずの二つの影は、空を縦横に飛翔び回ってぶつかっては離れ、離れてはぶつかってを繰り返し、そのたびに激しい火花が散った。
「何だアレ?」
呆然と空を見つめる一団の中で、ペコーは思わず声をもらした。
確かに、自分が知っている戦いとは次元が違う。拮抗する力と技のぶつかり合いは、まるで舞踊のように美しい。
――だが、それだけだ。
純粋にそれだけだ。その先には何もない。純粋であるがゆえに、2人の戦いは無価値で無意味で無駄な行為だ。
「おい」
ペコーは配下の1人に命じる。
「射落とせ」
命じられた手下は、戸惑いを隠せなかったが、ペコーの竜の眼に睨まれ、慌てて矢をつがえて空へ向け矢を放った。
「お前らもだ」
一度激昂したペコーが冷静さを取り戻した時。それは彼らが知る最も恐ろしい時である。弓矢を持っていた者は皆、泡を喰って次々に矢を放ち始めた。
「無粋な!」
怒気を発したのは東方美人だった。無差別に襲い掛かる無数の矢を、太刀の鞘を回転させて叩き落す。
一方、ウヴァも拳や蹴りから発する風圧で矢を吹き飛ばすが、得物を持たず、眼前に強敵を見すえながらの対応はさすがに困難だった。
「くっ――」
乳房に焼けつくような痛みが走る。矢が一本、深々と突き刺さっていた。
「……興が冷めたな。此度はここまでとしようか」
一方的な決めつけだが、ウヴァにも異存は無かった。勝つためには卑劣な手段も厭わないペコーが2人の勝負に横やりを入れてきたということは、彼が村に被害を及ぼす可能性も出てきたということだ。
村にはルフナがいる。羞恥と苦痛の記憶に苛まれている彼女に、あの外道の顔を再び見せるわけにはいかない。
空を蹴り、いずこかへ飛翔していく東方美人。ウヴァもまた、空を蹴り、大地へ向かって加速する。
激しい地響きと共に砂塵を噴き上げてウヴァの身体が地面に着弾した。荒れ狂う衝撃波が木々を蹂躙し、ペコー一味を吹き飛ばし、ある者を樹木に叩きつけ、ある者を空圧と大地ですり潰し、血と肉の塊へ変えてゆく。
「ははっ、すげぇな、すごいすごい」
暴風に蹂躙される手下たちの中、ただ1人悠然と構えるペコーは、確かに竜人としての風格があった。
「悔しかったろ。そんな強さを持っていながら、お嬢様を守れなかったんだからな」
ウヴァの表情は変わらない。だが、一瞬、空気中にチリッと静電気のようなものが走ったのをペコーは見逃さなかった。
「ルフナお嬢様な、ずっとアンタの名前を呼んでいたぜ? 犯られてる時も、掘られてる時も、殴られてる時も、ずーっとな」
それでもなお、ウヴァのシャープな美貌は小揺るぎもしない。
「犬の真似をさせて、ワンワン以外しゃべったら殴るって言っても、お前の名前を呼ぶんだよ。だからつい、ぐったりするまで殴っちまった。手ぇ突っ込んで、中を直接な」
ビシッ――と、空間にヒビが入るような感覚。ウヴァは、おもむろに乳房に刺さった矢を引き抜いた。ご丁寧に返しがついていた矢尻には、脂肪と肉片がこびりついている。
投げ捨てられた矢が、からんと音を立てる。
刹那、ウヴァは大地を蹴り、ペコーへと肉薄していた。
「教えてやるよ。ケンカはな、先に頭に血が上った方が負けるのさ!」
ウヴァの拳が届く前に、ペコーの蹴りが彼女の乳房にめり込んでいた。矢尻に穿たれていた肉を、竜の鉤爪が抉り苛む。
ペコーの眼に、苦悶に歪み、激痛にあえぐウヴァの姿が見える。さすがのウヴァもこの痛みには耐えられず、がくんと膝が笑う。この機を逃がさず、無防備な腹にパンチを叩き込む――
「ゲホォッ!?」
――否。
肺腑の空気と胃液を吐き、苦痛に苛まれたのはペコーの方だった。
彼が見ていたウヴァの姿は、こうあってほしいと望む幻だった。
事実は、ウヴァの乳房に蹴りをねじ込んだところまで。その先は勝利を確信したペコーの驕りが見せたイメージだった。
むしろ、現実があまりにペコーの想像を超えていたために、彼の脳がそれを受け入れることを拒否したと言うべきか。
現実のウヴァはペコーの卑劣な痛撃をものともせず、むしろ突進は勢いを増し、角の生えた頭をペコーの腹に突き込んだのである。
「う、うおおぉぉぉーーーーーッ!」
そしてなお驀進を止めず、木々をなぎ倒し、岩を粉砕し、なお止まらず、地に転んでもなお、空を蹴って突進を続ける。
視界が90度回転し、地面に仰向けに転がったペコーの腹の上に、倒立したウヴァがいる。そんな奇妙奇天烈な体勢になってもなお、ウヴァは突進を続ける。
「ヘゲェ! オゴッ! オゲェッ!」
ウヴァの強靭な脚が虚空を蹴るたびに、衝撃波が周囲を薙ぎ、地盤に蜘蛛の巣のようなヒビが拡がる。
さながら肉体杭打機である。
先刻、東方美人との対戦で見せた、ウヴァの巨体が空を駆けるほどの虚空蹴り。その衝撃が今、大地を背にしたペコーの腹に何度も何度も打ち込まれるのである。
(くそ! イカレてやがる!)
ペコーは戦略を誤った。ウヴァを挑発し、怒りに我を忘れさせる算段だったのだが、そもそも前提が間違っていた。
ウヴァは初めから怒り狂っていたのだから。
「グゥアアアアアアアアッ!」
咆吼とも絶叫ともつかぬ奇声とともに、ペコーの身体がオレンジ色に発光した。膨大なエネルギーが膨れ上がり、ウヴァの身体を弾き飛ばす。
「どうやら、俺を本気にさせたようだな……」
メリメリと音を立てて、ペコーの身体が膨張していく。両手足を覆っていた紅い鱗状の皮膚が全身を覆う。骨格が変形し、獣じみた凶暴さを具現化させていく。頸が伸び、頭には角が生え、唇が裂けてめくれて牙が伸びる。
現れたのは、直立する巨大な赤竜だった。最凶と呼ばれる竜人の持つ、最狂の奥の手。一時的に己の中に流れる竜の血を活性化させ、かつて神として世界を統べたと言われる伝説の真竜の力を顕現させる。
「こうなっちまったら、俺自身でももう止められねぇ。テメェをブッ殺す前に、まずはテメェのしたことを後悔させてやる」
ワニのような口がガバッと開き、口腔が輝き始める。高熱が空気を灼き、陽炎が立ち昇る。強烈な光を放つ火球が、吐き出された。それはウヴァの頭上を通り過ぎ、彼女のはるか背後にある防壁を紙屑のように吹き飛ばし、村の真ん中に着弾した。
円形に広がる爆炎が、家々を薙ぎ払い一瞬のうちに焼き尽くす。
「村は全滅だ。お前のせいだ。お前のせいで、何の罪もない村人が皆殺しになったんだ」
赤竜が嗤う。
熱風を背に受けながら、ウヴァは振り返らなかった。その黒く燃える眸は、相手を見すえて放さない。