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第11話:最終戦・下

「イヤアァァァァァァァァ! ママ! ママぁぁぁーッ!」


 水車小屋に少女の泣き声が響いていた。彼女が怯えているのは、空を覆う暗雲がもたらす闇の(とばり)だった。

 闇は怖い。恐ろしい。

 闇は少女の記憶を呼び起こす。


 冷たい床。臭い空気。開かない扉。

 この扉が開く時は、ケダモノたちが暴力を携えて入って来る時。

 暗闇の中で。ケダモノたちの臭いの中で。身を引き裂かれるような痛みの中で。

 少女はひたすら探し求める。

 あの温かい大きな手を。あの優しいまなざしを。あのやわらかい桃色の乳房を。


 でも。

 どんなに求めても。

 その小さな手がつかむのはケダモノたちの欲望で、その声に応えるのは野太い怒声で、その目に映るのは底なしの闇で――


 暗闇は何度も少女の心を壊してきた。

 ガラスのようにひび割れて、砂塵(さじん)のように砕かれて、粉塵(ふんじん)になるまですり潰されても、まだ足りないと。

 闇は、少女の心の奥から忌まわしい記憶を引きずり出し、執拗に少女に見せつけ、心を壊そうとする。


「イヤぁ……もう、イヤ……殺じで……もう、殺じでぐだざい……」


 少女の悲鳴に深い絶望の色が混じる。

 そんな少女を抱きしめ、あやそうとしている村娘は、思わず耳を塞ぎたくなった。

 泣き出したいのは自分も同じだ。突然空が濛々(もうもう)とした煙のような雲に覆われたと思ったら、まるで真夜中のような暗黒が訪れたのである。

 小屋の外はすでに村人たちがパニックを起こし、空に向かって合掌し一心不乱にわけのわからない祈祷(きとう)をささげている者さえいる。


 遥か彼方から、オン……オン……といううなりが聞こえてくる。獣の咆吼よりも恐ろしく、狂人の呪言よりもおぞましい、耳から脳を(けが)し、全身を腐食させるような音。


 うなりと共に突風が吹く。まるで波のように押し寄せる生温かい空気の壁。風と共にすさまじい怖気(おぞけ)が運ばれて来る。理性を削り、命を消し飛ばさんとする邪悪な風。


 悪意に満ちた闇とうなりと風に、人々は、生きとし生ける者たちは、心身を弄ばれ、蹂躙され、冒涜されるしかなかった。


 儚い少女を抱き締めながら、村娘は思う。

 自分も叫びたい。何かにすがりたい。それが叶わないなら、いっそ狂ってしまいたい。

 でも、目の前で、この腕の中で火が付いたように泣き叫ぶ少女を放っておくことはどうしてもできなかった。

 一向に泣き止まない少女に対する苛立ちが無いと言えば嘘になる。

 でも、皮肉なことに、少女の泣き声が村娘の理性を繋ぎ止める役割を果たしているのも事実だった。


 それともう1つ。

 村娘に根拠のない安心をもたらす存在がいた。


「ははは、王都ではなかなか愉快なことが起きているな」


 しゃらん、と刀を鳴らしながら入って来る長身の女剣士。ウヴァから亡者と呼ばれていたこの女性は、文字通り邪悪な突風などどこ吹く風とばかりに飄々(ひょうひょう)としていた。


「ありがたいことに小生の眼球はまだ腐っていなかったと見える。夜目も千里眼も健在なのは重畳だ」


 この状況で、哀れに泣き叫ぶ少女を前にして、朗らかに笑えるこの女性の精神構造は恐らく他者とは大きく異なっている。黄泉返(よみがえ)った死者であるためか、それとも元からこうなのかはわからない。だが今は、例え歪で狂っているとしても、揺るがぬ自我を持っているこの剣士が頼もしかった。


「いったい、何が起きてるだか?」

「邪神だよ。竜よりも大きくて、魔王より恐ろしい怪物が王都で暴れているのさ」


 説明されても事態が想像の範疇(はんちゅう)を超え、呆然とするしかない村娘を尻目に、東方美人は虚ろな片目で泣きじゃくる少女を抱き上げるとゆらゆらとあやし始めた。


「恐れることはないよお嬢ちゃん。君とこの村は小生(しょうせい)が護る。まぁ、それにあの程度の相手、屠龍雷(とりゅういかずち)の敵ではないさ」

「でも、あの人は牛さんだろ? 魔王より強い奴より強いのか?」


 ふむ、と東方美人はわずかな間考え込んだ。いつの間にか、ルフナの泣き声は弱弱しいしゃくり上げに代わっていた。片目が凝っと女剣士を見つめている。


「ちょっとした物語をしよう。長きに渡る人魔の戦乱の中で、人と魔と、それから竜までもが力を合わせて戦った奇跡の瞬間の話だ」



◇ ◇ ◇



「好き! 好き好き好き! 愛おしィーい!」


 これ以上なく歪み切った口から嘔吐のように愛の殺意を吐き出すシャヌス。その目は充血を超えて深紅に染まり、極限まで収縮した瞳孔が左右別の方向にぐるぐると回転し、血涙が溢れ出ている。

 邪神と一体化しつつある彼女は、本来の肉体もおぞましいモノに変質しつつあるようだった。


「肉片骨片1つ残らず! みーんなわたくしのモノですわァァァ!」


 巨大なミミズの表層に生えた歯が骨肉を咀嚼(そしゃく)し、無数の(はえ)たちの口吻が体液を吸い上げる感触が接続された神経を通して伝わって来る。


「あひぇーェ! おいしぃーい!」


 爪が皮にめり込むほどに頭をかきむしりながら、シャヌスは恍惚の表情で絶叫する。快楽物質に脳を侵されているのか、彼女の言葉からは徐々に理性が失われているようだった。


 だから。

 彼女は気付くのが遅れた。

 邪神を通して感じる血肉の味が、彼女の知る獣肉のそれとは大きく異なっていることに。


「あぇ?」


 ようやく違和感に気付き、無数の眼を通して闇を(のぞ)く。


「――ッ!?」


 そこに居たのは、ウヴァと黄金竜だけではなかった。

 極細のガラス繊維を思わせる、白く透き通った体毛。艶めかしい曲線を描く純白の外骨格。そして身体のいたるところに痛々しく埋め込まれた人造魔石。


「うぶッ……」


 シャヌスの口腔が、瞬時に()えた胃酸に満たされる。頬が風船のようにぶくりと膨らむ。


「おげぇ!」


 彼女は盛大に吐き散らかした。

 実際にそれを食していたのは彼女ではない。だが、邪神と一体化しつつある今、それを食べたのはシャヌスであるも同然だった。


 異形の蜘蛛神、霊獣ルクリリ。


 ギシャアアアーーーーッ!


 ルクリリの憤怒を乗せた金切り声が、邪神の神経を通してシャヌスの耳を穿(うが)つ。


「ぎゃああッ!」


 獣じみた悲鳴を上げるシャヌス。血涙が霧となって噴き出した。


 霊獣ルクリリはその巨体と長い脚で黄金竜とウヴァを護るように包み込んでいた。脚と脚の間には蜘蛛の糸で編まれた被膜が張られ、ルクリリ自身の身体も含めて1つの白い球体のようにも見える。糸自体は非常に繊細に見えるが、その実態は鋼線の如き強度としなやかさを持ってウヴァたちを完璧に守っていた。

 一方で、その無防備な白い背中には無数の蠅が鋸状の口吻を外骨格に突き立て、体表を呪いの炎と毒煙を吐く醜いミミズが這い回るが、その彫刻のような美貌は小揺るぎもしない。


「大丈夫? 牛のお姉さん」


 ルクリリの胸の谷間から、小柄な人魚(マーメイド)が顔を出してウヴァに語り掛けてきた。


「お陰様で。むしろあなたのお母さまの方が危ないんじゃない?」

「大丈夫! 母様(マミー)は強いもん」


 人魚の娘は、ギザギザの乱杭歯を見せてにかっと笑った。そこには、母を信じる娘の貌と、母の身を案じる子どもの貌が同居していた。


母様(マミー)が、あなたに恩を返したいんだって」

「……私は、何もしていないわ」

「あたしを助けてくれたでしょ? それに、それだけじゃない」


 娘は、母の背中の向こうに渦巻く暴虐の闇をきっと見据えた。


「アイツに、借りを返してやりたいって」


 ルクリリの胸の谷奥にはもう1人。頭を喪った鳥人(ハーピー)(むくろ)が蜘蛛の糸に巻かれてくっついていた。


「あと、どのくらい耐えられる?」


 ウヴァの黒い瞳が、真っ直ぐにルクリリの赤い複眼を見上げる。


 ギィ!


 ルクリリは意志の炎を宿した深紅の眼でそれに応える。代わりに人魚が答える。


「あなたが戦う限り、いくらでも!」


 それを聞いたウヴァの瞳に、初めて意志の光が宿った。



◇ ◇ ◇



「かつて、勇者と呼ばれた哀れな人間がいた。彼は、英雄となるには優しすぎたのかも知れん。心を病み、邪神の力に魅入られてしまった。とある魔族の村を丸ごと滅ぼし、村人を生贄に捧げて邪神を招喚してしまった。あの時の邪神は、おそらく贄となった村人たちの最も恐れる姿をしていたのだろう。水晶のような骨に腐った肉をぶら下げた、不死者(アンデッド)と化した龍だった」


 勇者を語る時、一瞬だけ東方美人の瞳に哀しげな蒼い光がよぎった。


「君たちがこの話を知らないのは無理もない。偉い人たちは邪神の存在を隠したからね。人間は愚かであってはならず、魔王よりも恐ろしい存在があってはならず、この世にあらざるおぞましい存在が龍の姿をしていてはならなかった。アレは全ての種族にとって都合の悪い存在だったのだ。それに何より……」


 東方美人は外の暗闇に目を向ける。


「こんな不愉快な体験、さっさと忘れてしまいたいだろう?」


 この絶望的な感覚を『不愉快』で片付けられる彼女の精神はやはりおかしい。

 村娘がそんな彼女の語りを黙って聞いているのは、何かに気を向けていなければ気が変になりそうだったからだ。外で空に向かって一心不乱に何かを祈っている者と本質は同じ、逃避による自己防衛だった。


招喚(しょうかん)された邪神を放っておくわけにはいかなかった。奴は生贄となった村を丸ごと喰らい尽くすと、その地に大樹のような根を張り、首の数を無数に増やして世界各地に伸ばし始めた。目に付いた生きとし生けるものを片っ端から喰らいながら」


 しゃらん、と刀が鳴った。


「そんな怪物を倒すために、人間の王と魔族の王、そして竜の王が手を組んだ。戦いを止め、兵士たちは自国の防衛に専念するとともに、各々が秘蔵していた最高の戦力を邪神の撃破のために集めたのだ。人間の国からは、妖刀に魅入られ血の味に飢えた頭のイカれた剣士が選ばれた」


 東方美人はその剣士のことがあまり好きではないようだった。それは同族嫌悪か、それとも――


「竜族からは黄金の真竜王が自ら立った。そして魔族を代表して現れたのが、魔王軍の四天王が1人『沈黙のハイランズ』と呼ばれていた全身鎧の魔人だった」



◇ ◇ ◇



 我先にと王都を脱出する者たちを、魔王の配下たちは必死にまとめようと四苦八苦していた。

 自分達も邪神の放つ瘴気に()てられ、心身が急激に摩耗していく中で彼らを鼓舞していたのは魔王の大きな背中だった。

 倒壊し、炎上する我が居城を凝っと見つめる深い(しわ)に縁取られた目。長い戦乱を生き抜き、苦難の連続を耐え抜き、血を吐く思いで築き上げてきた生きた証が崩れ去っていく様子を見つめる1人の男。

 骨も萎え、肉はしぼみ、魔力も枯れた老人は、それでもなお、逃げる者たちの殿(しんがり)を務めていた。幅広の肩当と長大なマントでかさ増しした背中で必死に臣民の心を支えようとしていた。

 その手には、あちこちがほつれて擦り切れたボロ布のようなエプロンと、星霊銀(ミスリル)と天然の魔晶石で作られたブローチがあった。


(思えば、余はお主に残酷な命令ばかりしてしまったな)


 勇者に家族を殺されたばかりの彼女に、ニンゲンと手を組むように命じた。

 戦いが終わり、生きる気力を失った彼女に、新しい家族を授けたが、それは彼女に2度目の大切なもの失う哀しみを味合わせる結果となった。

 いや、そもそも、彼女が親と故郷を失ったのは戦乱のためだ。戦いを始め、早期に終わらせることができなかった責任は魔王にもある。


 あの日、とある戦場跡で、魔王は1人の少女に出会った。

 黒い双眸(そうぼう)(くら)い炎を宿した少女の貌。少女は死体からはぎ取った剣を魔王に向け、食べ物をよこせと叫んだのだ。

 魔王が携行していた乾パンを与えると、彼女はそれを貪り食い――物影に隠れていた幼い獣人の男子に口移しで食べさせたのだった。その子は自力でものを噛めないほどに衰弱していたのだった。


 飢えた身体と荒んだ心を持ってもなお、少女を少女たらしめていたのは母のような優しさだった。


(お主の瞳に、あの昏い炎を灯してしまったのは余だ)


 魔王に保護された2人は後に夫婦となり1児をもうけた。だが、運命は彼女の瞳から黒い炎を消そうとはしなかった。


 そして今も。

 あの黒い獄炎の中で、心の芯に宿る優しさを無情に焦がしながら、彼女は絶望的な戦いに身を置いている。


 それでも――


(それでも、余は信じているのだ。いつの日か、お主の目からあの炎が消えることを)


 エプロンとブローチを握る手に力がこもる。

 幾多の戦場を切り抜けた魔王の勘が告げる。これらはウヴァの瞳から憎しみの炎を消し去るための神器になるであろうと。


(そうだな。これらは余が責任をもって預かろう。我が魔王軍の誇る最強の四天王よ。だから、お主も責任をもって受け取りに戻って来い。お主が再び一介の乳母に戻るために――)



◇ ◇ ◇



「こォのクSO虫GAァァAァーーーーーッ!」


 もはや雑音(ノイズ)以外の何モノでもなくなったシャヌスの絶叫が呪炎となって邪神の口から吐き出される。

 体毛と外骨格をはぎ取られたルクリリの軟肉(やわにく)に、毒に濡れた歯が容赦なく喰い込み、群がる蠅たちの鉤爪が肉を抉り、口吻が突き立てられる。


「くR死め! も絶Eろ! のTうち魔Wれぇー!」


 ルクリリの身肉に深く食い込んでいる人造魔石に噛み付いたミミズを通して、膨大な魔力が注ぎ込まれる。

 漆黒の電撃が白い蜘蛛神の全身を駆け巡り、その身を焼く。


母様(マミー)!」


 人魚(マーメイド)の娘が少しでも痛みを分かち合おうと母の身体にしがみつく。だが、ルクリリは身体を揺すってそれを許さなかった。

 今、ルクリリの意識は背後には一切無かった。邪神など、取るに足らない、一顧(いっこ)だにする価値もない存在だった。彼女が見ているのは胸の中に抱く子供たちと、おそらく彼女と同じものを見、守ろうとしているであろう戦友だった。


 ウヴァは初め、精神を集中させるため目をつぶろうとした。だが、やめた。ウヴァの前には、彼女が忘れかけていた大切なものがあるような気がした。

 例え種族が違っていても、心のありようが似て非なるものであっても、通じ合っていると思ったものが例え錯覚だったとしても。

 そこに確かにあるものを、彼女は見つめなければならない気がした。



◇ ◇ ◇



 腕に白い少女を(いだ)き、剣士は(うた)う。


「あの戦いに身を置いた者は、誰もが世界の終わりを覚悟した。各国の軍隊はことごとく壊滅し、邪神の侵攻を止めることはできなかった。邪神に挑んだ者たちも、奴の中心部に近づくことも出来ずに倒れ伏した。そんな我々に見せつけ、嘲笑うように、邪神はその姿を変えた。彼奴の無数の頭が、贄となった者たちの貌に変わっていった。地に伏した戦士たちに、喪った想い人の苦悶の表情を見せつけたのだ」


 この時、また東方美人の瞳に陰りが差した。この自称イカれた剣士の前には誰の貌が現れたのだろうか?


「だが、その悪意こそが邪神の失策だった。奴が見せた致命的な隙だった。沈黙のハイランズの前に現れたある父子(おやこ)の貌が、ハイランズの何かを変えた。彼奴(きゃつ)が鎧を脱いだ時は驚いたよ。魔王軍最強の四天王と呼ばれた魔人の正体が、乳牛の獣人だったとは」

「まさか……」

「沈黙のハイランズ。本名をウヴァ・ハイランズ。小生の国では、後に彼女を屠龍雷(とりゅういかずち)と呼ぶようになる」


 当時の邪神は、腐り果てた龍の姿をしていたという。では、雷とは何なのだろうか?



◇ ◇ ◇



 ついに、ルクリリの巨体が崩れた。脚と脚の間に張り巡らされていた糸も急激に張力を失い、解け消えていく。


「HYAAッ! HAHAHAHAHAHAHA!」


 邪神の狂笑が響き渡る。


「SAあ! 今度Kそ! 喰Rう! ウヴァ! Wたく死の! モノ!」


 無数のミミズたちが寄り集まり、螺旋上に絡み合う。巨大な鞭と化したそれは横薙ぎにルクリリの身体を吹き飛ばした。

 その時、邪神の眼球に何かが映った。


「?」


 無数の眼でそれを視認しようとしたその瞬間――


「ギャアアアアアアアアアアーーーーーッ!」


 邪神が凄まじい悲鳴を上げた。

 邪神の眼球を灼いたのは、(ほとばし)る光だった。太陽が爆発したかのような閃光だった。


「何!? 何が――起――ッ!?」


 そこへ更なる衝撃が邪神を襲う。


()ッ!」


 気合のこもった雄叫びが、邪神の聴覚を刺し貫いた。

 ルクリリの向こうから現れたのは、全身から(まばゆ)い光の闘気を発するウヴァの姿だった。

 練りに練られた闘気が超高温の熱波となっておぞましい闇黒を()いてゆく。炎に包まれた蠅たちがもがき苦しみながら灰すら残らず燃え尽きていく。


(フン)ッ!」


 ウヴァが全身に力を込める。足元の地面が広範囲にわたって陥没し、魔王城がすっぽり入るほどのクレーターが大地に穿たれた。

 それを合図に、彼女の身体を包んでいた光が収れんされる。光は凝集することでさらに輝きを増していく。

 今、ウヴァの胸に二つの超新星が生まれていた。

 膨大な気を流し込まれた乳房が、はち切れんばかりに張り詰めていく。


 両の乳房に集まった光が、さらにその先端へと集約されていく。


()ァァアアアーーーーーッ!」


 ウヴァはしなやかな身体を大きくのけぞらせると、気を込めた両(てのひら)でパンパンに張った乳房を勢いよく挟み込んだ。


 先端から迸る光り輝く二つの線が天空を真っ直ぐに貫いた。


 絹糸の如く極細に引き絞られた二筋の光。だが、その圧縮された凄まじい光量はどんなに遠くからでも、例え地平線の彼方からでも見る者の網膜に焼き付くほどに眩かった。


 大地から空へと走る2本の光線。

 それは、天を覆う闇を貫く雷光の剣。

 剣が、振り下ろされる。

 白昼に夜をもたらす黒雲を両断し、暗黒の化身たる邪神の(からだ)を断絶する。


 防衛本能のまま極限まで委縮し球状の塊となった黒ミミズの群れを袈裟斬りに薙ぎ払う一刀目。

 浮力を失い、地上に墜落せんとする邪神を両断する二刀目。

 おぞましい躰に刻印された歪な十字が白熱する。

 圧縮されたエネルギーが爆散した。


 まぶたを閉じても遮ることのできない眩い光。大地はおろか天をも揺るがす轟音。そしてあらゆるものを吹き飛ばす熱波。

 それは確かに、邪悪な闇を討ち払う荒々しい力だった。

 しかし、その後に訪れた澄み渡る青空と、清らかな静寂、温かみのあるそよ風はこの星に生きる全ての者たちを優しく包み込んだ。



◇ ◇ ◇



「ママ……?」


 少女の髪が、陽の光に照らされて美しい銀色に煌めいた。


「そうだよ。やはり貴君には昏い闇よりこういう光の方が似合う」


 雲ひとつ無くなったはずの晴天から、雨が降り注いだ。雨は温かく、なぜかほのかに甘く、そして少し生臭かった。



◇ ◇ ◇



「嘘……嘘ですわ……わたくしが……このわたくしが……」


 腐汁にまみれた肉塊の中から、それはずるりと這い出てきた。


「違う……違うのです……わたくしは……本当はこんなことをしたくなかった……でも、エルフが……終戦間際に魔族に加担したエルフが、他種族から白い目で見られないために……わたくしは……」


 この期に及んでまだ自己を正当化しようとするそれの言葉を聞く者は誰もいない。

 むしろ、それの言葉を理解できる者が居なかったと言うべきか。


「シャヌス……」


 いや、1人だけいた。

 一度は同じ邪神に取り込まれ、意識感覚を共有した唯一の存在が。しかし、そのかけがえのない存在がそれに向ける目は、もはや嫌悪ですらなかった。


 魔王子グレイが懐から取り出した手鏡を見せる。そこに映っていたモノを見て、()()は絶叫した。

 それは、一応人型をしていた。体の右半分はかつてシャヌスと呼ばれていたハイエルフのものだった。だが、残った左半分は、ドロドロと蠢く黒い肉の塊。朽ちた邪神の残滓だった。


「……、……! ……!」


 言葉は音声になる前に黒い泡となってブクブクと弾けていく。


「自業自得だ。アレは、決して自ら受け入れるべき存在では無かったんだ……」


 すべては、ハイエルフこそ歴史を操って来たと自負する種族としての驕り。邪神すら制御できると考えた彼女自身の慢心。その結果である。

 その事実を突きつけられてもなお、()()は首を振って否定した。頬に涙の筋を貼りつけ、哀れみを乞う瞳を向ける。


 だが、グレイはもう二度とそれに目を向けようとはしなかった。


「無事だったか、グレイよ」


 巨大だが、弱々しく(かし)いだ人影が現れた。


「父上!」


 息子の声には色濃い安堵の響きがあった。

 魔王の後ろにひっそりと続くもう1人の姿を見とめて、グレイの瞳はさらに輝いた。


「おお、ウヴァ!」


 魔王子は乳牛の獣人に駆け寄り、その手を握った。


「君は命の恩人だ! 今日のことは決して忘れない。私にできることなら何でもしよう!」


 そんな彼の手をウヴァは穏やかに、だがきっぱりと引き離した。


「では、さっそく1つお願いがあります」

「ああ。何でも言ってくれ」


 ウヴァの瞳に、あの昏い炎が甦る。


「そのお顔を、一発殴らせていただけますか?」

「……え?」


 何を言われたのかわからず、きょとんと首を傾げるグレイに、ウヴァは冷たく続ける。


「やはり、覚えていらっしゃらないのですね。殿下がルフナ様にした仕打ちを」

「何を言っている? 私の求婚を断ったのはルフナの方ではないか。もしかして、シャヌスと婚約したことを言っているのか? でもそれは――」

「違います。お嬢様が、殿下に最後にお会いになった時のことです。傷物になってしまった自分が王家に加わることはできないと殿下に告げた時のことです」

「……私は何か、失礼なことをしたのだろうか?」


 ウヴァは、ふっと軽く溜め息をつくと、いきなりかつてシャヌスだったものに歩み寄り、その髪の毛を掴むとグレイに向かって投げつけた。


 半身を異形に(けが)された哀れな裸体を、グレイは反射的に抱きとめる形になった。


「来るな汚らわしい!」


 どさりと重い音が響いたのを最後に、場は沈黙に支配された。


「倅よ……」


 消え入るように枯れた声。

 それに続くようにウヴァは静かに語り出す。


「あの時、お嬢様はまだ気丈に振舞っておられました。恥を忍んで、殿下の前に傷身を晒して婚約をお断りしたのも、名門家の娘として振舞うことで何とかご自身を保っていたのです」


 どこまでも清水のように静かな声。瞳だけが黒く燃えている。


「自分の身に起きたことを詳しく語らなかったお嬢様の心を察してほしかったのではありません。優しい言葉が欲しかったのでもありません。儀礼的でよかった。いっそ無言でもよかった。ただ、静かに別れていただきたかった……」

「……」


 グレイは言葉を返さない。それは自分がルフナに言い放った言葉の罪深さを感じていたからではない。彼の認識では、自分があの時ルフナに対して思ったことを事実として告げただけだった。

 いや、今の今までそのことを忘れていたのは、心のどこかで恥じていたからかも知れない。だから自分に都合の悪いことを無意識へと封印した可能性はある。

 しかし、今のグレイはそんなことは何も考えておらず、ただひたすら目の前のウヴァという存在が、魔王や邪神をもしのぐ暴力が、憎しみ(ヘイト)を自分に向けている恐怖だった。


「あえて申し上げます、殿下。お嬢様の心の最後の支柱(ささえ)を壊したのは、殿下です。ひび割れ砕けかけていたお嬢様の心を最後の最後で踏み砕いたのは、貴方です!」


 魔王子の喉笛(のどぶえ)からひぃ、と音が漏れた。

 ウヴァの拳が震えるほどに強く握られ、腕の筋肉がビキビキと音をたてて膨張する。


「待て! 待ってくれ! 父上! 彼女を止めてください! 話を! 話を――」


 岩のような拳がグレイの頬にめり込んだ。


「あばああああーーーーーッ!」


 魔王子の身体は独楽のように回転し、放物線を描いて吹き飛ぶ。周囲の瓦礫を弾き飛ばしながら地面を転がり、城塞の残骸に激突した。


「……」


 ウヴァは、振るわれなかった拳を握ったまま立ち尽くしていた。


「ウヴァよ。どうか、これで許してくれ」


 踏み込んだ足を大地にめり込ませたまま、渾身の力で息子を殴った父親は詫びた。


「未来の魔王を、臣に殴らせるわけにはいかんのだ……。それに、彼奴(きゃつ)には余に代わって邪神の再封印をしてもらわねばならんでな……」

「陛下……」


 老いた王に語り掛けるウヴァの声には、寂寥が滲んでいた。


「私に東方美人を()()()()()のは、陛下ですね?」

「そうだ。ボッツヴィルの娘があのようなことになっていくらも経たないうちに倅はあのハイエルフと婚約した。その時に余は(せがれ)を疑ってしまったのだ。体面を保ったまま女を乗り換えるために、あ奴がならず者共を雇ったのではないか、と」


 どっと疲れを感じたように、魔王の肩が落ちた。


「だが、これだけは信じてくれ。余は、かの妖刀使いを暗殺者として甦らせたのではない。この世で唯一お主と肩を並べられる者として、お主の怒りを鎮めてくれさえすればよかったのだ……」


 しばしの沈黙の後、ウヴァは無言のまま踵を返した。


「ウヴァよ」


 魔王が煤けたボロ布のようなエプロンと、夕陽に光るブローチを差し出した。

 それは王から忠臣への最後の命令であり、父親になりきれなかった男から娘になりきれなかった少女への最後の言葉だった。

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