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第10話:最終戦・中

 いったい何が起きているのか、王都の者たちの誰にも説明ができなかった。

 生物としての本能を脅かすような地鳴りと共に、厚い暗雲が空を覆い、景色は夜よりも暗い闇の色に染められていく。


「逃げろ! このままでは――とにかく逃げるんだ!」

「どこへ逃げるってんだ!?」

「終わりだ……世界は終わるんだ……平和なんてやっぱり夢だったんだよォ!」


 混乱し、逃げ惑うというにもあまりに無秩序な右往左往の中、誰かが空の一画を指さした。

 いや、それは空ではなく、日ごろ彼らが仰ぎ見ている摩天楼――魔王城だった。


「魔王城が……崩れていく……」


 巨大なアリ地獄に()まれていくかのように、魔王城は内側に向けてひしゃげながら崩壊していた。

 彼らの心に畏怖と共に安心をもたらし、彼らの生活に秩序と共に安寧をもたらしてた魔王城。それは、永き戦いを終えた魔族たちにとって泰平の象徴であり拠り所であった。


 その魔王城が、まるで海辺の砂城のごとくあっけなく消えていく。その光景は王都に暮らす者たちから立つ気力すら奪っていくようだった。


 無秩序な瓦礫の塊と化していく魔王城に代わり、大地を裂いて現れるのは黒く巨大で禍々しい何か。

 それは初め、かつてそこにあった魔王城を飲み込むほどに巨大な球体のようだった。赤黒い陽炎のような邪気に覆われたそれは、よく見ると何やら(うごめ)いているようだった。蠢動(しゅんどう)は徐々に大きくなり、やがてそれは球の形から逸脱していく。


 誰かが、道に嘔吐(おうと)した。


 それは例えるなら、無理やり球の形に押え込まれた無数の生きたミミズが、電気を流されて一斉にのたうち始める様――というのが近いだろうか。


 しかも、その黒いミミズたちは1つ1つが蛇龍よりも大きく、表面は皮膚病に冒されているように(ただ)れていた。


 誰かが、泡を吹いて失神した。

 大声で意味の分からない言葉を叫び、号泣または哄笑し、発狂してしまった者もいた。


 それの全身に不規則に浮き出た吹き出物のような大小の泡立ちは、全て眼球だった。それの全身に縦横に走る裂傷のようなひび割れの向こうには、歯と舌があった。


 それはこの世のモノではなかった。

 それはこの世のモノと認めてはいけなかった。


「異界より来たる、招かるざる邪神……。二度もこの目で見ることになろうとは」


 魔王の老いた巨体が崩れ落ちた。魔王城にいた全ての者たちを転移(テレポート)させた魔王は、さすがに力を使い果たしていた。

 これは、魔王の甘さや優しさではない。統治者としての計算の結果である。

 シャヌスの言葉が正しければ、邪神に雑多な魔力を取り込ませることは暴走に繋がる。かつての悲劇を繰り返さないためにも、これ以上1人でも(にえ)を増やすわけにはいかなかったのだ。


 それともう1つ。魔王がある意味安心して力を使い果たせる理由があった。


「ウヴァよ……魔王の名において命じる。今一度、邪神の脅威から王都を守ってくれ……」


 それは、信頼だった。


「御意」


 静かに応え、黒い異形へ向かって跳躍していくウヴァ。その跡には、擦り切れたエプロンとシャヌスから取り返したルフナのブローチが残されていた。

 それらの品々は、ウヴァがルフナの乳母をしていた証でもあった。



◇ ◇ ◇



 そこは、無数の触手に埋め尽くされた闇の空間。


「あはぁぁぁぁぁぁぁんッ!」


 その中心で、一糸纏(いっしまと)わぬ姿になったシャヌスが恍惚の雄叫びをあげていた。

 白く細い身体に、大小の黒い触手がのたうちながら群がり、這い回る。それらはシャヌスの皮膚を食い破り、肉の中へともぐり込んでいく。そうしてそれらはシャヌスの体内の経絡に食らいつき、魔力を直接啜り上げるのである。


「あッ、あぁっ、はっ……あんッ――」


 本来ならば凄まじい苦痛を味わうはずだが、シャヌスの(かお)に浮かんでいるのは性的ともいえる悦びだった。

 それは、黒い触手の体表からじくじくと分泌されている粘液が、甘く()えた臭いを発していることと無関係ではなさそうだ。


「やめろ! 来るな! 来るなァッ!」 


 一方、ここにもう1人、手足を振り回して群がる触手を払いのけようと足掻(あが)く者がいた。魔王子グレイの身体は、鎖による拘束からすでに解き放たれていた。彼を縛っていた魔力の鎖に力を注ぐ余裕がシャヌスから失われたためであるが、この時すでにグレイはこの場所から逃げ出す(すべ)を失っていた。


 足元を埋め尽くす、ヒトの腕ほどもある巨大なミミズのような触手。踏みにじっても瞬時に再生し、足に噛み付いてくる。

 壁も、天井も、びっしりと触手で覆われている。そもそも、壁や天井が存在していたのかも怪しい。上下感覚も、平衡感覚も、遠近感すらすでに当てにならなくなっている。

 はるか彼方(かなた)で聞こえていたはずのシャヌスの嬌声(あえぎ)が、次の瞬間にはすぐ耳元で聞こえてくる。

 グレイの身体にも何本かの触手が侵入していた。熱のある痺れとともに左腕の感覚が失われた。


「やめろ、やめろォ!」


 だが、彼にとって何より恐ろしいのが、この痺れに甘美な快感が伴われていることである。このまま触手に取り込まれるのも悪くない。そう思わせる何かが思考を侵食してくる。それはさざ波のようにさりげなく、津波のように圧倒的だった。


「はぁぁぁぁ……もっと、もっと来てェ……、わたくしは……この大いなる力と……一つになるのォ……」

「来るな! 私の中に入ってくるなぁ!」


 対照的な2人であったが、奇しくもその望みは同じだった。その意味は正反対ではあるが。


(さあ、早くおいでなさい、ウヴァ!)

(早く来てくれ! ウヴァ!)


 そんな2人の脳内に、ある光景が流れ込んで来た。邪神がその無数の眼球で捉えた外界の映像が、触手を通して彼女らと一体化した神経に情報を送っているのである。


 それは、空を翔ける黄金の真竜の背上に立つ、乳牛の獣人の巨躯だった。


「はぁ、はぁ……そう、来ましたかぁ……」


 シャヌスの意識が、邪神と同調した。この瞬間、彼女の身体は巨大な闇の異形そのものとなった。



◇ ◇ ◇



「もう、お山に帰りたい……」


 黄金の真竜は思わずつぶやいた。

 あのいけ好かないダークエルフに敗れてから、不満の溜まる日々を送らされてきたが今日ほどの厄日はない。

 地を這う虫けらと思っていた獣人から手痛い一撃を喰らい、眷属(けんぞく)の飛竜たちや公衆の面前で降参のポーズを取らされた。

 人知れず涙を流したあと、顔を上げてみれば空には全身の鱗が逆立つほどおぞましい怪物が出現しており、しかも目の前にはあの恐ろしい女性が仁王立ちしていたのだ。

 しかし、怯える彼の鼻面を女性は優しくなでた。困惑する彼の口に、女性は大きく膨らんだ胸を当てがった。舌先にかすかに甘く、生臭い雫を感じ、思わず飲み込むと全身に活力がみなぎる気がした。傷ついた喉元の臓器――火焔嚢(かえんのう)の鈍痛がウソのように治まった。


(なんじ)は一体……」


 呆然と問いかける真竜に、彼女は短く答えた。


「力を貸して、黄金竜」


 彼は一瞬目を閉じたが、答えは考えるまでもなかった。強い意志を示した者に力を貸すのは竜の本懐である。


「よかろう。今この一戦の間、汝を我が主と認めよう」


 それからおよそ10分後、彼の口から洩れたのが前述のボヤキである。

 実をいうと、彼は真竜の中でも頂点に立つと言われる黄金竜ではあるが、この世に生を受けてからまだ50年ほどの子供だった。人間で言えば、思春期に入ったばかりくらいの少年である。


 そんなまだ幼いともいえる竜を、ウヴァは首筋を撫でて励ます。

 彼の弱気を責める気にはなれなかった。それほど、目の前の敵は絶望的な存在だった。

 ウヴァたちめがけて一斉に襲い掛かる、おぞましい姿をした巨大な黒ミミズの群れ。そのひとつひとつが竜に勝るとも劣らない大きさと力を持つ上に、裂傷のような口からは黒い火球や毒の塊が吐き出される。

 当然、全てを避けることなどできず、あっという間にウヴァと黄金竜は満身創痍の有様となっていた。

 それでも、2人は邪神の猛攻をかいくぐって突き進む。黒く(うごめ)く肉の向こうに、シャヌスのいる中心部があると信じて。


 ウヴァは迫り来るミミズの頭を殴り返し、蹴り飛ばす。発生する真空波が敵を断頭し、または真っ二つに唐竹割(からたけわ)りにする。

 黄金竜もまた、持ちうる飛行能力の全てを駆使して邪神の肉迫をいなしていく。光り輝く火球を吐いて敵の呪炎や毒液を迎撃し、隙あらば反撃を試みる。

 しかし、切断し、あるいは焼き尽くしたはずの醜悪なミミズ頭はすぐに再生し、再びウヴァたちに襲い掛かる。

 奥に進むほど、邪神の攻撃は激しさを増した。


 不意に、2人の前方、邪神の中心部と思しき箇所からうなりのようなものが聞こえてきた。黒い霧がもやっと現れたかと思うと、それは爆発的に膨張してウヴァたちを飲み込んだ。


「ぐっ……」


 黒い霧の正体は、(はえ)の大群だった。血走った眼球のような目を持ち、握り拳ほどの大きさをした奇形の蠅。うなりは蠅たちの羽音だった。

 黒い奔流に呑み込まれたウヴァたちを襲うのは、四方八方からの打撃だった。蠅たちはその眼球がまるで機能していないかのように、所かまわず全速力でぶつかってくる。また、その口吻だけは蠅というより蚊に近く、(のこぎり)のような刃のついた鋭い剣状となっている。


 膨張を続ける蠅の霧。その圧倒的な圧力にはさすがの真竜も耐え切れず、2人は一気に圧し戻された。


「ぐは――ッ!」


 かつて魔王城の城壁だったであろう巨大な瓦礫(がれき)に叩きつけられる真竜とウヴァ。蠅の猛攻を受けたウヴァの全身はズタズタになっていた。全身の筋肉と胸の脂肪のおかげで内臓には至っていないが、皮膚を(えぐ)られ、(おびただ)しい血が流れていた。


「どうする? このままでは――」


 竜が問う。その声は焦燥を隠せない。


「策はあるわ……」


 言葉とは裏腹に、ウヴァの(かお)に冴えはない。


(策はある。でも……)


 四方八方から鎌首をもたげるミミズの群れ。鉄砲水のように押し寄せようとする蠅の霧。

 この猛攻を耐えきることができなければ、逆転の一手を打つことはできない。



◇ ◇ ◇



「うひっ……きひひっ……ヒヒヒヒッ――!」


 歯をむき出し、(ましら)の鳴き声に似た嬌声を上げ、シャヌスは(わら)う。


「下等な獣人の分際で! 我ら(エルフ)の英知に抗うなどおこがましいと知りなさい」


 かたわらのグレイはすでにぐったりと黒い肉に中に倒れ伏し、抵抗というにはあまりにささやかな足掻きを続けていた。そんな彼を(わら)うかのように触手たちは群がって彼の魔力を啜っている。


「わたくしのモノ。全てわたくしのモノですわ! 王冠も、玉座も、国も城も! 世界中の女がわたくしの着る服に憧れ、世界中の商人がわたくしの求める品を探して奔走する……。世界中の親がわたくしの考えを子供たちに伝え、後世へと受け継いでいく……」


 シャヌスの両目から歓喜の涙が滝のように流れ落ちる。


「世界はわたくしになり、わたくしは歴史になる! わたくしのモノ! 全てわたくしのモノ! あまねく命も! 未来永劫! わたくしのモノですわ!」


 シャヌスの口から、法悦の言霊と共に、唾と涎が闇に煌めく。

 これが、これこそが彼女の本質だった。彼女の行動原理のすべてだった。歴史の裏側、エルフの誇り、あるべき文化などなどなど、すべては詭弁。彼女の欲望を覆い隠す装飾品にすぎない。


 他人の持っているモノが欲しい。


 それが近しい者の所有物であるほど、物欲は増大してしまう。

 だから、シャヌスはルフナを陥れた。そうしなければならなかった。無二の親友であるルフナが持っていたモノが欲しくなったから。

 可愛いブローチが、見目(みめ)が良くて地位もある男が、見つめていると吸い込まれそうになるつぶらな瞳が、ルフナの持っているものが欲して欲しくてたまらなくなったから。


 そして今。

 シャヌスが魔王を――世界を敵に回し邪悪な偽神をも召喚した理由も。


「ウヴァ……貴女も、邪神の血肉となってわたくしと1つになるのです! 貴女が欲しい! ルフナのために振るう力! ルフナに捧げた心! 劣等種族には過ぎたモノですわ!」


 シャヌスの意思が、無数のおぞましいミミズとなり醜い蠅となってウヴァに殺到した。


 押し寄せる闇黒の怒涛を前に、ウヴァは両脚を踏ん張って身構えていた。その、力みなぎる筋肉に、きつく引き絞られた口に、射抜くような瞳に迷いはない。


 耐える。そして勝つ。


 ルフナを脅かすあらゆる闇を討ち払うために。

 もう一度、愛するお嬢様に、愛しい娘に、晴れ渡った澄んだ空を見せるために。


(カッ)!」


 裂帛(れっぱく)の気合と共に、ウヴァの身体が紅蓮の炎の如き闘気に覆われる。


「あはァァん! 美しい! 美しいですわ! ひどいわルフナ! こんな宝石のようなお方をわたくしに隠していたなんてェ!」


 ミミズたちの無数の口から、無数の蠅たちの口吻から、シャヌスの呪詛が噴き出す。刹那の煌めきなど、この膨大な闇の前には無力。それを証明するように、ウヴァの身体は混沌の渦に巻き込まれ、消えていった。

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