第1話:暴虐の乳牛
「鬼じゃああああ! 鬼の所業じゃあああ!」
干からびた農村に、老人の悲痛な叫びが響き渡った。
「後生じゃあ! みんな持って行かんでくれぇー!」
老人が涙と鼻水を垂らしながら必死にしがみついているのは、巨大な獣の脚だった。
白と黒のまだら模様をした脂ぎった獣毛に覆われ、しなやかに発達した筋肉が隆々と搭載された太腿から鉄骨のような脛が伸びた屈強そのものな獣の脚である。先端には、高密度に精錬された鉄塊を思わせる、重量感のある蹄が地面にめり込んでいる。
「頼む! お願いじゃあ! 今年は稲も麦も不作なんじゃ! それを全部持って行かれたら年貢を収められん! 奴らに収めるものも無うなる! アンタ、わしらに死ねと言うのかぁーっ!」
蹄を舐める勢いで、自分たちの惨状を訴える老人の頭上に降り注いだ言葉は、無慈悲だった。
「そうよ人間。死になさい」
「あぁぁぁーーーーーッ!」
老人の魂の叫びを踏みにじった獣の声は、女性のものだった。
否、獣の形をしているのは下半身だけだった。その巨大な二脚の上は薄桃色の肌をした女性の姿だった。
贅肉のひとかけらも存在しない、艶めかしくも強靭な筋肉。相貌はシャープに整っており、美人の部類に入るだろう。両のこめかみのやや上から前方に向けて湾曲した黒い角が生えている。髪は黒いショートヘア。前髪のひと房だけが白い。
だが、彼女の外見を記す上で最も重要なのは、暴虐的ともいうべき巨大な乳房だった。1つ1つが己の頭よりも1回り大きい。発達した筋力と肌の張りにより保たれようとする美しい球形が、自身の重みと星との引力により絶妙な曲線を描いている。
その身には、煤けたボロ布一枚をエプロンのように纏っているのみ。乳房こそ半分近くはみ出ているものの、下半身が長い毛に覆われているため、不思議とみだらな色気は感じない。
彼女は牛――それも乳牛の獣人だった。しかし、彼女の身体から発せられる雰囲気には、牧歌的な印象は欠片もない。あるのは極低温の炎ともいうべき怒りの波動。巨体の中心部に燻ぶり、今にも爆炎を噴き上げんとしている暴力への衝動だった。
老人を見下ろす黒い瞳は、そんな彼女の内部で静かに稼働する内燃機関を覗く穴のようだった。一切の感情が殺されたガラス玉のような瞳の向こうに、温度の無い昏い炎が垣間見える。
彼女を取り囲む村の若者たちは、すでに戦意を失くしていた。老人だけが無様に意味の無い抵抗を続けていた。
だが、若者たちを責めるのは酷である。相手は村一番の大男よりも5割増しの長身であり、村人総出で一日がかりで運び集めた穀物の大袋を片方の肩に天高く積み上げ、軽々と担いでいるような存在なのである。
抵抗したところで、小蠅を追うように蹴散らされるのは目に見えていた。老人の抵抗がただひたすらに無駄なのだ。
獣人の女性は、大方の予想どおり枯れ木同然の老人を蹄の先で弾き飛ばすと、悠々と村を背に森深い山の中への消えていった。
「神も仏もねぇだよ……」
村の若者がぽつりとつぶやいたのは、彼女の姿が見えなくなってからゆうに1時間も経ってからだった。それまで、誰もが先刻までの恐怖と、この先に待つ絶望への虚無感に囚われていたのだ。
「年貢だ、ショバ代だ、疫病だ、水飢饉だ、その上はぐれ魔族だ! 神様は人間の百姓なんぞ死んじめぇとよ!」
「ほんとだよ! 死んだ方がましだよぉ! いっその、みんな首くくるだか!」
男たちに交じって1人、獣人に鎌を向けていた気丈な娘が、泣きながら地面に伏した。収穫した穀物を失ってしまった今、女子供を待ち受ける運命は身売りである。
「冒険者雇うだ」
誰かが言った。
「こぼれた米かき集めて、蓄えもありったけ集めて、腹の減った冒険者、探すだよ」
「ばか言うな」
初めて発せられた建設的な意見は、だが誰にも賛同されなかった。
「冒険者なんてもういねぇ。いても人間の腹ペコ冒険者なんて、何十人雇ったところでみんな殺されちまうだよ!」
言い返す者は誰もいなかった。
「んだ……勇者も、王様も、みんな魔族にコロッと殺されただ……」
やがて、先ほど獣人の脚にすがりついていた老人が、はるか遠くを見つめながらつぶやいた。
そう。かつて勇者は敗れ、人間の国は滅ぼされた。この世は魔王に支配される多様なな魔物たちの世界であり、ニンゲンはその非力さを嘲笑われながら辺境でひっそりと生きる存在であった。
暮れなずむ空に星は見えない。
「夜が明けたら、奴らが来る……」
老人が力なく口を開いた。
「奴らに、女っこを差し出すだ……」
村中に、さざ波のように絶望が拡がっていく。
老人は地に伏して泣きじゃくる娘に目を向けた。彼女は、老人が愛してやまない孫娘だった。
「村長の家に生まれた娘として、村を守ってくれ……。今夜は、好きな男の家に泊まるといい」
それが、老人に、村の大人が彼女にできる全てだった。
◇ ◇ ◇
村に無慈悲な朝が来た。
娘が、夜を誰と共に過ごしたのかは本人たちしか知らない。しかし、地平線に陽の光が差したときには、娘はすでに身を清め、白い貫頭衣一枚を身に着けて村の広場の真ん中に座っていた。
老人が、土気色をした蝋人形のような顔つきで孫娘の手首に縄を巻いていく。
村の物たちが集まって来た。皆、成人した男である。他の女性や子どもたちは夜のうちに村を脱し、穴倉や森の中に身を潜めているのだった。
無言の中、陽が上りきったころ、彼方から地響きが聞こえてきた。
「来た……」
誰かが、痰を吐くように言った。
それは、30を超える数の重く速い足音だった。ケダモノたちが山道を駈け下りてくる音だった。
「何てこった。こんな時に限って、奴ら総出で来やがったのか……」
娘の身体が強張り、震えはじめた。
「ヒャッハァ! おう家畜共! 生きてるかァ!?」
現れたのは、雑多な種の獣人や小鬼、豚鬼らで混成された一団だった。ある者は馬に、ある者は魔獣にまたがり、ひれ伏す人間たちを睥睨している。先頭を往くのは、2頭の馬に引かせた馬車の上に仁王立ちする狼の獣人だった。
「ニンゲン共! テメェらが生きてられんのは誰のおかげだァ!?」
「へへぇーっ、ルイボス様のおかげでございます」
老人が地面を舐めるように土下座する。だが、ルイボスと呼ばれた狼男は老人の頭にぺっと唾を吐きつけた。
「おいおいおい、ニンゲンてのはどうしてこう恩知らずかね? 命の恩人に対する誠意がまるで見えねぇんだが?」
本来、この場には彼らに差し出されるはずの収穫物が大袋に詰められて山と積まれているはずだった。
ルイボスが鋭い牙を剥きだす。その隙間からぞっとするような低い唸り声が漏れ、村の者たちは一斉に額を地面にこすりつける。
「実は昨日、収穫した穀物は全部はぐれ魔族に奪われてしまいました……」
「はぐれ魔族だァ?」
ルイボスが苛立ち気に牙を剥きだす。
「アニキ……またですぜ……」
何かを言いかけた配下を目で制し、ルイボスは馬車を降りると老人の残り少ない頭髪を掴み上げた。
「聞いていいかい? はぐれ魔族に襲われたって? じゃあ何でここらにゃ一滴の血の臭いもしやがらねぇのかね?」
老人の肩がびくりと震える。
「黙って差し出したってワケだ。俺たちの飯をへいこらと。テメェら男気ってモンがねぇのかよ!?」
ルイボスはギラついた目で老人の瞳を射るように覗き込む。
「こいつァ、そろそろ見せしめが必要だな。村の奴ら全員、皆殺しだ」
「それだけは、どうかお許しを……」
「俺の鼻を舐めるなよ? 隠した奴らも絶対に見つけ出してやる」
「お慈悲を、どうかお慈悲を……」
「うるせぇ!」
大気を震わせる咆吼に、老人の細い身体は風前の紙切れのように翻弄される。
「ったくニンゲンってのは、甘やかせば甘やかしただけ付け上がりやがる。出すものは出さねぇ、でもお慈悲は下さいか! 舐めてんのか!? どう落とし前つけるつもりだ? あぁ?」
「あ、あの娘を……」
老人がか細い声を絞り出す。ルイボスは横目で自ら手首に縄うった娘を見る。悪くない、と内心ほくそ笑むが、顔には出さない。
「ふざけるなよジジイ。あんな小娘一匹で、俺たちの相手が出来るのかよ?」
ルイボスの背後から、部下たちの下卑た忍び笑いが聞こえてくる。でっぷりと太った豚鬼などは早くも涎を垂らし、股間を屹立させている。
老人の顔から血の気が引き、枯れた黄土色の肌がどす黒いものへと変色していく。
「お相手いたします!」
ケダモノの問いに答えたのは、娘だった。
「わ、わたくしめが、が、が、頑張って、皆様にお仕えいたしますッ――! だか、ら、どうか、堪忍してくださいッ!」
ガタガタと震えながら、縛られた手で祈るように、彼女はルイボスの足元にかしずく。無理矢理に作った笑顔で、憎い相手に媚を売る。
「くくっ」
ルイボスは嗤うと、老人を放り投げ、片手で娘の手を掴み上げた。
「お前、ジジイの血族だな」
狼の嗅覚で体臭の類似を嗅ぎつけたのだろう。嘘はつけず、娘は素直に頷いた。
「孫で、ございます……」
「そうか、じゃあ、おじいちゃんに成長した姿を見てもらいな!」
言うが早いか、ルイボスは娘の貫頭衣の裾をめくり上げた。魔物たちが歓声を上げる。
「ああっ」
「見ろジジイ! 男共もだ! 飯も出せねぇ役立たずの家畜共! これがテメェの命と引き換えに差し出したモノだ!」
娘は衣服を剥がされ、両脚を広げる形で抱きかかえられた。
「あぁぁぁぁぁーーーーーッ!」
娘の心が膨れ上がる恐怖と羞恥により決壊した。真っ赤に染まった顔を両手で覆い、子どものように泣きじゃくる。
「お許しをッ! ルイボス様ッ!」
老人が哀れな声を上げた。
「ああ、許してやる。娘と引き換えに村の奴らは許してやるとも」
「どうか、これ以上、その子を……その子を……」
「ああ。ジジイのその顔を見て思い付いた。今ここで娘を抱いてやる」
「ああ……そんな……」
全身を絶望に歪ませる老人に、狼男はさらなる追い討ちをかける。
「俺ら全員でな。これから毎日、次の収穫までだ!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
老人の顔じゅうの血管が切れた。顔面を青紫色に染め上げると、老人は血の涙と血の泡を噴き、身体をエビぞりにして地べたに倒れた。
「あ?」
ルイボスが配下に目配せする。小鬼の男が1人、進み出ると短剣の先で老人の脇腹を突いた。
「何だおい、死んじまったのか? 憤死って本当にあるんだな、ウケるわ」
狼男のせせら笑いで、我に返った娘が目を見開いた。
「爺様ァーッ!」
「テメェが見るのはジジイじゃねえ! 俺を見ろ! 頑張ってお仕えするって言ったよなぁ!?」
裸に剥かれた娘は、老人の死体の前に放り投げられた。
「四つん這いになってジジイの顔を跨げ。ご奉仕の姿をしっかり見てもらわねぇとなァ!」
「お許しを……それだけは……」
「3数える間にやれ。でないと村の奴らが死ぬ」
「うぅ……」
娘は苦悶に貌を歪ませ、這うように老人のもとへ向かう。
「うわああああああーっ!」
そんな娘の姿を見かねたのか、村の若者が1人、鋤を振り上げ狼男に向かって飛び出した。
「こん外道ーっ!」
「……バカめ」
狼男がにやりと牙を剥く。自ら絶望の種を貢いでくれるとはありがたい。狼の嗅覚は、この若者と娘の臭いがかすかに混じり合っているのを嗅ぎつけていた。
男を死ぬ寸前まで殴りつけたら、その目の前で女を犯す。そう方針を定め、ルイボスは拳を若者の顔面に叩きつけた。
「おぼっ」
「――あん!?」
だが、若者の突進を遮ったのは、狼男の拳ではなかった。
両者の間にどこからともなく中身の詰まった大袋が投げ込まれ、若者は足を取られて転び、ルイボスの拳は彼の頭上をかすめただけだった。
「誰だ!?」
魔物たちが一斉に振り返る。
彼らの背後には、いつの間にか奪われた穀物の大袋が山のように積み上げられており、その上に1人の獣人の女性が座っていた。
村人たちの顔に、一様に怯えが走る。それを見て、ルイボスは察した。
「テメェが、例のはぐれ魔族か?」
その問いに、女性は呆れたような笑みを浮かべた。
「久しぶりねルイボス。私の臭いを忘れたの?」
「あぁ? テメェ何を言って――」
啖呵が止まる。女性の臭いに、ルイボスには確かに憶えがあった。自分は確かに彼女をよく知っている。
「ウヴァ……」
彼女はにやりと笑い、次の瞬間、その巨体を跳躍させた。地震を起こし、砂塵を巻き上げながらルイボスの眼前に着地する。
「ようやく会えたわね。こそこそ隠れてくれちゃって。貴方本当に狼? モグラじゃないの?」
「そうか。あちこちで俺の縄張りを荒らしていたのは、俺をおびき出すために……」
温度の無い、昏い炎を宿した黒い瞳がルイボスを見下ろす。
ルイボスは狼獣人としては大柄の方である。だが、相手は乳牛とは言え牛の獣人。自分より高い目線に本能的に威圧され、思わず後退りそうになる。
「何のつもりだ?」
「わかっているでしょう? わからないのなら、それでもいいわ。バカに生まれた自分を呪いながら、訳の分からないまま死になさい」
「テメ――」
刹那、渇いた破裂音と共にルイボスの横顔が爆ぜた。否、そう感じたのはルイボスの主観だ。彼の顔は一応原形をとどめている。では何が起きたのか? わからないまま、ルイボスの身体がぐらりと傾ぐ。
次は反対側の横顔に衝撃。その時、彼はようやく顔面に平手打ちをされているのだと理解した。
初撃でバランスを崩していたため、2撃目のビンタによりルイボスは身体を独楽のように回転させながら地べたに倒れ伏した。
「げほっ!」
血涎と共に牙がボロボロと抜け落ちる。頭がぐらぐらして相手をまともに見ることができない。
「お、お前ら何してる! あの女をやれ!」
呆気に取られていた配下たちが、我に返る。ようやく兄貴分が殴られたのだと気付き、彼らは怒りの咆吼を上げて牛の獣人へと殺到した。
30対1。だが、ウヴァと呼ばれた乳牛の獣人は眉1つ動かさない。そして彼女がおもむろに掴んだのは、足下で目を回しているルイボスの首根っこだった。
「へっ? ――う、うわあああああーーーーーッ!」
狼男の身体が棒切れのように縦横に振り回される。
爪や凶器をもって襲い掛かる野盗たちに対し、ウヴァはすさまじい膂力であろうことか彼らの兄貴分の身体を得物として迎え撃ったのである。
「げっ!?」
「やべっ!」
だが、手下たちは止まれない。闘争本能の過剰な彼らに思考のブレーキは極めて弱い。信念も覚悟も持たないならず者にとって、上げた拳を下すような闘争心では暴力の世界では生き残れないのである。
鋭い爪がルイボスの身体を引き裂く。振り下ろされる金棒が、なまくらな短剣がルイボスの身体を打ち据える。
「やめろぉぉぉーーーーーッ!」
彼の身体は攻撃にも使われた。角付き兜の上から豚鬼の頭を殴り飛ばし、馬車を叩き壊し、牙を剥いた魔獣の口にねじ込まれる。
終いには、彼の身体はヌンチャクのように高速でぐるぐると回転し、手下たちをなぎ倒していく。
「ぎゃあああああああーーーーーっ! わかった! 俺が悪かった! もうやめてくれ!」
ウヴァの手が止まる。だがこの数秒で、彼の徒党の半数は戦闘不能となり、ルイボス自身は満身創痍となっていた。
ボロボロの身体が、まるで食べ残しの骨でも捨てるように地べたに放られた。
「うぅ……」
ぼたぼたと血を流しながら、ルイボスは地面に膝を付いた。
「お嬢様があんなことになっちまったのは、俺の責任だ……。俺はボディガードとしての責任を果たせなった……だから、今こうして裏稼業でしか食っていけなくなっちまったんだ」
ルイボスはウヴァの前に土下座する。
「お嬢やアンタが俺を憎む気持ちはわかる! だけど、俺も被害者なんだ。憎むならお嬢をあんな目に遭わせた奴らだろ? なぁ? ちょっと、待て、やめて、やめてくれって! 俺の話を聞けって――」
今、土下座をするルイボスの後頭部は巨大な蹄に踏みにじられ、頭蓋骨がミシミシと音を立てていた。
「おあ……あ……あぁ……ぁ……」
「私はね、ルイボス。貴方が、お嬢を奴らに売ったと思っているの。いいえ、それだけじゃない。さっきの貴方の振舞いを見て、貴方自身もアレに参加したとさえ疑っている。ああ、どうしましょう。妄想が止まらないわ。怒りに任せてこのまま頭を踏み砕いてしまいそう」
「どうすればいい……? どうすれば、俺の疑いは晴れるんだ……?」
「吐きなさい。お嬢をあんな目に遭わせた連中のことをひとつ残らず」
「……勘弁してくれ。そんなことをしたら、俺は消されちまう」
「じゃあ、ここで死ぬのね。お疲れ様」
ウヴァは一度ルイボスの頭から足を上げると、間髪入れずに踏み砕いた。
「ばぎゃああああああッ!!!!」
砕かれたのは頭ではなく、左手だった。鋼鉄のような蹄に圧殺され、紙のように薄く潰されたその手は、もう二度と戻らないだろう。
「利き手だったらごめんなさいね」
再び、血塗られた重い蹄が後頭部に添えられる。ここに至り、ついにルイボスの心は折れた。
「ペコー……竜人族のペコーだ! バカめ、いくらお前が強くたってなぁ、しょせんは獣人。それも乳牛ごときじゃ竜には敵わ――ほぎゃああああああ!」
左手に続き、今度は左手首が踏み潰されていた。このまま寸刻みに潰されていくのかと思うと、頭から血の気が引き、代わりに黒く冷たい絶望が流し込まれるようだった。
「気のせいかしら。乳牛ごときに負けた狼が、私のことをバカと言ったように聞こえたけれど?」
「すみませんでした……」
「もう1つ、バカな貴方に言っておきたいんだけど、私は1つ残らず吐けと言ったはずよね?」
「え……」
「貴方とペコーの関係は?」
だがこの時、ウヴァの背中を襲おうと忍んでいた子分が1人いた。人間の子供くらいの身長しかない小鬼である。彼は音を立てないよう、慎重に間合いを詰めると、逆手に持った短剣を振り上げ――次の瞬間、ウヴァの強烈な後ろ蹴りを喰らい、頭を文字通り粉砕された。
しかし、その隙をルイボスは見逃さなかった。ウヴァの拘束から解かれるや否や、転がるように走って距離をとる。
「乳牛が。よくも俺様を足蹴にしてくれたなぁ……」
潰された左手からは血が噴水のように噴いている。ルイボスは脇の下に右の拳を入れて力を込め、血を止めた。
「ずっと、テメェのことは気に入らなかった。ボッツヴィル家に仕えていた時からな……」
ルイボスはちらりと配下を見る。幸い、まだいくばくかの戦意とルイボスへの忠誠心は残っているようだ。
「奴を呼べ」
「奴って……まさかアニキ!」
「しょうがねぇだろ! あの大飯喰らい、今使わずにいつ使うんだ!」
へい、と部下の1人が頷き、指笛を吹いた。
「残念だったなウヴァ。お前はペコーには会えねぇ。ここで死ぬんだからな」
ウヴァが呆れたように肩をすくめた。
「……私は、ここで待っていればいいの?」
言葉に詰まったルイボスが一歩後退る。ここに及んで、彼らはようやく山道に積まれた穀物の意味に気が付いた。
一匹も逃がさない。
「……む、昔のよしみで忠告してやる。尻尾巻いて逃げるなら今のうちだ」
「尻尾を巻くのは負け犬の特権ね。牛の尻尾は羽虫を追い払うためにあるの」
(くそ……早く来い……!)
ルイボスの必死の願いが通じたのか、山の奥からずしん、ずしん、と地鳴りが近づいてきた。
「何だありゃ……」
「きょ、巨人……、山の主様だ……」
村人たちが一様に腰を抜かす。木々をなぎ倒しながら現れたのは、赤茶色の髭と胸毛を持つ巨人だった。その大きさは、もはや比べるものが存在しない。ウヴァでさえ、その巨人の前では幼子のようであった。錆びついた鉄兜と、同じく錆びた鉄の腰当を付け、その手には巨大な石の剣が握られている。
「タイタン……」
「へへ、これがペコーの力だ。このデカブツもニンゲン共から山の主だか神だか言われていたが、竜の力にゃ敵わねえ。今じゃこうして俺たちの手駒扱いよ」
そうしてルイボスはウヴァを指さす。
「今日の晩飯はあの牛女だ! 潰して丸焼きにしちまいなぁ!」
「ガアアアアアアッ!」
凶暴な雄叫びをあげ、巨人は石剣を振り上げた。剣といっても、長い石板から柄を削りだしたような鈍器である。だが、それゆえに刀身には原始的な破壊の概念が凝縮されているようだった。
「ひぃぃ!」
悲鳴は村人たちだけでなく、ルイボスの配下からも上がった。超重量の物体が頭上で振り回されるのは誰にとっても恐怖である。
石塊の剣が強大な膂力をもって大地に叩きつけられた。地響きと共に爆風が吹き荒れた。
「へへ……ひき肉いっちょ上りってか?」
だが、砂塵がおさまったとき、ルイボスが見たのは穿たれたクレーターと、その中央に悠然と佇むウヴァの姿だった。彼女の脳天を狙って振り下ろされたはずの石剣は、彼女の肩をわずかにかすめた位置に着弾していた。
(外した? いや違う、あの女、ギリギリの線を見切りやがった)
「遅いのよ」
ウヴァは手のひらを上に向け、指先をくいくいと動かして巨人を挑発する。
「グアアアアアアアアッ!」
巨人は再び吼えると、剣を低く構え、腰を落とし、今度は横なぎに振り抜いた。
ウヴァは、今度は避けなかった。
石の刃が今度こそウヴァの身体にクリーンヒットする。
「ヒィッ!」
村人の誰もが目を覆った。ルイボスの目には喜色が浮かぶ。だが――
「何……だと……?」
巨人の剣が止められていた。ウヴァは微動だにしていない。だが、石剣は確かにウヴァの身体にめり込んでいるはずなのに――
「乳で……乳で止めたァ!?」
巨大な二つの乳房が、岩の刃を吞み込むように受け止めていた。
にやりとウヴァの口もとが歪む。すぅっと息を吸う。
「覇ッ!」
気合一閃。巨大な乳房がぶるんッと弾んだ。その反動はすさまじく、巨大な石剣は巨人の手から弾き飛ばされ、回転しながら空に弧を描く。
空高く弾かれた大剣が回転しながら落ちてくる。轟音と爆風。立っているのがやっとなほどの大地の震動がその場にいた者たちを襲った。
「……ッ!」
恐る恐る振り返るルイボス。彼の背後には新たなクレーターが穿たれていた。その中央にはひび割れた石剣が墓標のように突き刺さっており、凹んだ地面には血や肉片がこびりついている。この一撃で、ルイボスの手下は全滅――いや、消滅していた。
「アアアアアアアアアッ!」
今度は巨人が悲鳴を上げた。剣を握っていた手があらぬ方向に折れ曲がっていた。そんな苦痛にのたうつ相手をウヴァが黙って見守っているはずもなく、彼女は巨人の無防備な足の甲をその蹄で踏み抜いた。
「ヒアアアアアアアアーッ!」
巨人の悲鳴に哀れな響きが混じる。
「えげつねぇ……」
もはや、巨人に戦う意志は無かった。兜も腰当も脱ぎ捨て、おぼつかない足取りで森の中へ逃げ帰っていく。
こうして、ルイボスは独りになった。
「さあ、償ってもらうわ……」
ルイボスはぐしゃぐしゃになった己の左手を見る。この上、何を償うと言うのか。何を償わされると言うのか。
「待て、話しただろ? 俺の知っていることは全部話した! 本当だ!」
「……で?」
「すまなかった! 謝る! お、俺も、ペコーの野郎に脅されていたんだ! 仕方なかったんだ! お、俺だって、お嬢様を売りたくなんかなかった――」
「……お嬢様ね、子どもを産んだの。死産だったけど。その子、確かに狼の血が混じっていたわ」
「あ……ぁぁ……そ、そんな……」
ルイボスの心に絶望の帳が下りた。死刑確定、即執行。目の前の女性が、ルイボスを許す可能性は万に一つも存在しない。
「嘘よ」
「え?」
「お嬢様は誰の子供も産まなかったわ。――産めない身体にされたから」
「……」
「でも残念だったわね。さっき全力で否定していれば生き延びる可能性が少しはあったのに」
かすかな生存の希望は、芽吹く前に踏みにじられた。
「は、はは……」
ルイボスは笑った。それは諦めか、それとも逃避の果ての狂気か。
そんな彼を見つめるウヴァの黒い瞳に、昏い炎が宿る。そこに一切の慈悲は無かった。
初投稿です。拙いところもあると思いますが、よろしくお願いします。