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実家に帰らせていただきます

作者: 安西 恵美

「実家に帰らせていただきます」


 彼女がそう言ったのは、ある日の晩ご飯を食べている時だった。

 いつも通り今日の出来事を報告し合い、和やかな食事風景だったと思う。それが、冒頭の台詞に繋がる切っ掛けは、些細なことだった。と言うのも、今更とでも言うべきことで、積み重なって限界が来た、と言えるのかもしれない。

 兎に角、僕はポロっと言ってしまったのだ。


「ねぇ、聞いても良いかな?」

「なに?」

「どうして、君は魚を食べている時に、魚の話をするんだろう?」

「ただの魚の話じゃないよ。私の友達の話」

「そうだね。君の友達の話だ」


 彼女は元人魚。海の中の世界の一つのある国の末姫だ。つまり、人魚姫。だから、魚の知り合いがいるのは当然だ。


「僕が言いたいことは一つだけ。魚を食べている時に、君の友達の話は聞きたくないということ」


 言ってしまったという思いが、少し頭を過ぎったけれど、言ってしまったものは仕方ない。

 やっぱり何でもないと言いたいのを堪え、彼女の反応をおとなしく待った。


「それこそ、どうしてなの? 私は思い出した友達との思い出を、懐かしんで話しているだけだよ」

「だろうね。それは分かっているよ」


 けれど、魚を食べている時に聞かされる話としては、ちょっと辛いのだ。

 今日、スーパーの鮮魚コーナーで、友達に似ている魚を見ただとか、正直聞きたくはない。


「だけど、君の話を聞いていると、複雑な気分になるんだ」

「何が複雑なの?」

「考えてみて欲しい。僕に魚の友達はいないけれど、僕には犬の友達はいる」

「今は実家で、君の両親と暮らしている、あの可愛いワンちゃんだよね」

「うん。僕が魚を食べるということは、君にとっての僕の愛犬を食べることと、同じなんじゃないかと思ってしまうんだ」

「人魚は犬を食べたりしないよ。それに、君も私も、今食べているのは、私の友達ではないし、スーパーで売られていたのも、私の友達じゃないけれど?」

「分かっている。でも、同じ生き物だよ。この煮魚も、君の友達も。同じ魚だ」

「そうだね。だけど、そういうことが、弱肉強食とか食物連鎖ってことじゃないの? 生きる為にはどんな生き物だって、他の生き物の命をいただいているんだよ」


 言い切ってしまう彼女に、僕は何も言えなくなった。


「……君は相変わらず、逞しいね」


 苦し紛れにそう返すと、彼女は軽く肩を竦めて言った。


「君は優しいね。でも、納得していないみたい」


 やっぱり、彼女は逞しくて強い。自分の意見や気持ちが相手に伝わらなくても、揺らぐことなく自分の考えを持つことが出来るのだろう。それは、僕が惹かれた彼女の魅力の一つでもある。

 二つ目の魅力、というか、彼女は可愛いより綺麗という言葉が似合う女性だ。そんな僕には勿体ない美人である彼女が、不思議そうに首を傾げる仕草は、少しあどけなく見え可愛らしく、愛しいと思う。

 けれど、今はもどかしくもあった。それを彼女は感じているのだろう。


「……君は人間で、私は人魚。違う生き物だから、分かり合えないことがあるのは仕方ないのかな」


 そう呟く彼女は、王子様と結ばれることが叶わず、泡となって消えてしまう人魚姫を思わせる、儚げな表情を浮かべていた。

 かと思うと、ニッコリと笑って言ったのだ。冒頭の台詞を。


「実家に帰らせていただきます」

「えっ……帰るって、帰れるの?」


 動揺したのか、引き止めるよりも、純粋な疑問が口を突いた。


「ちょうど、彼が来てくれたみたいだしね」


 僕の疑問の答えを示すように、彼女は視線を僕からテレビの方へ向けた。釣られたように、僕もそちらに視線を向ける。

 そこに居たのは、いつの間に現れたのか、彼女を通じて知り合った僕等共通の友人、魔術師のミカエラが立っていた。

 現代的なリビングに、いかにもファンタジーな佇まいの彼が居る光景は、いつになっても慣れない。そもそも、登場の仕方も突然だから、慣れるなんて不可能かもしれないけれど。


「彼ならきっと何とかしてくれるでしょ。なんてたって、私を人間にしてくれたのも彼なんだし。というワケで、私達、ちょっと距離を置いた方が良いと思うんだ」


 じゃあ、行ってくるね。まるで、コンビニでも行くかのような気軽さで告げ、彼女は相変わらず笑顔で、瞬く間に僕の前から姿を消した。


「ちょっと、待って……っ!」


 一人残された僕は、彼女の名前さえ呼ぶことが出来なかった。


 僕はよく眠れぬまま、翌日を迎え、心ここに在らずで会社へ行き、上の空で仕事をして、有給休暇を申請した。

 そして、後日、彼女を迎えに行くことにした。


 僕の妻は人魚姫。当然、実家は海の中にある。

 今、僕は会社を休んで、思い出の海へとやって来ていた。彼女と出会った場所だった。

 彼女を迎えに行く。そう決意して来たのはいいものの、彼女の姿は見当たらない。もう海の中にいるのだろう。なら、どうすれば会ってもらえるのか。

 会わなければ、連れ戻すことは出来ない。けれど、会う為にはまずは呼び掛けなくてはいけない。さて、どうしようか。

 人と繋がる為に必要なスマホも、肝心な人に繋げてはくれない。何となく手にしていたスマホを僕はしまった。

 どこまでも繋がっていそうな果ての分からない海を見詰める。そして、スッと息を吸い込み叫んだ。


「リラーっ!! 僕だっ! 君を迎えに来たっ!」


 何も反応はない。穏やかな海が目の前に広がっているだけだった。僕はもう一度息を吸ってまた叫んだ。


「バカ野郎っ! 僕の前から居なくなるなんて、酷いじゃないかっ! 僕はっ! 僕は……君が居ないとダメなのに……っ!!」


 穏やかだった筈の海が波打って見えた。視界が滲んでぼやけている所為だろう。気が付いたら、僕は泣いていた。

 溢れてくる涙は止まることを知らず、仕方なく声を押し殺して泣いた。抑えきれなかった声が、嗚咽となって、次第に咽び泣く。

 それでも、僕は抗うように再び息を吸い、三度目の声を上げる。

 今度は叫ぶことはしなかった。代わりに、歌を歌った。



当たり前の存在の君 それを全て 打ち消して


失う怖さを 強さに変えて 君を守りたい


希望をくれた君が 隣に居てくれたなら


他の何を失っても きっと 生きていけるから



 彼女と出会った頃に流行っていた、ラブソング。特別好きだったワケじゃない。ただ流行っているというだけで、よく聴いていた歌。

 流し聞きをしていたから、歌詞は殆ど覚えていない。けれど、唯一、サビだけ覚えていた。

 不思議と、この歌詞は今の僕にしっくりと来ている。彼女への思い込めて、歌を作るなら、きっとこんな歌詞を書くだろうと思えた。

 人魚は相手に思いを伝える時、よく歌を歌うと彼女は言っていた。だから、僕も歌ってみた。

 届くだろうか。伝わるだろうか。僕の気持ちは。彼女に。


「……」


 海は静かなままだった。届かなかったのか、伝わらなかったのか。僕の心に、そっと絶望が押し寄せる。

 もう声を上げることは出来なかった。まるで、僕は自分の涙に溺れるように、呼吸困難になりそうなくらい、勢いよく泣いた。


「もう、そんなに泣かないでよ。出て行きにくいじゃない」


 呆れたような、困ったような、バツの悪そうな声が聞こえた。彼女の声だ。

 初めは幻聴かと思った。自分の嗚咽が煩くて、よく聞こえなかったのだ。けれど。


「出会った時も、君は叫んでたよね。歌も歌ってた」


 相変わらず、音痴だね。そう軽やかな声が聞こえて。僕は彼女だ! と漸く気付いて、慌てて振り返る。

 涙でぼやけたままの世界に、彼女は居た。

 もう止まらないとさえ思った涙が、呆気なく止まった。僕は乱暴に涙を拭い、走り出した。


「ごめんね。良平くん」


 クリアな世界で、彼女が申し訳なさそうに微笑む。僕は何も言わず、彼女を力一杯抱き締めた。

 必死過ぎて、縋り付くようになっているかもしれない。それこそ、海で溺れてしまった人が、沈んで二度と浮き上がって来れなくなるのを恐れるように。


「……僕は音痴じゃないよ。泣いている所為で、下手くそになったんだ」

「出会った時は、泣いていなかったと思うけどな」


 寧ろ、怒っていなかったけ? と彼女の揶揄うような声が身体中に響く。酷く安心した。


 確かに、あの頃の僕は怒っていたし、憤りを感じていた。どうして、こんな理不尽なことがあるのだろうかと。


 大学を卒業して、社会に出て、新入社員として働き始めた頃だった。僕に仕事を教えてくれることになった先輩が、思い出したくもないくらい最低な人だった。

 仕事を教えるにも、一々感情的になり、言っていることが変わった。

 ミスをすれば、生きる価値はないと言わんばかり詰られ、人の悪口を言うことが生きがいだとしか思えない程、自分のことを棚に上げ、仲間内で盛り上がっている。

 これで仕事が出来ていれば、まだ厳しい人なのだと思えたけれど、あなたの仕事は煙草を吸うことですか? と聞きたくなるくらい、仕事をサボっていた。

 間違っているのは彼だと思いながらも、僕は人間関係において、積極性を欠いている人間。良く言えば、平和主義なのだろうけれど、反抗しようという気持ちには慣れず、ただ耐えることを選択していた。

 最早、仕事とは精神的苦痛を耐えることなのでは? と思ってしまう程に落ち込んでいたある日、ここではない何処かへと逃げ出すような気持ちで、海へとやって来た。

 人気の無いそこは、孤独よりも自由を強く感じた。日々の鬱々とした気持ちやストレスから解放され、気が大きくなったのだろうか。

 僕は無意識に叫び声を上げていた。


「バカ野郎っ!! どうして、僕がお前の気分に合わせて仕事しなくちゃならないんだよ! 自分こそ、ちゃんと仕事しろ! 僕に押し付けてくるな! お前なんか肺ガンにでもなって死んじゃえっ!!」


 荒くなった息を整えながら、これは流石に言い過ぎだと思った。

 熱くなっていた心が、スッと冷えていく感じがした。

 死、なんて言葉を使うなんて子供っぽい。それに、そんなことになって仕舞えば、幾ら嫌いな人であろうと、自分が願ったばかりにと、罪悪感を感じるだろう。

 彼だって、一応、人間だ。親や家族、大切に思っている人がいるかもしれない。

 まぁ、心配しなくても大丈夫だろう。憎まれっ子世に憚るって言葉があるくらいだ。

 彼はそう簡単に死ぬような人には思えなかった。けれど、やっぱり、死を願ってしまったことはいけないことだろう。なので。


「……やっぱり死ぬはナシで。階段から転げ落ちて骨折して、病院に入院して、暫く会社に来られなくなりますようにっ!!」


 と、まるで、神社でお賽銭を投げ入れ、神様にお願いするように叫び直した。

 それから、海を眺めながら、砂浜の散歩を楽しみ、孤独な世界を堪能する。

 気分が良くなって、誰もいないことをいいことに、歌まで歌った。

 夢中になっていると、堪え切れないと言うように、可笑しくて仕方ないという笑い声が聞こえた。

 聞かれてしまったっ!? 羞恥のあまり、顔に熱が上っていくのが分かった。

 足を止め、声がした方へ振り向けば、そこは海。

 カラコロと楽しげに笑う人魚姫が居た。


「君って、ホントに人間? 吠えたと思ったら、今度は超音波。びっくりして、可笑しくて、つい笑ちゃった」


 人間に姿を見られたりしてはダメって、言われてたのに、失敗しちゃったな。と、あっけらかんと笑う彼女に、僕は驚き過ぎて。


「僕は吠えてなんかいないし、超音波も出していないよ」


 なんて、当たり前だけれど、ちょっと間抜けなことを口にした。


「出会った時の君も、私の言葉を否定していたね」

「出会った時の君も、僕のことを揶揄っていたね」

「だって、面白かったから。始めは命を断とうとしているのかと思って見ていたら、楽しそうに歌い出したりなんかして。思い詰めているのかと思えば、意外に能天気なんだなと思って」

「それで、バカだなって?」

「ううん。何か愛しいなって」

「……君、よく変わってるって言われるんじゃない?」

「いやいや、君程でも」

「どうして、僕は変わってる前提なんだろう?」

「人魚を妻にする人間なんて、変わってるに決まってるよ」

「なら、人間を夫にする人魚も、変わってるってこと?」

「うん。私達、変わり者同士、お似合いだよ」


 彼女の言葉は優しく響き、伝わってくる体温も心地良かった。連れ戻すことに成功したのだと思った。

 いや、ちょっと待って。そもそも、『実家に帰らせていただきます』が、こんな簡単に解決しても良いのだろうか。

 僕は彼女の肩に埋めていた顔を上げ、抱き締めていた体を離した。


「ん? どうしたの?」


 キョトンとした不思議そうな顔に、彼女が僕の前から居なくなる切っ掛けとなった、晩ご飯の会話を思い出した。

 あの初めて見るような、憂い帯びた彼女の悲しげな表情も。


「ねぇ、聞いても良いかな?」

「なに?」

「僕はこうして、君を抱き締めて安堵しているワケだけれど」

「私も君に抱き締められて幸せだよ」

「ありがとう。それは、僕もだよ。ということは、もう君は実家に帰る必要はないんだよね?」

「うん。それはそう。というか、帰ってないんだけれどね」

「えっ……帰って、ない?」


 それはどういうことだろう。僕の聞いた、『実家に帰らせていただきます』は、悪い夢を見ただけで、現実じゃなかったとか?

 いや、それなら、今、僕等はここには居なかっただろう。それこそ、時間的に今日の出来事を報告し合い、晩ご飯でも食べているんじゃないだろうか。

 すっかり混乱している僕に、彼女はまた罰の悪そうな顔になった。やや視線を逸らして言った。


「実は最近、あるドラマにハマっていてね」

「うん。それで?」

「お昼に再放送しているものなんだけれど、ホームドラマっていうものなのかな? 家族に色々な問題が起こって、それを乗り越えて絆を強くしていくって、ストーリーでね」

「うん」

「夫婦が喧嘩になってしまうシーンがあって。そこで、奥さんが言っていたの。『実家に帰らせていただきます』って」

「で?」

「私も言ってみたくなっちゃって。それで、あっ、何か今、チャンスかも。これを逃したら、一生言えないかもしれない! そう思って、つい言ってしまったんだよね」

「……」

「そもそも、私は実家に帰るなんてムリだよ。お父様に『帰って来るなよ』って、言われちゃってるし。もう人魚でもないし」


 海の中で生活なんて、始める前に人生が終わっちゃうよ。適応なんてとてもとても。と茶目っ気たっぷりに笑う彼女。

 でも、黙り込んでしまった僕に、流石にマズいと思ったのか。パチンっと両手を顔の前で合わせ、僕の反応を見るのが怖くて見れないというように、ぎゅっと目を瞑って言った。


「本当にごめんなさい! 冗談でもやって良いこと悪いことがあるよね。君を泣かせてしまったこと、本当に本当に、反省してます。許してとは言わない。でも、君が居ないと私も生きていけない。他の何を失っても、君だけは失いたくないの」


 他の何を失っても。それは、さっき歌ったラブソングの歌詞の中にある。

 彼女も僕と同じ気持ちだと分かって、僕は強張らせていた顔を、ゆっくりと綻ばせた。それを気配で感じ取ったのか、彼女は恐る恐る目を開ける。

 タイミングはバッチリだった。僕等の視線はカチリと合った。


「ドラマに感化されて、離婚危機かもなんて思わされて、なんてことするんだと思った」

「うん……」


 また『ごめんなさい』と言い出しそうな彼女を目で制し、大丈夫だよと言葉を続ける。


「でもね。よく考えてみれば冗談だって分かったかなって。だって、君にあんな悲しげな顔は似合わないもの」

「それは、何かそれっぽいこと言って、それっぽい表情しなきゃ、『実家に帰らせていただきます』の空気感を感じることは出来ないから」

「味わう気満々だったんだね。で、どうかな? 味わった感想は?」


 今度は僕の番というように、揶揄うように首を傾げてみせる。すると、彼女はしゅんとして。


「……必死に私を呼ぶ君に、ちょっと嬉しくなった。でも、泣いている君を見て、直ぐに後悔した。でも……」


 途中で言葉を詰まらせる。

 僕はそんな彼女を抱き締めたい衝動に駆られながら、優しい顔を意識して微笑んでみせる。

 意地悪。そんな短い言葉と恨めしそうな視線で、彼女は僕を非難した。可愛らしいけれど、やっぱり、今は我慢だ。


「君の愛情を感じて、結局は幸せでした」


 彼女が僕の胸に飛び込んで来る。受け止めたら、もう我慢はお終い。僕はまた力一杯彼女を抱き締める。


「結局、僕も君からの愛情を感じて、幸せになったよ」

「ごめんね。良平くん」

「もうおあいこだよ。だから、謝らないで。『ごめんね』より、リラに言って欲しい言葉があるんだ。言ってくれる?」

「なに?」

「好きだよ、リラ。愛してる」

「私も好きだよ、良平くん。愛してる」


 互いに愛を囁いて、僕等はどちらともなく唇を重ねた。一度誓った永遠の愛を、もう一度誓い合うように。


 こうして、元の鞘に収まった僕等は、彼女が実家に帰る代わりに、宿泊したホテルで夜を明かし、翌日、自宅マンションへと帰って来た。


「何か、ちょっとした旅行みたいになったね。そういえば、君は有給を使って、私を迎えに来てくれたみたいだけれど、二日も休んで大丈夫なの?」

「問題ないよ。ちゃんと二日申請して、了承してもらったから」

「へぇ、君の会社は、働き方改革が出来てるんだね。だって、よく聞くじゃない。有給、取りづらいって」

「そうだね。良い会社だと思うよ。事情を話したら、心配してくれて、もっと休んでも構わないって言われたくらいだし」

「それは、良かった。やっぱり、人が変わると会社も変わるんだね。あのイヤな先輩が居たら、こうはならなかっただろうな」

「だろうね。彼は上手くやっているのかな?」


 あの最低な先輩だった彼は、肺ガンになることもなければ、階段から転げ落ちて、入院ということもなかったけれど、僕の願い通り、会社から居なくなった。

 なんでも、奥さんの実家が農業をやっていたらしく、奥さんのお父さんがケガをして、暫く安静にしていなければいけなくなったこと機に、そろそろ跡継ぎをという話になったらしい。

 彼は意外にも愛妻家だったようで、会社を辞めて、奥さんの実家に帰って行った。


「やっぱり、君は優しいね。嫌いな人のことを心配するなんて」

「心配だなんて、大袈裟だよ。彼、農業の経験なんてないだろうし。不慣れなことをするのは誰だって、大変だろうからね。誰かが不幸せだからって、僕が幸せになれるワケじゃないんだ。なら、どんな人であっても、幸せな方が良いと思って」

「そういう考え方が優しいんだってば。まぁ、一度、その人の死を願った人の台詞とは思えないけれど」


 意地悪な彼女に、僕は誤魔化すように、こほんっと態とらしく咳をする。


「あれは先輩のことを言えない、最低な発言でした。もうしないので、どうか、君には忘れて欲しいのだけれど」

「了解。私も優しいから、忘れてあげるね」

「ありがとう。ところで、また出掛けるの? さっき帰って来たばかりなのに」


 漸く人心地ついたような気分でイスに座っていたのに、彼女が立ち上がり、いそいそと準備をしているように見え、僕はそう聞いた。

 彼女は待ってましたと言わんばかりに、軽やかに告げる。


「今日の晩ご飯の材料を買いにね。君も一緒にどう?」

「行こうかな。因みに、今晩のメニューを聞いても?」

「そうだね。取り敢えず、魚をメインにしようとは思ってるかな」

「えっ、魚?」


 終息したばかりの『実家に帰らせていただきます』事件が脳裏に過ぎり、思わずたじろぐ僕。

 そんな僕を見て、彼女は茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせる。


「大丈夫。もう友達の思い出話はしないから」


 彼女の言葉に、ホッと息を吐く。

 もし、またこんなことがあったら、今度は僕が、『実家に帰らせていただきます』と言ってみようかな。

 なんて、そんなことは、絶対に有り得ないのだけれど。

 だって、僕は彼女が居ないと生きていけない。逆に彼女さえ居れば、僕の人生はどんなことがあっても幸せなものになる。

 そう思わせてくれる彼女と出会えたことは、あの最低な彼と出会い、苦悩したからこそだろう。


 ここではない何処へと願わなければ、海へとやって来なかった。海に行かなければ、彼女と出会うことはなかった。

 だから、海へと行く切っ掛けを作ってくれた彼には、感謝しないといけない。

 彼女に話した、誰が不幸せになったからと言って、自分が幸せになれるワケじゃないと言う自論も、勿論、嘘ではないけれど、彼の幸せを願っても良いかなと思う、本当の理由は彼女と出会えたからだ。


 もし、僕という人間が彼女の言うように、優しい人間だったなら、それは彼女のおかげ。

 自分が幸せでなければ、誰を幸せにすることなんて出来ない。人に優しさを持つことも、きっと同じだと思うから。

 僕はずっと優しい人間でありたい。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白くて気合十分でよかったのであります!!
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