回想(一)
今より三日前……。
私は大学のキャンパス内にいた。講義が終わり、午後四時半から始まる部活に間に合うように着替えようと思っていた。
現在、二時半――。
まだまだ時間はあるが、念には念をいれて、早めに男子更衣室へ向かった。
更衣室には誰もいなく、私は淡々と着替えを済ませた。黒のロングアンダーマンを着て、その上から半袖の赤いシャツを重ね、黒いジャージを羽織る。下はスパッツを履き、高校時代に使っていた藍色のハーフパンツを履いた。
やっぱり、寒い……。
更衣室はまるで冷気が溜まった檻のようだった。下がハーフパンツということで、特に寒く感じる。
現在二時四十分……。
私は部室に向かうことにした。これといってやることがない。時間まで部室にあるビデオを見ようと私は考えた。
部室には先客がいた。鍵が空いているのだ。鍵を持っているのは先輩達の内でも役職を持っている人に限られている。
つまり、先輩?
講義の関係上、私の部の先輩達はほとんど単位がギリギリであり、四年生にも関わらず、まだ多くの講義を取っている。
この時間、空いている人はあまりいないが、私には一人だけ心当たりがあった。
そう、主将だ――。
私は戸に手を掛けると、ドアノブを回して部室に入った。中にはやはり主将の姿、主将はテレビ画面をじっと見ていた。私は軽く挨拶をすると近くにあった椅子に座り、主将と同じ様に画面を見始めた。
「スギ、明後日だな、ここと試合するのは……」
主将は言った。
「そうですね。明後日かあ……。ここに勝てばウチらは優勝が決まるのですよね?」
私は答えると、画面に映っている黒のチームに目をやった。
黒いメット、黒いショルダージャージ、赤のラインが入っている黒いフットパン、チームカラーが黒の明後日の対戦相手『関東商科大学アメリカンフットボール部ブラックレジスタンス』。彼らは今年のリーグ内では優勝候補だったが、去年から参戦したチームにまさかの敗退を喫し、現在二勝一敗。
私達『神奈川外国語大学アメリカンフットボール部ブルーサンダース』はここまで全て勝って三勝。リーグは五試合。現在二位のブラックレジスタンスに勝てば優勝が大きく近付く。主将はもちろん、チーム全体にも気合いが感じられる二週間を私達は過ごしてきた。
「絶対に勝ちましょう、主将……」
私は拳を強く握りしめた。
「ああ……」
主将は短く答えた。
私はブラックレジスタンスの情報を今主将が見ているビデオから収集してみることにした。
ランプレーに関してはどうか?
ディフェンシブラインは他のチームと比べるとかなりデカい、そして速い。私のチームのオフェンスラインでは真っ向からやっても勝てないだろう。
ラインバッカーはランへの反応が速い。ランニングバックが抜けてきそうな穴に素早く動き、タックルを決めている。
ディフェンシブバックはランプレーでもパスプレーでもレシーバーについている。つまり、マンツーマンで守ることが多いだろう。
特に、56番のラインバッカー、彼は動きも良いし、ラインに負けないくらいのパワーもある。
この情報だと、一見抜け目が無さそうなディフェンスを引いていると思われるだろう。 正直、まともにやったら勝てる気がしない。
かといって、勝たなくちゃ優勝は無い……。
さて、このようなチームの攻め方はこの二週間で確認はしてきた。ランへの反応が早いラインバッカーの裏を狙うプレー、プレイアクションパス、これがこの試合のキーポイント。
上手くいけば、プレイアクションパスに意識がいってランへの反応が遅くなる、かもしれない……。
色々と考えていると、私の携帯電話が震えだした。
メールが来ていた。送信元は姉崎幽、とある講義で知り合った私の友人だ。彼はサッカー部に所属していている。その中でキーパーをやっているらしい。そんな彼は単位がやや危ないらしい。きっとノートを写させて的な内容だと推測して私は早速メールを見始めた。
『今暇か? 暇ならうちの部室まで来てくれ』
ビデオは第四クォーター、残り四十秒まで進んでいた。ブラックレジスタンスのオフェンス、相手のタイムアウトは無し。ほぼ決まったようなものなので、私は主将に軽く会釈をして、サッカー部の部室へ向かった。
姉崎幽、何の用があるのだろうか?
珍しく勉強とは無関係なメールを寄越したとなると、意外と重要度がある用件、かもしれない。
だが、部外者を部室に呼ぶなんて……。
まさか、恐喝か?
いや、無い。姉崎幽はそんなことするはずがない。そんな腐った奴ではないと私は信じている。たとえ、単位がピンチだろうと……。
私は様々なシチュエーションを頭に浮かべながらサッカー部の部室の前に立った。窓は閉じられていて、中が見えない。何が待っているか、分からない。
私は意を決して戸をノックした。
「スギだろ? いいよ、入っても」
私は戸を開けた。
中には日本代表の青のユニフォーム、おそらくレプリカだろうが、それを着た茶髪で短髪の姉崎幽と、もう一人、見慣れない女性がいた。私は姉崎幽の方を向いた。
「彼女はうちのマネージャー、山口紗理奈って言うんだ。俺達と同じ、外語の英語学科だぜ。学年は一年だけどな。どうやら、お前に話があるらしいよ。なんか――」
「ちょっと、姉崎さん」
女性、山口紗理奈は慌てた様子だった。姉崎幽はその先に何を言おうとしたか分からないが、必死に山口紗理奈は止めにかかった。
「わかったわかった。じゃあ、後は二人でごゆっくり……。じゃあね」
姉崎幽は外に行ってしまった。中には私と山口紗理奈の二人っきり。気まずい空気が部室内に漂う。
さて、どうするか……。
私はこの状況に困った。
「突然すみません。私は姉崎さんに紹介されたとおり、外国語学部英語学科の山口紗理奈です。今日はどうしても杉山先輩にお話したいことがありまして……」
最初にこの沈黙を破ったのは、サッカー部マネージャーの山口紗理奈だった。沈黙が破られて気が落ち着いてきたので、私も簡単に自己紹介をした。名前と年齢、学部と学科、学年に今の部活、必要な事だけを話した。
「ところで、山口さんが話したい事って?」
私は急いで本題へと話を移そうとした。こんな場面で失礼かもしれないが、偶然にも携帯電話が視界の中に入ってしまったからだ。時間が三時五十分、部活開始まであと四十分、急がなくてはならない。
「あっ、もうこんな時間ですね。では、単刀直入に聞きます」
山口紗理奈も携帯電話を確認したらしく、早く話を進めようとした。だが、緊張しているのか、なかなか切り出してこない。
五分程経って、ようやく口を開いた。
「あの、す、杉山先輩は私のこと――」
「おーい! 紗理奈、そこ開けてー!」
部室の外から女性の声、おそらく他のマネージャーが部活の準備をしようとやってきたのだろう。
「麻衣さん、今はちょっとそのままにしてくれませんか? ちょっと訳ありで……」
「あっ、そう言うこと。ゴメン、そう言うことなら早く言ってよ」
マネージャーの麻衣と男性、声の質から姉崎幽だろう、二人が離れていくのを私は感じた。
「す、杉山先輩……?」
山口紗理奈は頬を赤く染め、やや下を向いている。
「えっと、俺が山口さんを覚えているか、だよね?」
私はどうすればいいのか、分からなくなっていた。正直、私は彼女、山口紗理奈を知らない。
山口紗理奈は真っ直ぐな女性だと推測出来る。アメリカンフットボールを通して身につけた人の見方からそう結論が出てしまった。
正直に知らないと答えたら、その場でガクッと落ち込むだろう。
かといって、知ってるよって嘘をつけばいいのか? 一時的には良い気分になれるだろうが、バレたら正直に話した以上に落ち込むだろう。
まさに、八方塞がりとはこのことだ。
更に、時間という制限も刻一刻と迫っている……。
追い詰められた私は遂に覚悟を決めて、山口紗理奈に向かって話し始めた。
「ごめん、覚えていない……」
結局、嘘は付かないことにした。ここでスパッと終わらせることが出来れば、今回の事を無かったことにしてお互いに今後の事を考えることが出来る、それを見越しての決断だった。
「そうですか……」
「ごめんね。赤の他人に対して覚えてるとは言えないよ」
重苦しい空気が流れてきた。
「杉山先輩のバカ!」
山口紗理奈は叫ぶと、部室から出て行った。私はどうすることも出来ず、ただ呆然とするしかなかった。
山口紗理奈が出て行った後、誰かが戸をノックする音がした。
「スギ、入るぞー」
姉崎幽だ。
「スギ、お前、紗理奈ちゃんに何をしたんだ?」
どうも出来なかった。口を開くことも、ここから立ち去ることも。
「もしかして、振ったのか、紗理奈ちゃんを?」
姉崎幽の声は深刻なものになっていた。
振ってなんかいない、ただ、彼女の質問に答えただけだ。
そう答えたかった。だが、この雰囲気がそれを許してくれなかった。
「まあ、部活終わるまで待つから、後で話せよ」
私の心情を察してなのか、取っ組み合いになってもおかしくないこの状況を我慢してくれた。
「ところで、もう四時二十分だぜ」
ハッと我に返った私は急いで部室を出て、アメリカンフットボールの道具を持ち、グランドへ走った。
部活中、山口紗理奈との出来事が頭の中から離れなかった私は、やや集中力が欠けた練習をしてしまった。
「スギ、どうかしたか?」
その様子に主将も心配していたみたいだ。本当に申し訳ない事をした、そう思った。
「頼むよ。クォーターバックがこんなんじゃ、試合に勝てない」
私はただ返事をするだけしか出来なかった。
確かに、オフェンスの司令塔のクォーターバックがこんなんじゃ、試合には勝てない。
何とか忘れようと、部活の最後にするダッシュを必死になって走った。
部活後、私は姉崎幽と会って駅前のファミレスにいた。
「試合前だってのにごめん。あの時は俺はかなり感情的になりすぎた。まだ紗理奈ちゃんをスギに会わせるべきじゃなかったかもしれない」
姉崎幽はお手拭きで自分の手を拭いていた。
「いいよ、気にしないで。確か、あの時何があったかだよね? 今から話すよ」
私はメニューを手に取った。
「あの時、山口さんに質問されたんだ。私のこと、覚えてますかって」
「んで、スギはどう答えたんだ」
「覚えてないって答えた」
「そっか……。とりあえず、メシ注文しようぜ」
この場面であえて話題を逸らす、馬鹿だけど、ある意味空気が読める姉崎幽の天才的感覚に私は色んな意味で驚きを感じた。
私はドリアとハンバーグとスパゲティとサラダを、姉崎幽はピザとドリアを頼んだ。
「って、食い過ぎだろ、スギ……」
「これ位食わないとアメフトやっていけないよ」
「そうなのか、スゴいな、アメフト部員は……」
「そうでもないよ。食べる人はこれにピザとグラタン付けるし」
「食費大変じゃね? その人……」
「そうだね。その人はアメフトの道具以外は全部食費らしいよ」
他愛のない話をしている内に料理が届いた。
「ところで、知らないと思うけど、紗理奈ちゃんの中学知ってるか?」
突然、話が戻ってきた。
「知らないよ」
「千葉県の水聖学院中って知ってるか?」
「知らないけど、そこが山口さんの出身中学?」
「まあな。じゃあ、スギの出身中学は?」
姉崎幽はニヤリと笑う。
「ごめん。覚えてないんだ。俺さ、高一の夏までしか記憶が無いんだよ……」
「は……?」
そう、何故かは知らないが、覚えていない。私の記憶は高一の夏で途切れている。その前が削ぎ落とされた感覚、不気味だ。
「スギ、お前は中学で何やったか知らないのかよ。俺でも知っているぜ」
次の瞬間、姉崎幽はとんでもないことを言い放つ。
「水聖学院中サッカー部、全中初出場にして初優勝の快挙、その原動力になった守護神、杉山健二。全中ではペナルティキックさえも許さなかったゴールキーパーだったんだぞ。俺はそんなスギに憧れてキーパーになったんだぞ」
私は驚いた。驚いてドリアを乗っけていたスプーンを落としてしまった。
「とりあえず、これ、紗理奈ちゃんの番号とメアド載せたメール送るから、一度連絡取ってくれ。紗理奈ちゃんには俺が言っておく」
「ありがとう、姉崎。すぐに掛けてみるよ」
「いいってことよ。ところで、記憶が無いなんて初耳だ。詳しく教えろよ、ケー番とアドレスの代金としてよ」
姉崎幽は言葉巧みに私を攻める。
「んー、気が付いたら病院内だった。それくらいかな?」
「病院内、それだけか?」
「うん、それだけ。思い出せたらまた教えるよ」
「なんだ、残念。さてと、メシ食べちゃうか」
私達は話を一通り終えて、食事を本格的に取りかかった。たくさんあった料理は瞬く間に消えてなくなってしまった。
「速いよ、食うの。あんなあったのに俺より速く食べ終えるなんて」
「そうかな? いつもよりゆっくり食べたつもりだったんだけどなあ」
「スギ達、おかしいだろ。食べることの基準が」
「やむを得ないよ、アハハ」
会計を済ますと、姉崎幽は駅へと歩いていった。
「じゃあな、スギ。紗理奈ちゃんと上手くやれよ。あと、試合も勝てよ!」
「うん。今日はありがとう」
私も家路に着いた。