傷つく身体、錆びる心 10
アレクシスの家を離れてしばらく、もうそろそろ日の光が色づき始める頃合い。
大我達はこの日の最後の目的地へと向かっていた。
悲劇的な光景も無く、明るい空気にそこそこ包まれていたこともあって、出発し始めた当初に近いくらいの僅かな緊張感までに雰囲気は解されていた。
「エヴァンさん、今日はこれで最後って言ってましたけど、どこに行くんです?」
「ああ、僕がもっとちゃんと守るべきだった人のところ」
「それって、グレイスさんですか?」
「うん。あの時本当は、ここに残ってほしかったんだけどね」
新しく飛び出したグレイスという名前。ティアやエヴァンの言葉から察するに、どうやら大切な人だったらしい。
「その人は一体どういう?」
「言ってしまえば……僕の……あいや、なんでもない。そこまで至ってないからなんといえばいいのか微妙なところだけど」
少しだけ笑みをこぼし、どこか含みのある誤魔化しをしながらグレイスという相手のことを話すエヴァン。
その様子から明らかに照れているように見えるが、どうやら付き合っているとは言い難いがそれに近いという、あともう数歩程踏み出していない状態らしい。
「もしかして、その人も一緒に?」
「彼女は使える者がとにかく少ない治癒魔法に長けていた。すごく優しい人でね、何度か僕のワガママで迷惑かけちゃってた。アレクシスも何度も戦りあっては、その度に出来ちゃった怪我を治してもらったりね」
「何か、アリシアに言われたりとかは?」
大我はそこが少しだけ気になっていた。穢れに侵された時のような激情程ではないものの、ブラコン極まりないアリシアがその誰かとの付き合いを許すのだろうか。
大抵こういう場合は、兄と側にいたい誰にも渡したくないと、独占欲を剥き出しにするパターンも存在する。
アリシアはそういう人物ではないだろうという感覚は肌で感じているが、それでもそこが少しだけ気になった。
「アリシアも認めてくれてるよ。妹は、別にそういうことを抱いてるわけじゃないみたいだからね。ただ、自分も治癒魔法使えたらなーみたいなことは言ってたかな」
アリシアが抱いていたのは、度が過ぎたブラコン故の兄への恋愛感情ではなく、あくまで親族として、血の繋がった兄妹としての好意。
穢れに侵されていたその時は、過剰に強調されすぎたために肉体関係を持ちたい程の異性的好意を向けていたのだと勘違いされかねない行動の数々だったが、そう見えかけるだけで実際はそうではない。
それを知った大我は、今この話とは関係ないながらもちょっとだけ安心した気分になった。
「けど、さっきアレクシスさんが言ってたことは……」
「……そうなんだ。僕もそこが気掛かりで」
大我達は、つい先程耳に入れた『反転』のことを思い出す。
その者の性質、願望を逆転させ、もっとも願わぬ状態を作り出し表出させる。
死にまでは至らしめない人を痛ぶるということに特化したその悪趣味な現象。それは間違いなく、この先向かうグレイスという人物にも表れている。
エヴァンの中で反響する『目を逸らすな』という一言。おそらくはそういうことなのだろうと噛みしめる。
「ともかく行ってみないことにはわからない。僕は見たものを受け入れるしかない」
悪い予感はいくつも浮かび上がる。だがそれを気にしていても仕方ない。実際に目にしなければその事実はわからない。
エヴァンはとにかくと足を進め、その目的地へと向かっていった。
そして到着したのは、なんの変哲もなく色合い落ち着いた、とても一般的な一階建ての家屋。
中から明かりが漏れているその様相はまさしく庶民的と言う他無く、どこか落ち着けそうな雰囲気が醸し出される。穢れを自らに封じている一人が籠もっているとは到底思えない。
「…………ふぅ」
それまで少し落ち着いていた空気は緊張感に包まれ、精神を落ち着けるために強く息を吐く。
木製のドアに手を当て、内部の穢れを事前に感じ取る。充満しているという程ではないが、僅かにそれが家屋の空間にちらついている。
鍵はかかっておらず、それに気づけば誰でも入れるような様子。エヴァンはそのまま扉を開け、吸い込まれるように室内へと入っていった。
「ああちょっと!」
気持ちが早まったのか、インターバルや一旦の間も置かずに入っていったエヴァンに不意を突かれたように、ぞろぞろと慌てて大我達も入っていった。
室内に入ってみると、ぱっと見は綺麗に整頓されており、荒れた様子も見られない。ごく普通の屋根の下。
何も大きな変化は起きていないのだろうかと思い、よくその空間を見渡してみると、ところどころ木製の家具に、大小無数の傷が確認できた。
「これは……」
エヴァンはこの家の内装はよくわかっている。家具の細かな配置や状態まで。
ここまでの傷が付くほどのトラブルは起きた覚えは無いし、それがあったという話も無い。であれば、この傷は自分がいなくなった後で出来た物ということになる。
「なんか、すごい静かだな」
部屋を見渡し、少々うろついてみると、大我達はその肌にちょっとした違和感を覚え始める。
綺麗にされてはいるが、あまりにも静かである。鍵が開いていたにも関わらず、生活音の一つとして無い不用心かつ不気味な空間。
本当にここに人がいるのか。芽生えた小さな疑念を抱えながら動き、大我はドアの閉められたある一室の前に立った。
そこは、ただ単純に閉ざされただけの一部屋。しかしその扉には、目に見える程の無数の傷がつけられている。
「……ここか」
目的の人物はおそらくここにいるのかもしれない。自分の勘がそう囁く。
大我はそのドアを開けようとしたその時、エヴァンがその手を直前に押さえた。
「待って。ここは僕が行く」
止めるように割り込んだエヴァンが、その一室へ最初に入ることを志願した。
部屋一つの入室の順番に大きな優劣などまずないが、二人の目の前にあるのは、そのグレイスの部屋。最初に入っておきたいというのは、好意を抱く相手への一つの感情なのだろう。
大我は何も言わずにそれを察し、その役目をおとなしく差し出した。
「ありがとう」
一先ずのお礼を伝え、エヴァンはゆっくりとそのドアを開けた。そこはリビングにあたるきちんと整理整頓された広間とは違い、暗く閉ざされ、傷や破損した小物がいくつも散乱している荒れた室内。
その奥に見えるのは、何重にも毛布を全身に被り、顔だけを出した一人の女性だった。
「…………?? 誰かいるの? フラン?」
その女性が、入口に向けて顔を上げる。瞳の光は無気力に消え失せており、その声にも生気は感じられない。
ぼそっと口にした名前も、おそらくは女性の名。一番に入ってきたエヴァンの容姿とは決して一致しない。
エヴァンはそっと近づき、膝をついて間近でその女性の顔を見つめた。
「グレイス、僕だ」
「その……声? エヴァン? 本当に……?」
糸を手繰り寄せるような声で名前を呼ぶグレイス。
瞳の焦点は未だはっきりとしていないが、少しずつふらふらとしたその目の動きが小さくなっていく。
その言葉に若干の違和感を覚えるが、それよりもまずちゃんと生きていてくれたことが嬉しいと、感情を抑えつつ喜ぶエヴァン。
「生きていてくれてよかった。本当に」
「エヴァン……エヴァン……その……どうか、ちょっとだけ離れて……」
エヴァンはその言葉におとなしく一歩だけ引く。
照れているというような声の調子ではなく、むしろ怯えるような遠ざけようとしているようなものという方が近い。
「……今いるのはエヴァンだけ? なんだかぼんやりといっぱい影が……」
ぞろぞろと後を追って入ってくる大我達。その距離や位置はどうあっても確実に目に入るはず。
だがグレイスは、それでもはっきりと認識できていない様子である。
「もしかして……目が……?」
「えっ、なに……?」
エヴァンはその反応と言葉で確信した。覚えていた違和感も間違いない。今のグレイスは目が殆ど見えず、なおかつ耳も聞こえていない。
今目の前にいる自分すら怪しい程の盲目。エヴァンはその時、動揺せずにはいられなかった。




