傷つく身体、錆びる心 9
唐突に名前を挙げられた本の名前。大我は一体何のことだと呆気にとられたが、本を時々読んでいるティアを筆頭に、各々に反応を示した。
それは、この世界にて発行され、長い間受け継がれている絵本の名称だった
「読み聞かせか何かで見たね」
「私は、小さい頃にママに読んでもらったりとかで。確か……どこからともなく現れた世界中の何もかもを食べ尽くす泥のような怪物が、一人の勇敢な者の先導でみんなで協力して、怪物を封じこめて平和になった……っていう話ですよね」
「そう、それだ。よく覚えてるんだな」
「私、この話が好きなんです。困難に立ち向かうその勇気と、みんなが団結して戦うその姿がとっても輝いて見えて……」
目をキラキラと輝かせながら、子供の頃から心に刻まれていたそのおとぎ話を語るティア。
心なしか、その内容を話す声の調子も浮ついているように感じられる。
「それなんだけどな。その本に出てきた怪物は――実在するんだ」
朗らかさが混じり始めていた空間の空気が凍りついた。
普段の話の場や、顔馴染みのエルフや人間から口にされたならば、軽く冗談として受け流すだろう。
しかしそれを言ったのは、神との距離が近い存在である精霊。そのタイミングも、的外れな戯言を口にする場面でもない。
無数の材料が重なった上でのこの発言には、大きな重みがある。
「おい嘘だろ、そんなことが本当に?」
「あるんだよ。今からもう何千年も前のことらしい。俺の記憶の中にあるだけだけど、そいつが何者かってのは知ってる。その怪物の名前は『B.O.A.H.E.S.』地上の生物を無差別に喰らい尽くす、最低最悪の化物だ」
その場にいる者全員、エヴァンですら初めて耳に聞き入れたその名前。
バレン・スフィアという未曾有の脅威から重ねて告げられた未知なる存在に、息を呑むことしかできなかった。
「ボアヘス……それが何か関係が?」
「目測でしか確認は取れていないから判断はできないが……あの穢れの塊があるのは、そのB.O.A.H.E.S.が封印された場所から極めて近いとこなんだ」
「それって……!」
「……おそらくは、それに何かしようとしているのかもしれない。事実、B.O.A.H.E.S.の活動の兆候は最近目撃されている。大我達も見ただろ? 姿形滅茶苦茶で、何の共通性の無いキメラ達。あれはまさしく、B.O.A.H.E.S.の影響で間違いない」
おとぎ話と思われた怪物が太古に存在し、ましてやその影響が今に現れる。
それこそまさに物語の一節としか思えないような話だが、それが今、この現世に起きているという。
聞けば聞くほど信じることができない。しかしそれを語る者が、その虚偽の可能性を何度も拭い去る。
「だけど、それがとにかく妙なんだ。その位置のこともあって、可能性はすぐに浮上したけど、封印が解かれたって事実は確認していない。そのはずなんだ」
「それを偽装されているというのは?」
「あり得ない。アリア様の領域に干渉できる者はまずいないはずだ」
「けど、現に今こうしてそのキメラ達が現れてるわけだろ?」
「ああ。だから目視で確認しようとしてるけど、それがことごとく……」
「ああもうお前ら! 人んちで勝手に議論を始めるな!」
自分のことをそっちのけでヒートアップし始めたエルフィとエヴァン。そしてちょっとだけ割り込んだ大我。
当初の来訪した目的に連なっているのではあろうが、身体に未だ全快状態ではない時に、目の前で長くなりそうな議論を始められてた溜まったものではないと、アレクシスは一喝した。
「すまないアレクシス。ちょっと盛り上がりすぎた」
「ったく、ともかく、バレン・スフィアには何者かの意志が備わっていて、そのボアヘスとやらにご嫉心な可能性が高いってことだろ?」
「そういうことだな。万一にも封印が解かれたなんてことはないと思いたいが」
「現状、それをちゃんと確認する術は無いってことか」
一先ずの情報の整理はついた。
ようやく大きく前進できる情報を得られた大我達。だがその一方で、事態のスケールがさらに拡大していくような音も聞こえる。
しかし、バレン・スフィアは台風のような災害を撒き散らす自然現象ではない。何者かの意志が介在する明確な攻撃意思であるという仮説をさらに固めることができた。
これだけでも、かつての仲間達に聞き込みを行ってよかったと言うものである。
「ありがとうアレクシス。ようやく前進できた気がする」
「はっ、そう遠くないうちに合流してやるから、それまで待ってろよ」
話に一旦の一区切りがつき、ぱちんと膝を打ち鳴らすアレクシス。
ここですっと、仕切られた一室に入ってきた五人をずらっと見渡してみる。その中で目を引いたのは二人。
まずはずっと顔を強張らせて緊張している様子のラントだった。
「久しぶりだなそこの。名前もちゃんと覚えてるぞ? ラントって言ったか」
ずっと会話に耳を傾けていたラントがその名前を呼ぶ声を聞き、ぷつんと緊張の糸が切れた。
まさか、憧れの人に名前を覚えてもらっているとは。固くなっていた表情が一気に和らいでいく。
「お、俺のこと……名前……」
「緊張しすぎだろう? ほら、もっと力抜きな。俺は知ってるぞ? エルフって種族は大抵、しなやかかつ軽やかな身体能力と魔法を駆使して戦う者が多い。向いているからな。その中で、俺みたいに力押しを目指して頑張ってる奴がいるって」
言葉が出なかった。
ラントが誰よりも憧れている相手。このアレクシス=ウィーデンにしっかりと認知されていたのだ。
度々その目標や熱意は周囲に語ってはいたラント。それが巡り巡ってその耳に届いたのかが定かではないが、ラントはたった今起きた事実に声が出ず。唇を震わせてただ嬉しみの拳を揺らすことしかできなかった。
「今はその実力を見てやることはできないが、ここから抜け出せた暁には、ちょっとくらいは相手をしてやろう。ずっと俺の背中を見てくれていたってんなら、その期待にゃ少しでも応えんとな」
泣きそうだった。
いつそんな日が来るかはわからない。だが、自分の遥か先に立つ者が自分の強さを見てくれるという恐悦至極。
ラントは小さく「ありがとうございます」と聞こえるかどうかもわからない声でつぶやくしかできなかった。それ程に嬉しかった。
「それと……そこのボウズ。初めて見る顔だな。名前を教えてくれないか?」
「桐生大我です」
「彼が僕を連れ戻してくれたんだ。会っていなかったら、たぶん戻るのはもっと先だし、アリシアのこと気にして帰ってくる踏ん切りもつかなかったからね」
「なるほどな……なるほど」
エヴァンの横入り補足に耳を入れつつ、その全身を品定めするアレクシス。
ふんふんと鼻でちょくちょく唸りつつ、ほう……何か納得したように声を上げた。
「お前さん、俺達とは違うようだな。ああエヴァン! 皆まで言うな! お前が何か知ってるんだろうということはわかる。だが今言うことでもないだろう。こいつぁ俺の勘だ」
その一言の後にぴくりと何か口にしようとしたことを即座に察し、左手を突き出してそれを抑えるアレクシス。
エヴァンが言おうとしていたこととアレクシスが感覚的に感じ取ったことはほぼ同じことではある。だが、それを喋ろうとしたことまで悟った彼の直感は、やはり只者じゃないと、ライバルながらエヴァンは改めて感心した。
「んで、ちょっと危なっかしい雰囲気があるな。気をつけろよ? 何かはわからんが、俺の直感がそう言ってる」
「なんか、占いされてるみたいだ……」
まるでドラマの中や、首都圏で見かけた占い師との相談風景の感じを思い出した大我。
だが、今まで長いこと過ごしてきた者が言うのだから、言う通り何かはあるのかもしれない。
大我は頭の片隅に置いておくことにした。
「さて、そろそろ行くとするよ」
「おう、俺がやった情報。ちゃんと役立てろよ? お礼はエール五本くらいでいいからな?」
「欲張りすぎでしょ。ああみんな、先に外に出ててほしい。後から追いかける」
ずっと会っていなかった深い仲。二人だけで話したいことも積もる話もあるのだろうと、その中身や感覚はそれぞれに違いながらも殆ど同じ中身の理由を察し、四人はそれに従い素直にその場を去っていった。
壁に仕切られた一室に残されたのは、エヴァンとアレクシスの二人。
エヴァンは合わせるように床に座り込み、目線を鋭くして改めて口を開いた。
「さてと……アレクシス。さっき言ってた反転、まだ完全には治ってないんだろ?」
「ははは、やっぱわかってたか」
「入って最初に拳を合わせたとき。お前にしては力が弱すぎた。その後、つい出しちゃった僕の顔を見て、納得してるみたいな顔してただろう?」
「あいっ変わらず、お前はそういうとこ気がついてくれて助かるよ。それを話さないでいてくれたこともな。お前の言う通り、俺に付けられた反転はまだ抜けきっちゃいない。殆ど力が入らない上に、お得意の土魔法もさっぱりだ」
その表情は、とても寂しそうに見えた。
自らの五体の剛力と魔法。そのどれもが一切封じられてしまった。そんな状態では、好きに動くことも何か作ることもできない。
「ほら、こんなちっこいのを作るのでも精一杯だ。この壁が、正真正銘最後の悪足搔きってとこだな」
アレクシスが右手を地面にかざすと、ボコボコと岩が砂山のように盛り上がる。だが、積み木のような大きさからは変わることなく、アレクシスの集中が途切れると、それは脆くも崩れ去ってしまった。
「なあエヴァンよ。まだお前には力を貸してやれんが、俺が力を取り戻した時は、全力でお前達をサポートしてやる」
「そう言ってくれると嬉しいよ。君がいれば負ける気はしない」
「お前にもな」
「言うねえ。僕が勝ち越してるのに」
「そっから勝数超えてやるよ」
「できるかな?」
「「…………はははっ!」」
全力を出してぶつかり合える二人の、火花を散らしながら語り合う灼魂のぶつかりあい。
ライバルであることは何年経っても、どれだけ傷つこうとも変わらない。なんなら今この場でやり合いたい。
しかし今それは叶わない。エヴァンはいつかの未来へその願いを託し、右手を差し出す。
それに応え、アレクシスも右手を握り固い握手を交わした。
「早く全快してくれ」
「おう。どれくらいかかるかわからんがな」
多くは語らず、力の差著しい握手を交わし、手を離す。
そして、エヴァンは立ち上がり、背を向けて扉へと足を動かした。
「ああちょっと待て! 最後にもうひとつ」
言い忘れていたことがあったと、アレクシスは別れの契とは別に言葉で足を止める、
「お前、この次はどこに行くつもりだ?」
「今日はグレイスのところに行って終わりにしようと思ってる。僕が絶対会わなくちゃいけない人でもあるから」
「やっぱりな。……だったら、覚悟していけ。目も反らすなよ」
「………………わかった」
アレクシスが最後伝えた忠告。その意味はまだはっきりとはわからない。
だが、今更行かないという選択肢は無い。エヴァンは数秒の沈黙の後に簡素な返事を返し、アレクシスの前から去っていった。
「…………こりゃ、土も潤いそうだな」
賑やかなひとときは終わり、再び腐る程に慣れた静寂を取り戻した一室。
この先の未来、おそらくアルフヘイムを脅かす大事が、災厄が待ちかねているのかもしれない。
だが今は、それを考えるよりも長い間聞いていなかった複数人の声、ライアン以外との会話の余韻に浸っていたい。
数分前の思い出をつまみに、アレクシスはその場に寝転がり身体を楽にした。




