月は蒼いのか
【一】
弓削駿には、あの暴挙を止めなくてはならないという焦燥だけがあった。吐き気のやまない胸を彼女は押し込んだ。週末に目撃した光景はたった三日程度で消えてくれるわけもなかった。
観雪ちゃん……。観雪ちゃん……!
彼女はわかってくれたのではなかったのか。
だが駿はあの場にいて、彼らをとめず、立ち去ることもしなかった。行為のほとんど最初から最後まで食い入るようにして見入っていた。ひとの行為を見ることなど初めてだったというのは、彼女にしてみれば言い訳にしかならなかった。そんな場面に遭遇することが、一生の間で起こり得ないのだとしても。
それは異様な光景だった。ほとんどと言っていいほど動きのない男に対して、女は快楽に咽び泣いていた。男のわずかな動きだけで、女は狂ったように涙を散らした。「あおい」と、何度も相手の男の名を呼んでいた。あおい、とは、蒼――――――。つまり彼女の弟――――――。
こちらに背を向けていた男の表情は窺いしれなかった。行為の最中に、一度、「みゆき」と女を呼んだ。泣き濡れた女の頬に、髪に、愛しげに触れるさまに、駿は戦慄した。
あんなものが、愛だろうか。あれは支配で、威圧で、そして依存であるというのが正しい回答だった。そうでなければならない。
志賀観雪は、駿の勤める会社の同僚である。高校、大学と同窓だった。高校受験の日に席が前後になり、それ以来親しかった。黒いセーラー服に赤いタイを絞めていた彼女は、この世のひとなのに、この世のひとでないようだった。緩くウェーブした黒く長い髪、ハーフアップにした髪を留めていた赤いリボン。涼しげな目元、艶のある唇、細い手首。
歩くとだれもが彼女をふり返るのに、彼女はそこにいないかのような存在だった。
――――――まさか。どうして。蒼くんにずっと会ってたの……!?
月曜の朝のオフィス街を、駿は駆けていた。駿のすらりとした背と引き締まった肢体はそれなりに周囲の目を引いていた。彼女の親友とは対照的な淡い茶色の瞳と髪は、冷えた空気と朝日に、ひときわ光った。
“駿ちゃん、心配してくれるのは嬉しいけど、もう蒼とは会わないから。…………ごめんね”
志賀観雪の黒目がちの瞳は、瞬くたびに睫毛からしっとりと音がしそうだった。彼女は清廉なのに、蠱惑的だった。腰までのやわらかそうな黒髪は、そこに蝶が羽を休めようと小鳥がとまろうと不思議ではなかった。彼女がそれを抱きしめて、腕の中に閉じこめて、その瞳にそれを映している光景を、自分はずっと眺めていられるだろう。その胸に身をあずけるものは、吐息さえするだろう。たぶん、そのとき時間はとまる。
“観雪ちゃん、あの人と以外なら、観雪ちゃんは幸せになれるよ。お願いだよ。観雪ちゃんは幸せになってよ”
青々とした山の端に夕陽が沈む、ひぐらしがカラカラと鳴いていた高校の校庭で、彼女は約束してくれたはずだった。彼はもう日本に戻らないと言って。
鋭い空気が肺に押し入り、駿は思わずむせた。オフィスのビルはもう目前だった。オフィス敷地内の緑が植えてある腰の高さほどのブロックに、彼女は寄りかかった。グレーのコートに、伸びたボブの毛が跳ねた。
あれから一年以上も、わたしは気づかなかったの……。
切れる息のなかで、駿はぎゅっと胸の服を掴んだ。一年と少し前の、校舎の影とオレンジ色が交互に差す校庭にいた観雪を、駿は描いた。
三階の窓を見上げていた彼女。その窓は、彼女の弟のクラスがある窓だった。一年間だけを共に過ごした、離れて育った実の姉弟。彼女の弟もまた、あの窓から彼女を見下ろしていた。とても静かで、烈しかった。校庭に映る彼女の影さえも撫でるように。お互いがお互いを取り込んでしまおうとするかのように。
“あおい”と、あのときも彼女の唇はうごいた。誰もいない校舎の窓に向かって、彼女は微笑んだ。
どうして予想できなかったのだろう。わたしはバカだ。観雪はもう壊れている。いいや、まだ間に合うはずだ。駿の目の前は暗くなる……。
「……おい、弓削。おい?」
駿はハッとして顔をあげた。同僚の中島が心配そうにして、駿の肩に手をかけていた。
「おまえ、大丈夫か?」
「中島……」
駿の様子が余程ただならないと見えたのか、同僚は剣を鋭くした。
「具合でも悪いのか? 立てるか?」
「構わなくていいよ、わたし急いでるから」
オフィスに向かう人々の視線を、ちらちらと浴びていたらしい。駿は、同僚へぞんざいに答えた。こんなところで時間をとられてはいられなかった。
「大丈夫って顔じゃねえぞ。なあ弓削、具合が悪いなら帰れよ。オレ、おまえの上司に言っといてやるからさ」
中島は、立ち上がって歩き出そうとした駿の腕を掴んだ。
「触んないでっ!」
駿は中島から腕を振り払った。駿の剣幕に、同僚は目を見開いた。
二人のやり取りは、さきほどから周囲の好奇の的だった。
「弓削、オレさ……」
「……ごめん。でも、この間も言ったけど、わたしのことは放っておいて。…………応えられない」
何かを言いたげな同僚の次の言葉を待たずに、駿は踵を返した。
*
駿はわざと歩調を落とし、床を踏みしめるようにして足に力を入れた。中島に触れられた肩と腕に感じる不快な重みと熱を、駿は布の上から握りつぶした。
廊下から見渡すことのできる位置に志賀観雪の席がある。派手な青いショールが、椅子の背もたれにかかっていた。コバルトブルーのそれは、あまり見ない色合いだった。彼女がそれを身につけるとき、彼女の存在は不可侵になった。黒と、鮮やかなブルーのコントラストに、その場が支配される。ショールを纏った彼女が食堂に現れたときなど、一瞬、音が止む。おかしな話だった。そこはただの食堂だ。それでも志賀観雪は、その場の支配者だった。
「志賀さんは来ていますか」
駿は総務部に入り、観雪の向かいの席に座る社員へ尋ねた。始業15分前であったが、フロアの人間は埋まりつつあった。
「志賀さんなら資料室にいますよ。弓削さん、顔色悪いけど平気ですか?」
駿は曖昧にうなずいて礼を言った。駿と観雪の仲が好いことを知っている社員がいることは、そう珍しくもなかった。駿は地下にある資料室へと急いだ。
*
“はやきちゃんっていうの? 名前、格好いいね”
観雪に初めて会ったのは、高校受験の会場、つまりその後合格して通うようになる高校だった。駿はそのときの衝撃を、今でも忘れられない。
観雪の周りだけ、時間の流れが違っていた。目を伏せる仕草も、呼吸をする喉も胸も、彼女のためにだけ時間を操っているようだった。黒いセーラー服と赤いタイ、ハーフアップにした緩く波うつ髪に赤く流れるリボンは鮮烈だった。
駿が“この漢字のみゆきって、初めて見たよ。綺麗だね”と微笑むと、彼女は頭の先から爪先まで全身に納得を行き渡らせるように、ゆっくりと頷いた。
目をあげるとき、観雪の睫毛は重たげに揺れた。目と目を合わせるまで、何秒かかったのだろう。彼女の動作はとても気怠るく映った。でもそれは、時間にしてほんの一瞬だった。
“……駿ちゃん? もしここに受かったら、そのときはよろしくね”
彼女はそこにいるのに、そこにいないかのような錯覚をしてしまいそうだった。志賀観雪は、淡雪のような空気をもつひとだった。
そんな彼女に弟がいると知ったのは、志賀蒼が実際に入学してからだった。彼の姓は「志賀」ではなかった。でも蒼は、「志賀蒼」と駿に名乗った。それも、彼らが放課後の校内で話しているのところに居合わせたからという偶然からだった。姉弟であることは、彼らの担任すら知らない事実のようだった。
“わたしたちは姉と弟なの。でも、だれにも言わないで、駿ちゃん……”
もしそれが露見したら、二人は引き離されてしまう、蒼はそう言った。
“俺は、今までもこれからも志賀です、駿さん。観雪と俺は姉弟だ……”
最後の言葉は観雪に向けてのものだった。彼の潔癖そうな顎の線とくたりと寝ている髪は、この姉の弟と形容するには近くなかった。ふたりが過去ひとつの魂だったとして、純真の部分は多く彼が引き継いで生まれてきたのだろうというくらいに、志賀蒼の空気は清潔だった。
ふたりの空気は呼応していた。彼の学生服の黒が、二年前の観雪の姿と重なった。観雪はいま黒いセーラー服を着ていないのに、二人は同じ色を纏っているようだった。
黒と黒が溶けて交じりあい、駿の視界に闇が襲った。
観雪が笑った。闇のなかで、それは彼女の幻影だったのかもしれない。姉と弟は同じ黒を着て、暗い世界の底で身を寄せあう。観雪の唇だけが、異様に赤かった。
*
「観雪ちゃん……」
資料室のドアは、隙間程度が開けられていた。鍵が壊れかかっており、やっと修理が今週中に行われると、週末に観雪が話していた。駿はドアノブをひねることなく資料室に入り、観雪を見出だした。部屋の中程、書架の一角に蛍光灯が照っていた。
観雪は、特に面白みもない紺色のジャケットとシャツ、グレーの膝下のスカート、黒いヒールという、ほとんど毎日代わり映えのない服装だった。結わえていない黒髪が、肩から腰へすっと流れていた。
シルバーチェーンの腕時計が重そうなファイルを取り出す彼女の手首に揺れた。それは唯一、観雪が生きて動いていることの証明のように思われた。
「ここだと思った」
「来ると思った」
長年の親しみからくる慣れきったやり取りだった。
それでも今日は、その親しみを凌駕する緊張があった。彼女たちはそれを知っていた。お互いの予感は、地下の薄暗い空間で確信になっていた。
「寒くないの、観雪ちゃん」
彼女のデスクの椅子にかかっていたショールを思い出して、駿は観雪に問うた。
「今はね」
観雪はファイルを抱えて駿の正面に向き直った。駿は喉が鳴るのを抑えられなかった。
「……週末の、あれ」
「知ってた」
「わたし……、見たよ」
「気づいていた」
「……観雪ちゃん……」
「――――――」
「もう会わないって言ったよね」
相対した観雪の瞳は、冴え冴えとしているとしか言いようがなかった。あのときに見た、月のようだった。オフィスの裏手の駐車場から見上げた月、そして、非常階段に重なるシルエット。暗黒に浮かぶ月は、いまに続くなにかの予感だった。なにかが終わる、崩壊の予感――――――……。
「“汚れちまつた悲しみに 今日も小雪の降りかかる”」
「……え……?」
「中原中也よ。蒼が読んでたの」
観雪は、取り出して抱えていたファイルを壁際に置かれてある事務机に載せた。ファイルの背の淵を、彼女は、つ……っと人差し指でなぞった。
「いつだったかな……。大学、ううん、もう会社に勤め出してた頃かな。蒼の部屋にあったのをみつけたの。蒼は大学生だったなぁ」
観雪は歌うときそうするように、ふいと顎を上げた。
「蒼はわたしとのことを“汚れた”なんて思ってるのかとおもって、そのときはすごく驚いた。でも、わたしたちのことをじゃなくて、蒼が自分の悲しみをそう思ってるんだってわかったの」
観雪の瞳は書架の上段を滑り、それぞれのファイルの上を跳ねた。
「み、ゆきちゃん」
「蒼のなかでは、悲しみは汚れているの。それってなんだか、滑稽よね」
ふふ、と彼女は肩をゆらした。
駿の口の端は顫えた。
「観雪ちゃん、意味がわからない……」
駿に、あの夜のあの光景がフラッシュバックした。なにもかもが異様だった。人目につかないとも限らない場所で、いるはずのないひとがいた。ほとんど動きのない男に対して、女は両足を抱えられたまま喘ぎ、悦楽にむせび泣いていた。煌々とした月と、すべては暗黒そのものだった。
「……ね、ダメだよ……。観雪ちゃんだってわかってるんだよね?」
観雪は、しっとりと瞬いた。彼女の睫毛には、きっといつも淡雪がおち、溶けるのだ。闇に舞う白雪に、ふり返る女の姿があるとすれば、それは観雪に違いなかった。黒のセーラー服に赤いタイを締めて、黒髪に赤いリボンを垂らしているのだ。
「ねえ……。どうしてもなの? だってふたりは姉弟じゃない。ダメなんだよ……っ!」
駿は地団太を踏むみたいにして叫んだ。高校生の姉弟が身を寄せあうさまを、駿は心のうちで殺した。
「蒼くんと以外なら幸せになれるって言ったよね? 観雪ちゃん、幸せになってよ。お願いだよ!」
実の姉弟は、月が浮かぶ暗黒で婚いでいた。駿の脳裏に繰り返し再生されるその光景を、彼女は捨ててしまいたかった。
観雪は、駿の訴えにゆっくりと瞼を伏せた。肩から、一房の黒髪が滑った。
彼女は「そうね」とつぶやいた。その口調はいとけない子どもを宥めるそれだった。彼女の睫毛は、重たげに一度もちあげられた。波紋のように、彼女の息吹が駿を打った。彼女には嘲りも憐憫もなかった。ただ月を映す冬夜の色が、その瞳にあったのみであった。
「駿ちゃん。もう、始業だよ」
そのとき資料室のドアから誰かが去ったことを、気づいた者はいなかった。
*
始業をやや過ぎて部署に到着した駿は、コートもバッグもそのままに椅子に身を投げ出した。バックは肩からずり落ち、背もたれから身体が傾いだ。
壊れる、崩れる、足元からなにかが。あの夜とおなじ暗黒に落ちる。
女は、観雪は、あんなふうに快感を得ることができるのだろうか? 駿の経験からはそれを判断しかねた。ほとんど動きはないのに、なにもかもが烈しかった。あの夜は観雪の情念に支配されていた。いや、姉弟の絡みつく喘ぎがあの月夜のすべてだった。駿には到底感じ得ない、闇の底の湿り。
鞄の中で携帯端末がブルブルと震える音がしたが、確かめる気にもなれなかった。ぜんぶ、夢だったらいいのに……。駿は額に手を当てて天井を仰いだ。
終業になったところで、駿の内線が鳴った。駿は緩慢な動作で受話器をとった。嫌な予感しかしなかった。
「財務部弓削です」
『――――――資料室からかけてる』
中島の声だった。またひとつ、足元に闇が口を開けたかに思われた。
【二】
駿が観雪のセーラー服姿をみたのは、二度だけだった。高校受験の日と、その合格発表の日だけ。それなのに網膜に焼きついたその観雪は、いつまでも駿のなかから消えてくれなかった。黒髪と赤いリボン、睫毛に降る淡雪の印象は、駿のそれまでにあった女というものの原風景を徹底的に覆し、また決定づけた。母親や自身の妹へ感じ、また交換していた親愛の温度とはあまりにも離れた個体であった。
未知なるものへの期待と羨望、侮蔑と恐懼が、駿の脈動へと刻まれた。彼女はその未知なるものへ時に果敢に挑み、それを己に引き寄せようとさえした。これこそは生々しい血の塊であると思うのに、観雪はまるでこの世と隔絶した空気のなかにあった。
その空気を引き裂けたなら、潰せたなら。あるいは彼女の心をこの手に握られたのなら、彼女の息の根をとめることもできたのではないだろうか。それとも、腕に抱いてそのぬくもりに酔うことが至上の幸福となるのかもしれない。
駿はあらゆることを観雪に夢想し、あらゆる面で現実に立ち返った。駿を現実に引きずり戻したのは、慕わしいひとの弟だった。駿のなかの衝動を、蒼は見抜いていたのだろう。彼は、禁忌という冷たい海に浸かっていた自分を持て余していた。だが駿の存在が皮肉にも彼を、駿のあずかり知らぬところで、その海で泳ぐことを勇気づけたのだった。
“俺は、今までもこれからも志賀です、駿さん。観雪と俺は姉弟だ……”
はにかんだような初々しい志賀蒼の微笑みは、どう足掻いてもたどり着けない岸があるのだと駿に宣告せしめたのだった。このときも、あの夜も、駿はどう帰ったのか憶えていない。しかしきっと今のように、両足に纏わりついて離れない波があったことだろう。駿はふたたび資料室のまえに立ち、ドアを押した。
*
「顔色悪かったのはもう大丈夫なのか?」
「……こんなところにまで呼び出して、なに?」
部屋の一番奥に中島龍平は待っていた。観雪がファイルを置くために使った部屋の中程にある机の電灯は切られていた。駿はコートを脱いできてしまったことを後悔した。駿のつれない態度に、中島は躊躇いをみせた。
「おまえに訊きたいことがあるんだ。でもここじゃ場所が悪い。これから、時間あるかな?」
「それってこんな場所にまで呼び出して訊くことなの? ここじゃダメなの?」
「たぶん、すぐには済まない話なんだ。おまえ、オレからの連絡には反応してくれないじゃん。でも……ごめん」
駿は舌打ちをしそうになった。
「それってさ、わたしと会うための口実じゃないよね? わたし、ほんとにダメだから。中島のことそういうふうにみれない」
中島は気まずいようすで顔を少し背けた。
「おまえの気を引こうとか、そういうんじゃない。……あいつのことだよ」
「あいつ?」
「志賀のことだ」
苛々としていた駿の背に、すっと冷たいものが奔った。
「観雪ちゃんがどうかしたの」
駿は呼吸が苦しくなった。中島はなにかを決意したような強い目をしていた。
「ここじゃこれ以上は話せない。少しでいいんだ。時間をつくってくれ」
*
中島は、弓削駿の苛立ちを認めずにはいられなかった。
薄暗い地下の部屋でも、彼女の髪色は蛍光灯に明るく反射していた。あまり大きくない少し吊りぎみの目は、神経質そうに顰められた眉の下で、なにか焦点を捜すようにさまよっていた。
唇に小指をあて爪を噛む駿に、こんな癖があったのかと場に似つかわしくないことを思っていた。
中島とそう目線の高さの変わらない駿は、中高とバドミントン部に所属していたらしく、身のこなしがしなやかだと若手の男性社員の間でひそかに噂されていた。中島はそういった下世話な話に興じることを美徳とはしなかったし、また、駿がそのような噂話の対象になることを嫌悪し出したのは三、四ヶ月ほどまえのことだった。
弓削駿は志賀観雪の友人であるという点において有名であったが、駿自身の魅力が劣っているとは、彼女と初対面のときから中島はついに感じたことはなかった。志賀観雪はある種奇怪な人間だった。動作が遅いというわけでもないのに、彼女は全体的に緩慢とした空気のなかにいた。“仙女か平安貴族”との呼称が秘密に共有されることには中島も頷けた。
ただ、駿の観雪に相対するとき、ちいさな反感、あるいは憎悪に似たなにかが胸の底をちりちりと焼くことを最近になってようやく中島は自覚した。
干渉というには控えめで、傾倒というには緩やかな駿の観雪への態度はしかし、ほのかな感情を露呈させる彼女を隠しはしていなかった。それは焦燥と言い換えてもよかった。それは時として顕著にあらわれ、時としてまったく鳴りをひそめた。中島がとくに駿のその発露を注視していたわけではなかったが、今朝それは最高潮に達したのではないかと彼は観察した。
さもありなん、と彼は憐れみと侮蔑、駿への始末に負えない衝動を秘めて彼女をみた。
彼女たち二人の間に、余人が立ち入れない経緯があるとしか、この五年ほどの付き合いのなかでも想像できなかった。しかし想像は、予想もつかないかたちで事実として中島に叩きつけられた。
どうにかなるかもしれない。千載一遇のチャンスと思うほどに、自分は弓削駿に焦がれていたのだろうか?
自分が矮小だとか卑怯だとかは彼の範疇外であった。けれど、彼には殊勝な気持ちでもあった。
弓削駿はいつも志賀観雪にとらわれている、異質なものへ心惹かれている、それはどうにかできるのではないか――――――…………?
それこそ彼女が言うように、だれも幸せにはならない。
月の光は彼女たち二人に掛かっていた。揺れる女の脚ではなく、中島はむしろ地上にいる女を凝視していた。
こんなにも早くここで切り札を出すことになろうとは思いも寄らぬことであった。彼は、いまだ小指の爪をカリカリと噛んで離さぬ駿をみつめた。
「なあ弓削……。オレも見たんだ。週末さあ、オレ三階にいたんだよ」
【三】
驚愕はどこに一番重点をおくべきだろうかと、駿は埒もなく考えた。志賀姉弟の暴挙か、中島龍平があの暴挙を目撃していたことか、それとも彼の意外にして醜悪な一面を駿に知らしめた卑劣なその行為か……。
“これをネットに流したらどうなると思う?”
“会社で、しかも姉弟であんなことをしていた志賀はどうなるかな”
彼がそれを悪辣な物言いで放っていたなら、駿はただ憤慨し、彼を蔑み、切り捨てることに専心すれば済んだのだろう。だが中島はどこか切羽詰まっていた。度合いでいえば駿のほうがよほどそうであったに違いない。それどころかいっそ真摯にもとれる彼の表情が、駿にいよいよ現実としての問題を放置してはおれぬこととして突きつけていた。
駿は駆け引きの材料などもたなかった。しかしもう引き返せないところまできたのだ。
資料室から戻ってきていた彼女は、閑散とした部署で携帯端末を操作した。プップップ、と呼び出し音が鳴るまでの間が異様に長く感じられた。
突然の電話と、相手の連絡先を駿が知っていたことについても電話口からなんら動揺した気配も伝わってこなかった。弓削ですという駿の声のほうが顫えていた。
「……蒼くん……。話があ、る」
*
“観雪と俺は姉弟だ……”
彼はその言葉を恍惚として言ったのではなかった。まったくの純粋に、はにかみさえして言ったのだった。初々しい高校一年生の微笑が駿の眼前にあった。
後日おなじ場所で駿は観雪に問うた。
“なんで二人が姉弟だってことを秘密にしてるの?”
“駿ちゃんは、みんなに話したい?”
“みんなって誰? クラスの友達?”
“だれかに話したらすぐ広まるわ”
“……言うつもりなんかないよ。でも、秘密にしてる理由は教えてくれない?”
“それって交換条件?”
“そんなつもりはないよ! 無理に教えてほしいんじゃないから……”
そのとき観雪は、ついと顎をあげて窓から差し込む夕陽を眺めた。
“駿ちゃんはね……、厭でもきっとそのうちわかるはずよ。そのとき、わたしから離れるかどうかは駿ちゃんが決めたらいい。わたしはなにも言わないから”
“……それ、どういう意味……?”
“駿ちゃんが決めて”
駿に視線をもどした観雪の瞳は揺れていなかった。夕陽をそこに映したかのように、睫毛は赤く光った。
“だからこれはわたしの我がままかな。秘密を守るって約束なんてしなくていいよ。駿ちゃんの訊きたいことにもなんでも答えてあげる。だけどね、もしわたし達のことが広まればそのときは――――――”
コツ、というパンプスの音がいやに響いた。自動ドアが開いたと同時に、冷たい空気が風となって駿のうしろから流れた。
こんな現実そのものの場所で、まるで現実的でないひとに会うことが夢のなかのようだった。それでも胸は苦しかった。
「駿さん」
店内を見渡すまでもなく志賀蒼の声がした。
【四】
志賀蒼をみたとき、ふと駿は泣きたくなった。自分の描く純真が、どうか彼のものであってほしいと願った。
“観雪のことを、好き?”
“蒼くんのことが好きなの?”
蒼には一度、観雪には幾度となく繰り返した問いだった。
二人がただならぬ関係にあると早々に気づいた駿だった。そのときの心の悲鳴を、駿はいまも抱えている。志賀蒼のどこにも屈託のないような表情に、駿はそれを目の当たりにした。
「驚かないのね」
開口一番、駿は告げた。彼と会うのは五、六年ぶりだった。いきなり電話をかけた駿に蒼は驚くこともしなかった。どうやって番号を手に入れたのかさえ彼は訊かなかった。
張りつめている駿に、青年はひかえめに笑った。
「座りませんか、駿さん」
コーヒーショップは月曜の夜だというのに割合に混んでいた。二人掛けの席の手前側に座る蒼は、隣に立つ駿を誘導した。彼の席にはすでにアイスコーヒーが置いてあった。
「なにか飲みますか」
「そんなものはいい」
駿は撥ねつけた。
「これ、観雪に返しておいてよ」
駿は蒼の正面にまわり、手に持っていた観雪のショールをぞんざいに放った。蒼に連絡をしたあと、観雪の部署の席に行き衝動的に奪ってきたものだった。あまり見ない色合いのコバルトブルーのショールは、ふわりと蒼の胸に着座した。
「なにか知ってるでしょ」
「……観雪のものですか?」
「なんで知らないのよっ!!」
店内に響き渡るほどの声で駿は叫んだ。店は一瞬で水を打ったように静かになった。
「……駿さん、俺コーヒー買ってきます。座ってください」
蒼は取り乱すでもなく心配そうに駿を宥めた。気まずさも手伝って駿は乱暴に椅子を引き腰掛けた。
他の客の視線を振り切るように、彼女は頭をかかえて顔を肘にうずめた。固まった店内の空気は少しずつ流れ出していた。
ご丁寧に水の入ったグラスとともに、蒼からトレーごと差し出されたコーヒーを駿は受け取った。蒼は姉のショールを椅子の背にかけた。
「日本から離れているんじゃなかったの……。もう帰らないって観雪に言ったんだよね? あれは嘘?」
「離れるつもりでした、ずっと一生。でもできなかった」
「……いつから観雪と会ってたの?」
「半年くらい前です。日本を離れていたのは本当ですよ。あんなひと、金輪際会うつもりはなかった」
蒼くん、と呼びかけたなり駿は絶句した。シロップとミルクを入れ、彼はマドラーでアイスコーヒーをぐるぐるとかき回した。
「でも俺たちは再会してしまったんです。バカバカしくなりましたよ、それまで散々悩んでいた自分も。あのひとは何ひとつ変わってないんだ」
彼は、急にマドラーを離した。そして詰め寄るように駿に訊いた。
「駿さん。自分が思ってることが、ほんとうに本心からそう思ってるのかって疑問に感じたことはないですか。俺はほんとに観雪を愛してるのかとか……」
「観雪をあいしてるの?」
蒼は泣き笑いのような顔をした。
「駿さん、週末に俺と観雪のこと見たでしょ? 観雪が言ったんですあのとき。あなたの名前を呼んだんですよ」
駿には得も言われぬ悪寒と吐き気が這いあがってきた。思わず口元に手を当てた彼女は蒼から距離をとるように後退りした。蒼はそんな駿をちいさく嘲笑った。けれどもそれはどこか悲しさがあった。
「駿さん。俺に決心をさせたのはあなたですよ」
「なんのこと?」
「駿さんにとってもあのひとは特別だったでしょう? 俺はずっと後悔してきた。姉さんに申し訳ないと思ってきた。でも一度姉さんと離ればなれになって、それは三、四年のことだったけど、あのひとのことが頭を離れなかった。だから、高校で観雪に会ったとき、また一緒に過ごせる日が来るならどんなことでもしようと決めた……」
駿は微動だせず蒼の話を聞いていた。蒼の座る椅子の背にかかったコバルトブルーのショールの輪郭が、みずからの領分を壊して駿の視界に広がった。それはいつからか闇に転じて駿に押し寄せた。
離れ離れで暮らしていた姉弟が高校で再会したのはまったくの偶然だったことは観雪の口から聞いていた。彼女は、夕陽のそそぐあの階段で言った。駿の訊きたいことにはなんでも答えてあげると。けれど、たとえば存在することも知らない植物の名前を尋ねることができるだろうか。質問するには事実の認知が必要なのだ。志賀観雪はたしかに独特な人間だった。周囲を支配し時間を自由に左右する力をもっているのだろう、少なくとも駿にとっては。だがそれが、何に由来するのか考えたことがあっただろうか。どんな因果があのときの彼女を、現在の彼女を彼女たらしめているかということを。
駿は、恐る恐る口元から手を放した。
「……み、ゆきちゃんは、どうしてあんなふうなの? 蒼くんはなにか知ってるの……?」
蒼はとても悲しげな目をした。その表情は、彼とあまり似ていないはずの観雪そっくりであった。
「駿さんは純粋なんですね。俺に一度訊きましたよね、観雪のことを好きなのかって」
駿にとっては観雪はあまりにも異質で、同時に通常だった。彼女は圧倒的存在であるのに、時として淡雪のように溶けてしまいそうな脆さがあった。その存在は駿を侵食するものであった。しかし弓削駿がそれをそうと自覚することはなかった。志賀観雪は徹底して志賀観雪という存在だった。駿にはそれを疑う余地すらなかった。
「純粋? わたしは蒼くんをこそ純粋だと思ってた……。だって、どんな心で姉を想うっていうの? 蒼くんは観雪ちゃんと似た空気をもっていたけど、まったく同じってわけじゃなかった。蒼くんは、清らかっていうか……」
それでもふたりの姿は闇にあって想起できた。今でさえ彼のもつ空気は無垢だった。闇に浮かぶ無垢な月。月は、どんな色をしているのだろう…………?
「俺と以外なら観雪は幸せになれるって、観雪に言ったんでしょう」
「……観雪ちゃんから聞いたの?」
「聞こうとして聞いたんじゃありませんけどね。でも、そう駿さんがそう思ってるってことが、駿さんが純粋な証拠じゃないですか」
「どういうこと?」
「姉さんが俺と以外なら幸せになれるなんて、どうしてわかるんです」
観雪の悲しげな顔をみたことが駿にはあっただろうか。目の前の蒼に、まるで観雪と対座しているような錯覚が起こった。駿には言葉が浮かんでこない。
「だから……、だって、ふたりは姉弟じゃない」
そうですねと、蒼はテーブルに目を落とした。高校一年生だったときの彼の姿が、ありありと駿に思い出された。姉に寄り添い、はにかんでいた少年は、潔癖そうな顎の線をより鋭くして大人になっていた。“眠そうに”と表現するのはきっとおかしい。けれども眠そうに寝た彼の髪の毛が、少しの幼さを残していた。駿は胸の苦しさを押さえられなくなった。
「わたしだって、蒼くんに会うつもりなんてなかった。ねえ蒼くん、観雪と別れて。このままじゃ、ほんとうにまずいことになる」
中島龍平の切羽詰まったようすが、駿に警告を促した。彼は実行するのだろう、観雪の安全と引き換えに駿の心を傾けようとするだろう。唯々諾々とそれに付き合う謂れはなかった。けれどこれは皮肉にもある意味でのチャンスだった。
蒼は目を瞬いた。それはいっそ可愛げだった。駿はたったそれだけの動作に胸がつまった。無垢な月を闇から奪う、そのことに痛みを覚えるのだろうか。
ああ、そうかと彼は自嘲した。「なにかあったんですね?」
駿は懇願した。観雪の安全が脅かされるかもしれないと切々と訴えた。蒼は駿にじっと目を据えたまま聞いていた。駿はついに頭を下げた。対面の椅子の背にかかるコバルトブルーが視界をかすめた。
蒼がポツリと言った。
「駿さん……姉さんの肌がどんな感触か知ってますか?」
駿は反射的に顔をあげた。
「蒼くん」
「駿さん、あなたには聞く責任がある。無茶だというのはわかってます。でも、俺の背中を押したのは、たしかに高校生だったときのあなただ。駿さんがそれを知ってるかどうかなんて俺には関係ないんです。姉さんは、どんなに手を伸ばしても届かない。あのひとは、俺を置き去りにする。それでも俺はあのひとに逢わずにいられない。それが愛かどうか俺は考えるんだ」
間髪入れずに駿は答えた。
「それは愛じゃない。依存だよ。それに」
観雪の咽ぶ声が駿の耳を嬲った。狂ったように喘いで求めるのが、実の弟であっていいはずがない。駿はテーブルの下でぶるぶると拳を握りしめた。
「わたしは観雪ちゃんとどうにかなりたいなんて思ってない。観雪ちゃんをそんな目で見たことなんかない」
「愛に境界なんてあるんですか駿さん?」
彼が挑発的であればあるほど駿には有利だった。しかし彼はそうではなかった。彼はまったくの真率さをもって駿を見返した。
「境界……? 蒼くんがそれを言うの?」
駿は眦をあげた。自分にはたどり着けない岸があると駿に突きつけたのは他ならぬ蒼だった。
「蒼くんにはわたしの気持ちなんてわからないよ。蒼くんにだけは言われたくない。ふたりがどんなふうにわたしの目に映ってたかなんて、考えたことがある?」
駿には許しえない蒼の発言だった。
「同じ言葉を返しますよ駿さん。あなたはどんなふうに姉さんに接してたと思います? 不可侵の新雪に触るようで、あのひとを恐れていて、でも上からその雪を踏みつけようとしてた。そしてそれはできないんだと、毎度毎度おなじところを回ってた。俺はそれをみて、姉さんから絶対に離れてやるものかと誓ったんですよ」
駿は青ざめた。それでもいまさら己の挙動を後悔してはいられず、この場で蒼に屈してしまうわけにはいかなかった。
「だったら蒼くんが決めたんじゃない……。わたしのせいにしないでよ」
「俺は求めあうことなんて、最初から期待してないんです。観雪が求めてるのは俺じゃない」
「……どういうことよ。じゃあ、いったいそのショールはなんなのよ。その色が何色かわからないっていうの?」
それはどこででも見かけるような色合いではない蒼だ。身体を繋げた相手の名の色を纏う意味など瞭然ではないのか。いつの間にか床に落ちていたショールを蒼は拾いあげ、それをぐっと握った。
「あのひとはねえ……、駿さん。俺をみてるようでみていない。いつもいつも、そこにいないような存在のくせして自分の傷痕をずっとみてるんですよ。血が溢れて流れるのを凝視してるんですよ、それがどういうことかわかりますか?」
「蒼くん? なに言ってるの……?」
「あのひとは、俺を呼びながらずっとひとつの可能性をみてる。“あのときもしも”、“反対だったら。わたしじゃなかったら”って」
「あのとき? 反対……? 蒼くん、なんのことを言ってるの? ねえ、わかるように話して」
蒼は陰惨に口の端をゆがめた。駿は息をのんだ。彼の潔癖な空気に罅がはいり、闇が彼の髪に肩に、降りかかるようであった。
「滑稽なもんですよ……。俺の悲しみなんて、じっさいは汚れることもできやしないんですよ。あのひとは、傷痕をどこまで踏んでいいか、どこまで血が流れるか確かめてるんです。俺は流れたそれを吸うんです、飲み干すんです。どこかにあのひとを知る真実がそこにあるんじゃないかと思って…………」
蒼の凄まじい発言を、駿の全身が拒否した。込みあげてくるなにかを必死に留めた。彼女が認知するか否かにかかわらず、それは志賀観雪を構成する闇の片鱗だった。
「むかし観雪ちゃんに、なにかあったの――――――……?」
「知りたければ、観雪に訊けばおしえてくれますよ。でもそれを知ったところであなたに何かできるわけじゃない。駿さんを貶めようとしているわけではないです。ただ、観雪も駿さんも失うだけだと思います」
「なに、を?」
蒼は答えなかった。店内はすっかり閑散としていた。氷が解けて薄くなったアイスコーヒーの色が、駿の目に汚れて映った。彼女はもはや茫然としていた。蒼は顔を覆った。
「ほんとうのほんとに、姉さんの血を飲めたならよかった」
【五】
“秘密を守るって約束なんてしなくていいよ。駿ちゃんの訊きたいことにもなんでも答えてあげる。だけどね、もしわたし達のことが広まればそのときは――――――”
そのときは、わたしは消えるから。どんなことをしても駿ちゃんのまえからいなくなる。
「“どんなことをしても”ってセリフが姉弟一緒じゃない……」
ふたりから漏れた言葉は、駿の中心をちりちりと炙った。
一年半前の夏、駿と観雪は卒業した高校を訪れていた。県の中心部からさほど離れていないが、山手にある学校は、緑に囲まれた少し外界から独立した佇まいだった。他校と併合してそこは廃校になると聞き、二人は夏季休暇を利用して足を運んだ。
ここはなくなるのねと観雪は言った。駿の予感は、もしかするとこのときから続いていたのかもしれなかった。姉と弟の逢瀬は、蒼が大学を卒業するころについに互いの両親の知るところとなった。実父のもとを離れ首都に出てきていた観雪のもとに、彼女の実母が訪ねてきた。母と娘は、夫婦が別れてからほとんど没交渉だった。姉弟が高校のときに、よくも露見しなかったものだと駿はそれを知ったときに思った。
もう会わないで、と観雪の母も、そして駿も時を隔てて彼女へ哀訴した。駿が観雪へそうしたのは、高校の校庭でのことだった。両親へ事が露見してからすでに四年半が経過していた。姉弟はその間、別離をくり返した。姉弟の父は他界したが、彼女らの母の干渉が日増しにふたりを追い立てていった。耐えきれなくなったのは弟のほうだった。彼は姉に今度こそと別れを告げた。姉は彼女の親友に伝えた、弟とはもう会わないと。夕陽が染める校庭にヒグラシの声が物悲しく響いた。
観雪がしていることは支配と威圧だと、駿は観雪を糾弾した。けれど駿は、そこどまりであった。彼女にとってのもっぱらの関心は、姉弟の愛の所在であり、ふたりの関係の決着であったが、志賀観雪が弟に執心する本源ではなかった。すなわち志賀観雪への、ある意味での絶対視のあまり、駿の親友への性情の探求は大部分において放棄されていた。志賀観雪は厳然として志賀観雪という存在であり、それが彼女の現実だった。
それに目を向けてはいけなかった。気づいてしまえば、おそらく観雪という存在は壊れてしまう。駿の現実は溶ける。
涙が火となって頬をすべった。観雪のアパートにたどり着いていた駿は、堪らなくなって彼女の部屋のドアの前でズルズルと腰を落とした。吐く息の白さと胸の苦しさに視界に靄がかかった。見あげた月の輪郭が滲んだ。
「――――――駿ちゃん」
「……いま蒼くんに会ってきた……」
物音に気づいた観雪がドアから顔を覗かせた。彼女がなにか言うまえに駿は観雪にとり縋った。駿の涙に、さすがの観雪も瞠目した。
「観雪ちゃん、わたし中島から脅されたの。中島が観雪ちゃんと蒼くんとのこと録画してた、ネットに流すって言ってる。ね、このままじゃまずいよ、わかってるよね? 中島のことはわたしがなんとかするから、蒼くんとはもう絶対会わないで、ねえ観雪ちゃん……!」
観雪は外の寒さに身震いした。駿を見下ろす彼女の瞳も凍っていくようであった。
「……駿ちゃん。それとこれとは話が違うでしょう? わたしは関係ないわ。そんなこと駿ちゃんにもわかってるはずよ」
「わかるよ、わかってるよそんなことはっ! でも自分にも責任はあるって知ってるよね。会社であんなことして、だから中島みたいなやつに利用されるのよ。わたしは散々言ったよね? 観雪ちゃんも約束してくれたよね。ねえ蒼くんが好きなの? 愛してるの、他の誰よりも? どうして観雪ちゃんはそんななの?」
「……聞きたい?」
駿は動きをとめた。膝をついているコンクリートの吐き出す冷気が容赦なく駿を絡めた。
「観雪ちゃん」
「駿ちゃんが聞きたいならなんでも答えてあげる。でもね、お願いをきいてあげることはできない。わたし、蒼とはなんにも約束してないの。蒼がもう会わないって言ったの。それだけ。わたしは駿ちゃんにも約束なんか求めてない。一昨年の夏も、駿ちゃんの言うことを聞いたつもりもない。蒼が会わないって言ったからよ」
「みゆ、き」
「秘密を守ってくれなんて約束はしなくていいよ。駿ちゃんの訊きたいことにはなんでもおしえてあげる。ずっとそう言ってきたね、わたし……」
観雪はかがんで駿に目線をあわせた。彼女の黒髪が夜陰にふわりと躍った。
「なにも気づかなかったね駿ちゃんは。わたしが蒼を好きかどうかだけを知りたがってた」
「……っ、観雪ちゃん」
「いつもあなたはどんな表情をしてたと思う? あなたは怯えてた、とても傷ついていた。それでも好奇心にあふれていた」
“蒼くんのことが好き?”とは何度もくり返した問いだった。観雪はそのたびに頷いた。睫毛をしっとりと揺らめかせて駿に答えた。息がとまる思いだった。彼女は悲鳴をあげ、その悲鳴で観雪のもつ空気を裂こうとした。けれど瞳に奔る駿の悲鳴は観雪に届かなかった。それはいつもわかっていて看過された。観雪という存在は駿を侵食しても、観雪の領域にはいることは叶わなかった。彼女はそれに甘んじていた。恍惚と陶酔、裂断を心は廻った。観雪のために零す吐息は闇からあたえられた夢だった。彼女はそれを、手放したくはなかった。けれど観雪の幸せを信じて疑わなかった。彼女にはなにも矛盾するところのない願望であった。
「駿ちゃん、ごめんね」
観雪はゆっくりと瞬き、黒髪は彼女の肩をすべった。
「わたしは蒼なしには生きられないの」
それは、駿にはこれ以上はない最後通牒だった。駿は叫んだ。
「蒼くんが言ってた! 観雪ちゃんはいつも彼を見ていないって。蒼くんを求めてないって……!」
「そんなすれ違いがなんだっていうの? だってあのとき、たしかに蒼は間に合わなかった。わたしはそれからいつも思ってた、“もしわたしじゃなければ”、“もしあれが弟だったら”って。蒼は自分の悲しみが汚れてると思ってるのよ、きっと。それはわたしのせいね。あの子は純粋に悲しみに浸れないのよ。でもそれがなに? 過去はもう変えられないのよ」
「観雪ちゃん……」
「駿ちゃん。わたしのことを知りたいなら、なんでもおしえてあげる。でもね……。わたしは、わたしたちはとっくに壊れているの。ねえ駿ちゃん、映像なんて誰に撮られても構わないの、わたしは。まさか中島くんがそれをするなんて思わなかったけど。でも、みんなどこか少しずつ壊れているんだよ。だから、わたしだって壊れていていいの」
ついに駿の心は決壊した。嗚咽がとまらなかった、悲憤の涙はぼたぼたと零れ落ちた。駿は観雪の両腕をつかみ、必死で首をふった。
「愛なんかじゃない……、そんなの、愛なんかじゃないよ……!」
観雪は悲しげに笑んだ。彼女の両腕の感触は、尋常の人間の弾力でもって駿の指に伝わった。その事実に駿は遣り切れなくなった。観雪はまぎれもない肉の塊としてそこにあった。それは非情な宣告だった。観雪という塊は、なにをもってしても指を突き抜くことのできない実体であり、その存在自体が駿にとっての拒絶であった。駿の希求する観雪の溶解であった。
観雪の笑みに、志賀蒼の表情を見た。闇のなかで身を寄せあう姉弟の幻影が映しだされた。
それは惨いしあわせだった。
駿は泣いて泣いて、目の前がもう見えなくなった。観雪から手を放し、拳を振りあげてコンクリートを打った。
この嗚咽は、悲鳴は、だれにも汲まれないのだろう。どこにも届かないのだろう。
観雪は愛を知らずに終わるのか。人間のもっとも根源的な営みを彼女は放棄するのだ。
「……駿ちゃん。わたしは間違ってるかもしれないけど、駿ちゃんが正しいっていえる?」
息を吸うのも苦しくなりながら駿は観雪を仰いだ。
「わ、わたしは、観雪ちゃんに幸せになってほしくて……!」
「わたしは不幸じゃないわ駿ちゃん」
駿にはもはや成す術はなかった。自分はいったい、志賀観雪のなにをみてきたのか、駿の無知への到達は彼女に絶望をもたらした。彼女はいま闇へ落ちた。それは己が生み出し広げた闇であった。己が顧みることのなかった積みあがった過去の真理の一端だった。たしかに志賀観雪に闇をみた。しかし同時に、己が甘んじた闇でもあった。
観雪が、緩慢に立ちあがり空をみた。夜陰にぽっかりとあく穴は月であった。
その月は何色であったろうか。駿にはそれが見えなかった。