黒靄の無頭狗
それぞれの穴から駈け出した二頭の洞窟班目熊は、迷いもなく大きな岩の裂け目に突入していった。ここは緊急避難場所なのか? その唐突な行動は理解に苦しむ。
もし千里眼で音無を見た結果、恐れおののいて逃げ出したのだとすれば、音無の底力は想像以上のものなのかも知れない。
全員で追跡しようと、洞窟の前で灯りの準備をしていると、突然地面が揺れた。それは一瞬の事で、すぐに何事も無かったように静かになる。だが何かがおかしい、そう感じたのは俺だけではないらしく、
〝探知してるけど少し待ちな。何かおかしいよ〟
サバ姉の警告に内心頷いた。一つくらいの不測の事態は想定内だが、それが二つ、三つ重なるのは絶対におかしい。
「ここら辺の岩は脆いから、落盤の危険もあるかも知れない。奴らの追跡は諦めて、本来の目的地を目指すべきじゃないか?」
と言うセキに、呪方器を差し出したヘタが、
「それが、どうやらこの中らしいです」
と告げた。という事は、百目級の洞窟に、若い洞窟班目熊が二匹飛び込んで行ったのか? そんな集団行動をとるなんて初耳だ。疑問に思い音無を見ると、
「おかしい、わざわざ他所のテリトリーを犯す真似をするとは……まさか、百目級の熊が、他の二匹に幻術をかけた? それにしては距離が離れすぎている。それほど強力な術を使えるとは……あまり考えられないが」
と言いながら、洞窟内の物音に聞き耳を立てていた。どうするべきか? 標的が居るならば進むべきか? だがイレギュラーな事態には、一旦間を空ける必要もあるかも知れない。
迷いもあって決断が長引いていると、洞窟内から諍いの音が聞こえてきた。それはすぐにおさまったが、直後に背筋の凍るような断末魔の悲鳴が聞こえてくる。
異種族言語に通じた俺には、洞窟班目熊達の恐怖からくる絶叫だと分かった。
〝やばいぞ! 逃げろ!〟
「やばいぞ! 逃げろ!」
サバ姉の警告をそのまま口にすると、呪術師のヘタちゃんも、
「まずいです! 逃げましょう!」
と警告を発する。見ると、百目を示し続ける筈の呪方器が出鱈目な方角を指してクルクルと動いてから、急に力を失ったように動かなくなった。
中の百目に何かあったんだ。しかも突入した二頭の洞窟班目熊をも一瞬で倒すほどの何か。
一目散に逃げ出す俺の横を、音無が追い抜き、先導してくれた。急斜面を息せき切って登ると、大きな岩場の陰に飛び込む。
そこから片目だけ出して、大きな裂け目を見ると、
小さな一頭の黒犬が悠然と歩み出てきた。少し観察して分かったのは、頭部に靄のようなものがかかっている事。動くにつれてそれがたなびき、目から上がバッサリ無い事に気づく。
「無頭狗……」
音無の呟きが俺の耳にこびりつく。むずく? 何の事だ? あの個体の名前だろうか?
当の黒犬は、軽快な足音を立てて岩場を進むと、大きなあくびの後、腰を下ろして後脚で首を掻き始める。
その首に巻きついているのは、誰かがはめたであろう首輪だった。飼い犬だろうか? それにしては頭部の靄といい、おかしな外見が目を引く。
「何故? 草原のモンスターである無頭狗がこんな所に。黒い靄、それにあの首輪……まさか」
音無が絶句していると、無造作に立ち上がった黒靄の無頭狗が、ゆっくりとこちらを向いた。目の錯覚か、その口元は人間のような嫌らしい笑みを含んでみえる。
恐れを抱く心に染み込むように、頭部の靄がジンワリと空中に溶けだした。




