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父の死を刑務所で知った

とにかく毎日が楽しい❗辛い努力せずしていかにゆとりの生活をするのか?ここには、叡知があり、あなたが努力せずとも、世界は変わり、人生は飛躍的に向上する❗、自分が変われば世界が変わる❗すべては、みなさんの信念体系が現実化しているだけのこと、さあ!毎日ボチボチ、笑いながら学ぶことで長続きもします、とにかく楽しんでください❗

人生は舞台だと、かのシェイクスピアは言ったが、人間は運命に翻弄される「虚しい影法師」であると付け加えた。


私は人生は舞台ということには同感だが、運命に翻弄される虚しい影法師だとは思わない。


私は享年76の父の死を刑務所で知らされたが父は末期癌であることを知っていたかのように、


チューブや尿袋をぶらさげて面会にきて、どこで段取りしたのか?生活保護でありながら30万という大金を差し入れてくれた。


「これでお前の好きな勉強をしろ!」それが父の最後の言葉だった。


私は最初に「ブックページ」という毎年毎に出版される最新版の本のカタログを買い内容を厳選した上で最新の各分野の情報の本の収集のために一円も残さずにきれいに使った。


新しい下着も買わずに刑務所で支給されるボロボロのシャツをありがたく頂き、お金はすべて教養や知識のために使った、これは自分への投資であり人間としてのインフラを整備していたのだ。


何しろ刑務所だからネットがないし電話もないし交友もない、刑務所にいる奴らの話とは、たいてい「次はどうしたら捕まらないか?」とか狭い刑務所での肥大化した些細な揉め事だったりヤクザの自慢話がせいぜいで、


七回いけば、そうした雑談はもううんざりだ、たまにはキラッと光る話もあるがひたすら「行」をおこない霊性を磨くか読書で教養や知識を身に付けるそのためには刑務所はうってつけの場所でありプレアデス人がいう「保養地」としての役割は充分に果たされている。


父はもう自分の死期は知っていただろうから言い残したいこともあったろうにそれだけ言って去ってしまった。


父はギャンブル好きの遊び人だったが数千万の借金を整理して貧困に陥っても、衣食住に困った人がいたら見ず知らずの人でも狭い家に泊まってもらい生活費を削ってでも共にラーメンをすすり苦楽を共にして、いつも笑い話にしているような楽観的な善人であり、私には偉大な父だった。


しかし運命に翻弄され人生の敗者だと思い込んでいた。私は「運命」は「意識的」になれば自由自在に変えることができるという信念体系をもっているから、そのとおりになるだろう。


しかし私には「運命」は変えられても「宿命」とは、「もって生まれたもの」として受け入れざる得ないものだと認識している。どうせならば宿命という制限をフルに使い武器にしたいものだ、


最悪の環境で生まれ育ったならば、それが売りになるくらいにバネにして成功をつかみとればよい。


さて、人生において自分に良くしてくれた人、悪いことをした人、それぞれだろうが、不思議なことに、悟りを開いた方々は、自分に悪いことをした人を「あの人は悪役を演じてくれたんです」と口を揃えたように語る。


私はこのからくりに人間の真実があるのだ。


光の存在である魂は、自分が光であることを、それも特別な光であることを体験したいがために、何度も何度も生まれ変わっては、光や闇を互いに演じあっているわけで。


みんなが役者だ。しかも千両役者であり本当の自分(特別な光の存在)を忘れて役柄に没頭しており、人生は舞台なので、一幕一幕、違う役割を演じあっているわけです。


しかも過去世から、もちこした課題があり、みんなそれぞれに、いかにそれをこなすか(ポジティブに転換したりネガティブに表現したり)「無意識に」知っていて、死とは、この人生の役者としての舞台を降りただけのことで、まだまだ先があるのだ。


人生はエンターティメントである。しかもそれからも主役として自分でシナリオを書いて自分で演じていくのだ。


しかし悪がなければ正義も存在しないので私たちは、誰かが光の体験をするためには誰かが闇を演じる必要がある。


でないと、私たちは、数億万数多の魂みんなが完璧な光の魂なのだが、天にいるときの私たちはみんなが一つになり太陽のように輝いているのだが。


一人一人の魂は太陽の中の一本のロウソクみたいなもので、しかし、その一本のロウソクがなければ完璧な太陽にはならない、光が一つ欠けた太陽でしかない。


だから我々はみんなが完璧な光であり神々であり唯一無二の特別な光なのです。


我々は生まれてくる前に、自分で今回の人生の、おおよそのシナリオを設定して生まれてくる。問題は端的に言えば「無意識に生きるか?」「意識的に生きるか?」に大きな違いがあるのだが。


この違いを知って生きるか、知らないで生きるかでは雲泥の差がある。


【無意識】に流されて生きるのは、状況に振り回され人生の「主体」ではなく条件反射的に感情が衝動に動かされているだけの「ロボット」に等しい。それでは人生が思うようになるわけがない。


酔っぱらいながら生きているのと変わらない、あなたにも「繰り返すネガティブなパターン」があるがあることかと思いますが


恋愛のパターンにしても、お金を遣うパターンにしても、無意識に破滅や破綻に向かう言動があるのではないか?それは、あなたが前世や現世で慣性となったネガティブなカルマパターンか?を見極める必要がある。


無意識に生きること。それが「運命に翻弄される虚しい影法師」である「無意識」の中にはあなた方のカルマが潜在していて良くも悪くもその時期がくればそれは無意識に発動するか誰かに発動される。


また日常生活において無意識に生きるのは人間としての成長や全体への貢献について無関心にならざるを得ず。


そうなると自分の明確な「意識」もなく明瞭な「意志」も働かず、一日にあったことは、朝に起きた、飯を食べた、仕事をした、ストレスがたまったのでスナックバーでうっぷんを晴らした、あとは寝るだけ、こんな一日の繰り返しとなりかねない。


さてネガティブな感情は悪いものではない、ネガティブな感情に対して条件反射的に動かされてる状況でセルフコントロール出来ないことが不味いのであり。


というか、感情は素晴らしいセンスの原動力だし、感情豊かなことは何よりも人間らしいことでもある、そして感情の表現にその人の感性というものが表現されて人格として現れるのだ。


だから「感情」を無視して「理性」のみで生きようとすれば、おおよそは「本音」を無視して「建前」のみで生きることになるだろう。建前とは形だけで気持ちはまた別だったりして結局そこだけで付き合えば無難だが虚しい。しかし「社会的」に人間関係を維持していくには必要かもしれない。


あなたはいずれ感情が麻痺し、自分の本当の気持ちさえわからなくなり、何があってもいつもニコニコと微笑みを浮かべている「微笑みの仮面」を身につけて生きることになる可能性がある。


感情と理性は陰陽表裏一体でありバランスが必要なのだ、感情は素晴らしいものだ、喜怒哀楽これらは元々は、一つのエネルギーが表現を変えただけであり、


悲劇は喜劇でもある、チャプリンの映画でもペンキをぶっかけられて全身真っ白になったり、使い古して靴が破けてペランペランになったり、視点を代えれば悲劇だが、悲惨でありながらそこが面白いから喜劇に仕上がっている。


あなたが主体的な人間ならば、「意識的」に状況を臨機応変に視点を変えて自由に解釈することが可能だ。


そして怒りだろうが、憎しみだろうがネガティブな感情が、自分の中にそれが現れたら決して抑圧しないほうが賢明と言える、ネガティブを排除するのではなく、悲劇が喜劇になり、ネガティブがポジティブになるような観点や表現力を備えれば。


ピンチはチャンスとなるだろう❗


「抑圧したものは必ず噴出する」これは人間の精神構造に「無意識」の領域を発見した19世紀の心理学者フロイト博士の言葉だ。


ネガティブな感情を抑圧すればするほど、あなたの内面は歪み、膨らみ、いずれ病気になるか暴発する。普段おとなしい人が酒を飲むと暴れたりするのは、我慢し抑圧したネガティブな感情が噴出していることが多い。


酔っぱらった状態とは「無意識」の状態だ。


それらは小出しにするか、ブラックジョークにして表現したりスポーツで発散したり芸能や芸術に昇華したりして表現し解放することでポジティブに反転するのだから。


そもそも私の「二代目くちびる聖人いやみ師範」という小説は、実在の宗教的な人物からの執拗な嫌がらせが原因で、


新婚の私たちは追い詰められ散々な目にあったから、その怒りや憎しみを、笑いに変えて小説として芸術に昇華しようとシリーズ化したものだ。


さて、話はまた元に戻るが、運命には変えられる運命と変えられない運命「宿命」とがある、それを見極め、変えていけるものを変えていく勇気と、変えられないものを受け入れていく寛容さが必要だ。


幸せだとか不幸だとかは価値観の変容や心の状態や置かれた立場や状況により変化するし、人にとって幸福とは十人十色でもあるだろう。


しかしながら善と悪が対立し「罪と罰」という概念があなたの信念体系にあるうちは。まず人間は内面に悪感情は必ずあるだろうし。


どんなに経済的に物質的に豊かでも、ネガティブな感情を悪として罪として排除し否定し続けていては、みなさんは必然的に「罪悪感」から一生離れられないようになる。


世の中とは不条理なことや矛盾だらけである、どんなに出来た人間でも、内面に、対人関係や世間に対して怒りや憎しみを抱くことは必ずあるだろうし、犯罪ではなくても道徳的な罪を犯したことのない人間はいないだろう。


離婚して幼子を置いてきてしまった、昔の恋人を傷つけたまま別れた、困った人を見かけても見て見ぬふりをしてしまった、自分の気分が悪くてつい子供にきつく当たった、相手が悪くもないのについ意地悪をしてしまった、自分のミスを隠した結果同僚のせいになってしまった。


こうしたことは、あなたが道徳的な人間であり良心的な人間であればあるほど「罪悪感」となり自らを苦しめる。


この【善と悪が対立し、罪と罰の概念により自分で自分を苦しめる、罪悪感という永遠の刑罰】から、みなさんが解放されないうちは、この世は生きながら天国とはならないでしょう。


だから「自分を許すこと」がまず大切であり、自分を許せないと他人を許すことが出来ないのです。人間は自分がされたことを他者にしてしまいがちです「無意識」にそうしてしまうのです。


それは親子間でも連鎖していきます。ネガティブな現象では「虐待の連鎖」があります、だから「無意識」ではなく「意識的」に生きることが大切なのです。


罪悪感は不必要であると私は考えます、人間には善と悪が混在しており、だから悪を行って構わないのではなく道徳心は必要だし秩序とルールは守る必要があるが罪悪感は必要以上に自他を責め苦しめることであると私は考えるのです。


人生は舞台であり「意識的に」生きることで自由にシナリオを描いて人生を自由自在に生きていくことも可能なのだと私は思う。


その際には善と悪を超越した「超越愛」を表現していけば、生きながら天国となり、あなたは人生の「万両役者」となり得るでしょう‼

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