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3プティの卵が割れる時

難病の女性とそれを支える機械人形が壊れちゃうまでの話。


『ピアノが上手になりたい君達へ。

プティの卵って知っていますか?

見たことがないですって?

そう、プティの卵は目に見えないのです!

その中には、ピアノが上手になれる魔法の薬が入っているの。

とっても壊れやすくて、気を付けないと、すぐに潰れて消えてしまいます。

けれど良い形の手の中には、またプティの卵が出来るのです。

そして、潰してばかりの手の中には・・・

もう二度と、プティの卵は出来ません』


「サブ・バイエル」より

       


__________



・・・ポン


軽く叩いた鍵盤から、短い音が鳴る。

けれどそれは私の聞きたい音色をしていなくて、もう一度、人差し指で違う鍵盤を押した。


ポーン・・・


今度は少し、音がのびる。

ジッと耳を澄ませてから、私は傍らの杖を支えに立ち上がった。

「百合、百合っ」

ドアへ向かって花の名を呼ぶ。

するとすぐにパタパタと、廊下を少し急いで歩く音が聞こえてきた。

足音はやがて、この部屋のドアの前でピタリと止まる。

コン、コン

控え気味な、ノックが二回。

「失礼致します」

音もたてず開いたドアの向こうには、可憐な生き人形が立っていた。

「ご用をお伺い致します。桜様」

「調律師を呼んで欲しいの」

私の後ろに数歩分の距離を空けて姿勢良く立つ彼女へと、用事を告げる。

「やっばり音が変みたい」

「ピアノですか?」

確認の為にまた鍵盤を叩くと、百合が近付いて来て手元を覗き込む。

「この頃よく狂ってしまいますね」

「えぇ・・・古いからかもね」

少女の頃から愛で続けたピアノは、もう現役とは言えない。

どんなに大切にしていても、老い朽ちてゆく事は止められないのだ。

「・・・病気になっちゃったのかしらね」

「違いますよ」

笑いながらそう言えば、百合も小さく微笑んで否定する。

「楽器が患う事はありません」

「うん。でも、昔話したでしょ?これは、私の大切な所の一部なの」

白い鍵盤を、そっと撫でた。

「だからね、どこか私と同調してるんじゃないかって」

「・・・・」

百合は笑みを消して口を閉ざした。

私の言葉の意味を、頭の中で分析しているんだろう。

・・・多分、分かりはしないけど。

微かな電子音が、彼女から流れてきた。



私が、心身を患いだしたのは数年前。

大気の汚染により生まれた新しい疫病。

臓器だけでなく精神も蝕む病に、私は日々侵食されている。

始まりは、よくある高熱。何日も寝込んで、平熱に戻った頃には、支え無しでは満足に歩けなくなっていた。それからずっと、杖をついている。

精神にもすぐに異常が出始めた。

ペンを床に落としただけでパニックになり、母が自分を呼ぶ声に怯えて泣いた。不定期に癇癪を起こしては人を傷付けた。

私は何よりも、「心」が著しく崩壊していった。

自由にならない身体が嫌で、ふと湧き上がる衝動が怖くて、森の奥のこの別荘に閉じ籠もる事を選んだ。

もちろん、死ぬまで。

未練はない。どうせ治る見込みなどないのだから。

誰から見ても、私は厄介で煙たい存在なのだから。

けれど、孤独と絶望感から涙を殺す事は出来なかった。

最悪な事に、この病はそれらの感情を増幅させる。

私を壊す為なら、何でもすると。

百合は、そんな暗闇に耐えかねた私が「購入」したP.Dだった。

P.D・・・正式名『パートナー・ドール』

人に尽くす為だけに存在する擬似生命体。

特定の人物を奉仕の対象にし、その人の安全面・生活面・健康面など多彩な視点からサポートする。

要するに、百合は機械人形のメイドさん。

人の貪欲が形を成したツクリモノなのだ。

見た目は大凡20歳くらいの女性だが、体型や顔付き、髪型、声色、表面上の性格まで、持ち主の趣向に合わせて好きにリメイクできたりする。

更に設定一つで豊かな感情表現をし、果てには睡眠や食事を取る事も可能だ。(正しくは取る「ふり」をしているだけなのだが)

因みに百合はこれらの機能をONにしている。

ここまで色々できると、本来の用途をつい忘れてしまいそうだ。

百合を買った主な目的は、家事と私のメンタルケアの為。

いたる箇所に地雷を潜ませた私の精神と肉体が均衡を保つには、身内でも医師でもカウンセラーでもない、会ったその時から純真に私の事を支えてくれる赤の他人が必要だったのだ。

購入すれば後はタダで、半永久的に傍に置いておける、負の概念の存在しない無垢なパートナー・ドールなら適任だと思った。

現状、では。


「申し訳ありません」

静かに流れていた電子音が止まった後、百合が謝罪の言葉を口にした。

「え、なんで?」

「桜様のお話を理解出来ませんでした」

ああ、やっぱり彼女は、私の言葉の意味が解らなかった。

たったそれだけの事なのに、頭を垂れて謝っている。

存在自体が夢の様で、けれど何より現実的な思考を持つ人形。

彼等は、例えばお伽噺の様な空想など一切抱かない。非現実と取れる言動は受け入れる事無く、理解さえしない。

精細な人間らしさを追求し、作られた筈の生き人形。しかし彼等は夢見る事を許されなかった。

「あんなの、ただの冗談よ。OK?」

「はい。それでは明日、調律師を呼びます。よろしいですか?」

「うん。ありがとう」

「いえ、」

お礼を告げれば、百合は埃ひとつ被っていないピアノをそっと撫でた。

「ずっと綺麗な音でいてもらわないと困りますから。私も」

この時の笑みを、一体誰が作り物と思うだろう。

そうして一礼すると、百合は部屋から出て行った。

・・・私が百合を選んだ理由は、実はもう一つある。それが何よりも強く、彼女を私に惹き付けた。

パートナー・ドールとはどれも、その数あるステータスの中で一つだけ、他より優れた能力を持っている。それは例えば料理の才能だったり、医学知識であったり、本当に色々だ。

そして百合は、「音楽」という分野において、特に秀でた能力を持っていた。

といっても、プロ以上の演奏が出来るとか、そういうわけではないのだけれど。実際、百合もピアノは弾けるが、腕前は私より1ランク上ぐらいのものだ。

けれど「音」を聞く耳は何よりも深い。

彼女はピアノの音色を通して、いつも私の心境を正確に理解してくれる。

気分の良い時は、視界の端から微笑んで。寂しさを思い出した時は、出来るだけ近い所に佇んで。いつも私のピアノを聴いていた。

「よっと・・・」

椅子に腰を下ろし、鍵盤に指を乗せる。

テンポの速い曲は好きじゃない。

明るい音色を奏でる様な気分でも無い。

音は狂っているけれど、少しくらい構わない。

私はスローテンポの、やや低い音響の曲を選んで弾き始めた。

姿勢を正して、

指は力を入れず柔らかに、ふわっと。

掌に小さな卵を包む様に。

卵を割らない様に。

プティの卵が割れない様に。

(懐かしいな・・・)

小さい頃、それを教わった。

持っていればピアノが上手になる。目に見えない大事な卵。

子供心に本気にして、割る度に泣きそうになった。

流石に今そんな事はないけれど、ピアノに触れると思い出す。

大事な卵。

それは完璧現実主義の百合が、唯一「信じる」と言った見えないもの。


『だって、素敵ですから』


確か、そう言っていたっけ。初めて、一緒に弾いた時に。

「使用人形ですから」と遠慮する百合を引っ張って隣に座らせて、一緒に楽譜を選んで。

初めは楽しかった。

でも百合は、一度も実力を発揮しなかった。

私より上手く弾けるクセに、たまにわざと合わせてミスしたりする。

それを咎めても、ソロ演奏を聴かせてと頼んでも、いつも丁寧に辞退された。

パートナー・ドールとして、当然の弁えだと知っている。なのに次第に憎らしくなって、以来百合に弾かせた事はない。

百合を、傷付けたくなかった。いかに人より丈夫であったとしても、壊れる時は壊れてしまう。

百合は全ての感覚機能をONにしているから痛みも感じるし、皮膚が裂ければ擬似血液が流れる。

苦痛に歪む百合の顔を見たくない。

ふとした切っ掛けで、手をあげてしまったら・・・。

そして止まらなくなってしまったら。

考えるだけで、震えが走る。

きっとほぼ確実に、私は彼女を理不尽な目に遭わせてしまう。

いつの日か、心が腐り堕ちた時。


狂ったエゴイズムで、百合を殴って、殴って、殴って、殴って殴って殴って殴って殴って殴って      。



(・・・・・・あれ?)


いつの間にか止まっていた旋律に、いつの間にか閉じていた目を開く。

鍵盤に乗せた指は、中途半端な所で停止していた。

はっとして壁に掛かった時計を見る。進んだ時間から察するに、随分長い間放心していたらしい。

「え、嘘・・・」

・・・いつ、弾くのを止めた?

暗闇の淵に堕ちていた頭では思い出せない。

・・・何を弾いてた?なんて曲?どんな曲?ちゃんと自分で選んだじゃない。

「っなんで・・・?」

鍵盤に置き忘れた指が震える。

私にとってピアノは、何より効く精神安定剤だ。

癇癪を起こした後、寂しさに負けて泣いた時。

鍵盤に指を乗せて楽譜を辿れば、心は漣も残さずに落ち着く事が出来た。

なのに、どうして。

いつの間にか耳は音を遮断し、私は暗澹へ誘われていた。

こんな事は今まで無かった。どうして、どうして・・・。

私の安定剤が、底を尽き始めている?

「止めて、止めてよっ!」

堪らず強く叩いた鍵盤から、不協和音が生まれる。

音が、音色が、狂っている。

この場所を侵食されてしまったら、私は何を光にすればいいの?

「大丈夫・・・・ね?」

まだ、まだ、だいじょうぶ。

私はピアノを弾けるもの。

上手に弾けているもの。

プティの卵は、まだ出来る。

だから大丈夫。

絶対、もっと上手くなれるんだから。

百合よりも、もっとずっと上手に。

また一緒に、弾けるんだから。


雫が、落ちる。



___________



数週間後、正午。

私は、テラスから見える風景をぼんやり眺めていた。

手入れの行き届いた庭先では、終わりを迎えた桜が風も無いのに散っている。

それはとても、美しい様だった。

目を奪われると同時に、私はあんな風には死んでいけないなと思う。所詮、自分は名前だけ。

視線を落とせば、冷たい土の上に散らばった花弁が目に入る。

寒々しく、色褪せた。きっとこれから、散々踏みにじられて地面に混じって消えていくのだろう。

ああ、それって、私と同じね。

何だか少し嬉しくなって、ふふっと声を出して笑った。

「桜様?」

聞き慣れた声に振り向けば、百合がショールを手に立っていた。

「日が陰ってきましたので、お使い下さい」

そういえば、少し肌寒くなってきたかもしれない。

百合がそっと歩み寄り、私の肩に薄桃色のショールを掛ける。

ふと見た彼女の横顔は、今日も綺麗だった。

私とは違い、彼女はまさに百合の花だ。

「ありがとう」

「いえ。・・・あの、桜様」

「なぁに」

「ピアノの調律が、済んでいますけれど・・・」

若干しどろもどろに告げられた言葉に、思わず吹き出した。

「知ってるよ?百合ったら、何日前の話をしてるの」

「何故、お弾きにならないんですか?」

きっとこの質問は、彼女にとって大変差し出がましいものなのだろう。

声のトーンがそれを物語っていた。

「何でって、ん~・・・気分?」

「はぁ。けれど長く放置されたままでは、また音が狂います」

百合の言い分は最もだ。

私だって、何度も弾こうとは思った。

けれど、気が付けば意識は遠のいて、あの日の様に深く暗い所に堕ちている。

ドロドロとした戦慄に苛まれ、戻ってくると、静まりかえった部屋に一人忘れ去られた様にいる。

それにまた不安定になって、ピアノに突っ伏して泣くのだ。何度弾いても、その繰り返し。

流石に疲れてしまった。同時に、絶望もしている。

大好きだった、ピアノが。それを弾く事が。それさえあれば、例え死ぬ間際でも笑っていられると思っていた。

なのに、いま私はアレに触るのも怖い。

そしてそう思ってしまう自分を、何より嫌悪している。

だから、あの部屋のドアを開ける事も出来ずに過ごしていたのだ。

「御姉様から、楽譜が届いていますよ。先月の誕生日のお祝いに」

「へえ」

「弾いてさしあげては?」

百合は、この事を一切知らない。

伝えていないのは、まだ何処かで私は大丈夫だ、と思っているから。

・・・そう、大丈夫。ちょっとボンヤリし過ぎていただけ。

あんなに落ち込んだのは、暗い曲ばかり選んで弾いていたからかもしれない。それがいけなかったんだ。うん腑に落ちる。

「分かった。今から弾いてくる」

「ごゆっくり」



思い切って開いたドアの先は、電気に頼るまでも無く明るかった。

薄いカーテンを通り抜けた午後の日差しが、柔らかく床を照らしている。

それを見て、知らずに上がっていた肩が下りた。

百合がこまめに掃除も換気もしていたのだろう、閉め切られていた様子は無い。

変わらない姿で私を受け入れた空間に、ほっと息を吐く余裕も出来た。

「・・・随分テンポの良い曲を送ってきたわね」

ピアノの前に座って、貰った楽譜を開く。

私も知っている爽快なリズムの曲は、練習用にも今弾くのにも持って来いだと思えた。

少々高レベルだが、それが帰って気分を高揚させる。

幼い少女の様にワクワクとしながら、私は鍵盤に指を伸ばした。

(・・・あれ?)

しかし初めの一小節を奏でた所で、流れてくる音に違和感を感じた。

それは、数週間前と何ら変わらない音だった。

(また、狂ってる)

でもまあ、良いかと構わず弾き続けた。

この前だってイカれた音で弾いたんだから、今だって構う事は無い。

けれど私は、失念していた。

意識が飛んでいたあの時と違い、今は全ての音色が耳に響く。

安定した響きから外れた音の羅列に、次第に気分が悪くなってきた。

そしてそれに便乗する様に、私の中で息を潜めていた何かが、ざわめき始める。

苦しいなら堕ちてこいとでも言うように。

だけど弾くのは止めなかった。

また暗闇に引き込まれたらどうなるか、考えるのも恐ろしい。

だから鍵盤を叩く事で、必死に逃げた。

意識を持って行かれない様に。決して捕まらない様に。


早く、何処かへ行って。

私を解放して。

もういいでしょ?

散々、好きにさせてあげたでしょ?

だから消えて。


胸に巣喰う黒い塊に訴える。

心臓が、メトロノームよりも早く脈を拍つ。


お願いだから、もう・・・もう私の中からいなくなって。

私は・・・まだ、


 ―――――ッ!!


「っあ、」

一際、大きく鳴った一音。それに思わず、硬直する。

ほんの一瞬、意識を逸らしたせいで、指が違う鍵盤を叩いてしまったのだ。

その音は間違いを主張する様に響いて、消えた。


「い、あ・・・あああああぁあッ!!!」

両手で、鍵盤を殴った。

バンッバンッと、不協和音が断続的に鳴り響く。

真新しい楽譜は床にぶちまけられ、古いピアノからは私が体重を乗せた所為で、ギシギシと軋んだ音が聞こえていた。

「もうヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダやだぁッ!!!」

椅子からずり落ちて、床に蹲る。

でもじっとしていられなくて、滅茶苦茶に床を叩いた。叫んだ。


分かってしまった。分かってしまった。

自分がもう駄目だという事。

もうどうにもならないという事。

分かってた。本当はずっと。

大丈夫なんかじゃないんだ。全然。

奪われた。大好きなものを。ずっと大切に、したかったものを。

その気持ちさえ、取り上げられてしまった。

もう手の施し様が無いぐらい、病んでしまったんだ、自分は。

後の行く末は、一つしかない。

「どうしよう・・・どう・・・」

止まない涙が、絨毯を濡らしていく。

折角、百合が掃除してくれたのに・・・。

頭の端でそんなことを思っていると、少し離れた所で、ドアが些か荒々しく開かれた。

「っ!」

駆け寄ってくる足音に顔を上げると、体が後ろに引寄せられる。

次の瞬間、暖かな腕の中にいた。

私は叫ぶのを止めた。同時に、呼吸も止まる。

優しい温もりが、背中を擦る。

「ゆっくりでいいです、息を吐いて」

嗚呼この声は、知っている。

いま一番、出来るなら聞きたくなかった声だ。

百合は自分の胸に私を寄り掛からせると、さっきまで床を殴り付けていた両手を優しく包んでくれた。

多分、痛々しい事になっていたんだろう。

瞳が乾いて、歪んでいた世界が徐々にはっきりとしてくる。

クリアになった視界に映ったのは、私に代わって泣き出しそうな百合の顔だった。

「・・・ごめんなさい、桜様」

小さな声が落とした謝罪の意味を、私はすぐに理解出来なかった。

「気付かなかったんです。ごめんなさい」

私の両手を包む温もりが、微かに震えていた。

「百合?」

「貴女が泣いていたのに、ずっと気付けませんでした」

自分を責める様な百合の言葉に、私はやっと理解する。

違う。誰が見たって、彼女は一つも悪くない。

私が見栄を張っていたから。百合を傷付けたくなくて、何も言わずに黙っていたから。だから今、彼女はこんなにも傷付いている。

何て酷い矛盾だろう。

「ごめんなさい」

「・・・止めて」

そんな顔、しないで。私に見せないで。止めて。辛そうにしないで。

なんでそんな顔が出来るの?

なんで苦しむ事が出来るの?

人間じゃない、貴女に。


私の中で、何かが千切れた。


その日の内に百合の機能設定を弄り、感情回路を全て切り離した。

百合は、抵抗しなかった。

私を拒めば、百合は存在理由を失うから。

それを利用して、全てを受け入れさせた。

彼女はもう知らない。

笑う事も傷付くことも。何も、無い。



そして少しだけ、時が経った。

長閑な5月の終わり。

私はいつかの様に、ひとりテラスから庭を眺めていた。

ちょっと身動きをすると、車椅子の車輪がギィと鳴る。

あの日、崩れた私の身体は、自立する事を完全に忘れた。

食事に制限が付き、処方された薬は逆に量を増した。

癇癪も増えて、陽が沈むと死にたくなる。

前よりずっと、「死」が色濃く見える様になった。

それは離れず、ここにいる。

私の背後に。スタンバイ。


・・・キィ


車椅子の車輪が悲鳴をあげる。

「・・・百合?」

「はい」

そっちを見もせずに、声だけで尋ねる。

返ってくるのは凜とした、とても機械的な声。

振り返って見るのは、姿勢良く佇む一人のメイド。

とても整った、とても硬質な無の表情。これが彼女の本来。

「一時間経ちました。中へ」

時間になったら呼びに来る様言ったのは私。

百合はそれに完璧に従うだけ。

それは回路を絶つ前も同じだった。

けれど前ならば、いま百合の手にはショールが握られていただろう。

『寒いですから。』

そう言って笑うのだろう。

百合は余計な口は一切きかず、車椅子を押して、中へ戻っていく。

ふわりと、紅茶の良い香りが漂ってきた。

そういえば、以前はよく一緒にお茶をした。勿論、遠慮する百合を私が強引に説き伏せて。ご飯もよく一緒に食べたけど、今はどれも一人だ。

もう百合は飲食も出来ない。私が、それを望んだから。

許せなくなっていた。

私に出来なくなっていく事を、百合が当たり前の様に行っているのを。

出来て当然な筈の私に出来ない事を、ただの人形がそつなく熟す事を。

わざわざ設定を弄らなくても、私が一言「するな」と言えば、百合はすんなり従うだろう。でもそれは駄目。

「出来ない」んじゃなくて、「しない」だけだから。

出来るのに、出来ない「ふり」をしてるだけだから。

一緒にピアノを弾いた時と同じ。

それじゃ駄目。そんなウザい真似、もう絶対許さない。

出来ませんと言うなら、私の様に本当に出来なくなれ。お前に出来る事なんて、四肢を動かせるだけでいい。

機械でしょう?人形でしょう?それが貴女の本来在るべき姿でしょう?

私がこいつの顔色を窺う必要が何処にあった。それで両足を失う必要が何処にあった。

無心、という言葉が似合う顔で紅茶を注ぐ百合を見つめる。

それでも気味の悪い程に整った容姿は、とても人工的だった。

それに僅かな安堵を感じて、息を吐く。

その時、胸の奥がツキリと痛んだ。

最近現れ始めた新たな症状。それはいよいよ、病が最終ステージまで進行した事を告げていた。

どく、どく、と強く脈打ち始める心臓を抑え付け、目をきつく閉じる。

近い。死が。

怖い。最期が。

どうする事も出来ない。

どうしようもない。

死ぬんだ、私は。

此処で、一人で。


そこまで考えて、ふと思った。

・・・私が死んだら、百合はどうなるんだろう。

それは簡単に想像出来た。

高価なパートナードールが、使い捨てされる筈は無い。

私が死んでも、すぐ次の引き取り手が付くはずだ。

あるいはリサイクルされ姿形を変えて、また店頭に並べられるのか。当然、私のデータは綺麗に消去されて。

そしてまた、誰かに寄り添って動いていくんだ。何度も何度も、それを繰り返していくんだ。

だって彼女には「死」が無いから。

私が、こんなに怖がっている消滅は、彼女には訪れない。

だって人形だもの。人間じゃないもの。

だから、私はやっぱり、一人で逝くんだ。

百合を一人、独りにして。

「・・・」

胸が、痛んだ。

病魔の仕業?

いえ、違う。


「・・・桜様」

「ッ!」


ガシャンッと、陶器の壊れる音がした。

カップを差し出す百合の手を、私が払いのけた所為だ。

琥珀色の液体が床に撒かれ、絨毯に染み込む。

私は強く拍つ胸を必死に抑えながら、たじろぎもしない百合を睨んだ。

「あんた、なんなの・・・?」

息のあがった声が、震える。

そんな私を見据えながら、百合は事務的に告げた。

「どうか、ご安静に。動悸・息切れの症状が見受けられます。加えて中度の精神不安定が。対処法として、呼吸は止めず、急がず、徐々に脱力して下さい。心拍数が平常に落ち着いたら、液剤を取って参りますので・・・」

「アンタの所為でこうなってんじゃないッ!!」

欠片の感情も無い声色で、さらさらと言葉を綴る百合に、何かが切れた様に叫んだ。

駄目だった。聞いていられなかった。

さもどうでも良い事の様に、私を気遣う百合の言葉を聞きたくなかった。

「私のご奉仕に何処か問題が・・・」

「ねぇ、百合ってパートナー・ドールなんだよね?」

機械の音声を遮り、尋ねる。返事は分かっていた。

「はい私は桜様専用のパートナー・ドールです。怪訝に思われるのでしたら、製造コードをご覧になりますか」

そう言って百合は、自分の首元に手を添える。

その箇所を、私は過去に一度だけ見た。そこには、『P.D』の文字と四桁の数字が印されている。

此奴は人で無いと人に知らしめる印。まるで罪人に押される焼き印の様に見えて、今まで目を逸らしてきた。

それを今、百合は私に見せようとする。

「やめてッ!」

大袈裟なまでに顔を背け、拒絶する。

前の百合だったなら、きっとこんな事しなかった。

私が嫌だと思うものは、言わずとも感づいて、回避してくれただろう。

例え必要に駆られたとしても、私から遠ざけてくれた筈だ。

「・・・機械人形は、主人を含めた全ての人間に、一切の危害を加えない。違うの?」

「いいえその通りです」

心無い振る舞い。

『・・・ずっと、気付けませんでした』

泣いていたあの子は、どこにもいない。知っている、私が自分でやったんだから。

今の百合を欲しがったのは、紛れもなく私自身。

「・・・貴女は、私を殺す」

なのにどうして私は、この百合を拒んでいるの?

どうして無心が嫌なの。どうして心配して欲しいの。どうして心を察して欲しいの。

どうして、彼女の中から消え失せるのが怖いの。

視界が滲んだ。

胸をぎゅっと押さえ込んで深く俯く。拒絶の姿。

「貴女が、私を追い詰めるの」

百合に感情を与えたのは、心の支えにしたかったからだった。

「見てるだけで胸が痛い。目を閉じても見えなくならない。見えると色々考えて、痛い」

普段のすまし顔、薬をサボった事を咎める怒り顔、笑えば必ず返ってくる笑顔。その全てで、私を支えて欲しかった。

「何で私を傷付けられるの?何で私、傷付いてるの?貴女はP.Dじゃない。機械じゃない」

百合から感情だけでなく人間らしさ全てを取り上げたのは、彼女がそれを所持している事に対する今更の違和感と、嫉妬から。

「桜様。私の奉仕に何か問題が」

「貴女が私を殺していくの」

大人しく人形に戻った百合。

なのにそれからずっと、痛いのが、苦しいのが、治らない。

どうしたら前みたいに戻れるの。

百合を気にせず静かに暮らせるの。

あああもう入ってこないで出てって忘れさせて。

知らなきゃ良かった、パートナードールの存在もピアノの弾き方も。

知らなければ私は一生百合を見つけられなかったでしょう。

知らなきゃ良かった。見つけなきゃ良かった。こんなもの、百合なんて・・・

「買うんじゃなかった」

濡れた顔を上げる。

「誰も、自分の中に入れたりするんじゃなかった。一人でさっさと壊れとけば良かったッ!」

百合が何も言わないのを良い事に、子供みたいに泣きながら叫んだ。

「支えて欲しかったけど、もう使えない。貴女がいると疲れるし、辛いし痛いし、惨めになるから。私は、私をこんな風にして欲しかったんじゃない。貴女は使えない」

汚い言葉が流れていく。止められないし、止めたくない。

言ってはいけない言葉なんて無い。どうせ何も思わないんでしょ。

「使えない」

言って悪い言葉なんて無い。

「買わなきゃ良かった」



Pi――――――



低い電子音が、止まらなかった私の言葉を遮った。

予想もしなかった妨害に、一瞬呼吸まで止まる。

「は・・・?」

私は間の抜けた息を吐いて、確実に音の原因であろう目の前の女性を見つめた。

百合は、私を見ていない。

「・・・百合?」

「・・・」

俯き気味に伏せられた瞳に、憂いの色が見えた気がして、ドキリと胸が跳ねた。

コツ、コツ、と硬い靴音を鳴らし、彼女は数歩後ろに下がる。

それに身体が震えた。ショックだった。

これ見よがしに、距離を取られた事が。

けれどそれは合図に過ぎなかった。

私が蓋を開けた、最悪の。

「・・・・」

百合は目を伏せ黙ったまま、ゆっくりと背を折り頭を下げる。

静穏な部屋の中で、時計の秒針が何かをカウントする様に響きだした。

「ご期待に沿う働きが出来ず 申し訳ありませんでした」

「え?なに?」

「長らくのご愛用 大変感謝致します」

「ねぇ、ちょっと!」

「只今 全プログラム及び記憶データ、所有者情報の消去処理を開始しました」

「百合、なにやってんの?」

「機能停止まで 少々 お待ち下さい」

機能停止。

なにそれ。動くのを止めるって事?

二度と、動かなくなるって事?

何それ、まるで死ぬみたい。

「使えない」って、私が百合に言ったから?百合を、拒否したから?

・・・そういえば私、自分で言ってたっけ。

『私を拒めば、百合は存在理由を失う』

それは、私が百合を拒んでも同じ事。

そりゃそうだよ。なんで、気付かなかったの私。

秒針が告げるカウント音。

一秒、二秒、と経つ間に少しずつ、百合は自分を殺していく。

「まって、待って。いや、嘘だよ?さっきの、嘘だよ。いらないなんて、思うわけないじゃん」

床に這い蹲って、遠ざかった百合に縋り付く。

何を今更。お前の所為だろう。身から出た錆だろう。浅ましい。反吐が出る。

罵倒の言葉しか浮かばない。

それでも怖くなった。彼女を亡くす事。違う、1人になる事にだ。

ああどこまで行っても最低ね。

手遅れなのは分かってる。


でも、それでも・・・と、みっともない格好のままで、逝かないでと泣き縋った。

頬をつたう涙が止まらない。

「百合・・・」

(もう何も言ってくれないの?)

心の声は、彼女に聞こえていたのだろうか。

ぱちりと瞬きをした後、百合はわらった。

笑った。

考えもしなかった不意打ちに、思わず息をのむ。

(錯覚。いえ、幻覚)

即座にそう思ったが、どんなに見つめ続けても、目の前の百合が霞となって消える事は無かった。

「自分で、機能を少し弄りました。ごめんなさい」

申し訳なさそうに、百合が言う。

その声が表情が、作り物ではなくなっていて。機械では無くなっていて。泣いた。

無様な私の肩を、百合の細い腕がそっと抱いてくれる。

体温なんて無い筈のそこは、何故か暖かい気がした。

「いまから、勝手に喋ります。桜様に対して失礼で、押し付けがましい事も話します。それでも、どうか聞いていてください」

これで最期なんです。

声に出さず、そう言ったのが分かって、私は咄嗟に数回頷いた。

百合はほっとした風に、優しく笑う。その表情が、酷く心地よかった。

けれどそれも一瞬で消える。

「桜様・・・ピアノ、また弾いてくれませんか?」

ぴあの・・・。

もう忘れかけていた、かつての私の安定剤。

何でアレの事を?

非難を浮かべた私を、百合は視線でそっと宥めた。

「突拍子もなく、御免なさい。

でも私、好きなんです。桜様のが、一番」

その瞳は、私を通して何処か遠くを見ている様だった。懐かしむ様に、寂しがるように。

「新品だった頃から、色々な方々が私にピアノを聴かせてくれました。・・・正直、桜様はその中で一番低レベルです。

でも、一度聴いたら忘れられなかった。意図して憶えようとしたわけじゃなかったのに。貴女以外の人の音なんて、私はどれも忘れてしまったのに。

貴女のだけは今でも思い出せる。不思議ですね」

「印象的なぐらい、下手なんだ?」

ふわふわ 笑いながら話す百合につられてか、いつの間にか私は苦笑を浮かべて言い返していた。

それに対してちょっと困った様に、百合は首を横に振る。

「最初は、なんて安定感が無いんだろうって思いました。ご機嫌次第で、音色がコロコロ変わるから。聴いていると変な気分で。

でも、音色と一緒に届くその感情の波が、いつも私に桜様の心境を知らせてくれていた。

それが私にはとても不思議で、救いになりました。」

「音感・・・凄いもんね」

言葉を使わなくとも、胸の内を理解し接してくれた。

そんな彼女に、思い返せばどれだけ甘えていた事だろう。

包み込んでくれていた百合の手が、撫でる様にして私の手から離れていった。

「凄くなんてないのです。だって」

微笑んでいるのに無邪気な声なのに、瞳が潤んだみたいに揺れていた。

それを取り繕う様に、何でもない風に。

「私、本当は廃棄予定の欠落品だったのです」

綺麗に笑って、そんな事を。

「嘘」

ほろっと零れた一言には、欠片の動揺も含まなかった。

だって実際嘘でしょう。有り得ないでしょう。

「私は、嘘がつけません」

知ってる。分かってるけど。

「おかしいと思いませんでしたか?生活サポートと娯楽の為に作られるパートナードールなのに、私は大した力がなさすぎる」

そう言われて片手で数えられる程しか聴いた事のない、百合の音色を思い出す。

私よりは上手い。でもそれだけだ。確かに、大した事ない。今まで、そんなの気にもしなかったけど。

けど、じゃあ百合はどうしてここにいる?

「運が良かったんです。手違いで出荷品の中に入れられて。外見に欠落が無かったお陰で、気付かれずに店頭に並べられました」

そして、私に目を付けられた。

察するに、百合の欠陥とは、つまり性能不備だ。

備わっていなければならない能力が不十分で、不完全だという事。

そんなの、一度も気付かなかった。

「いつか気付かれたら、と思うと恐怖しかありませんでした。この温い場所に置いていて欲しかった。桜様とお話している時、一緒にピアノを弾いた時、いつもそう思っていました」

あの頃の情景が甦る。

私が暗い気持ちを抱えていた時も、彼女は純粋に私といる事を望んでくれていた?

「本当なら私がリードして弾かなきゃいけなかったのに、余所見して桜様の音ばかり聞いてました。だからすぐ釣られて、一緒に間違えてばかりで」

「あれ、わざとじゃなかったの?」

故意にだと思っていた。私に劣等感を抱かせない為の。

「そんな事、出来ませんでした。変ですよね。欠陥品だけど私、パートナードールなのに」

そう言って掌をジッと見詰める。その身体からは、時折ギシリと軋む音が聞こえていた。

「だから、また弾いてくれませんか?」

私は閉口した。例え百合の言うとおりにしても、きっと続けられないに決まってる。

だって、そこに百合はもういない。上手く弾けなくて不貞腐れても、もう宥めてくれない。

私は馬鹿だけど、さっきから気が付いてるよ。機能停止の為の処理作業、本当はもうとっくに 終わってるんでしょ? 後は所有者情報のリセットと、起動停止だけなんでしょ?

百合は、さっきからずっとそれを拒否してる。システムに逆らい続ける事がどんなに辛いか、私には分かってあげられないけど。

膝に投げ出した自分の掌を、見つめた。こんな固まった指で、鍵盤が叩けるわけない。

「駄目だよ、もう駄目、無理だよ」

「桜様」

「分かるでしょ。プティの卵は、もう無いの」

小さい頃に教わった、大事なもの。百合が信じると言った、絵空事。

本当はとっくの昔に無くしていたに違いない。持ってる様なふりを、ずっとしてただけ。壊れてしまった今では自覚出来る。

だからただ、首を横に振った。

百合の最後のお願いなのに、拒否しか出来ないなんて。

自己嫌悪に走りかけた時、上体を支えていた私の両腕が、前へ引っ張られた。

「あっ」

軽くだったから倒れずにすんだものの、急なことに犯人である百合に非難の目を投げる。

「なにするの」

彼女は相変わらず笑みを称え、私の掌を覆うように包んだ。

丁度何かを手渡すみたいな、そんな仕草。

「ずーっとね、不思議に思ってたんだ。

貴女のピアノだけに異常に反応する、自分の感情回路が。全機能に欠落のある自分が、『大好き』って思えたのが。全然信じてなかったけど、魔法みたいって思ったりして。

桜様がプティの卵を教えてくれた時、『あ、これだ』と思った。卵の中の、薬の効果。だから桜様は、あんな素敵に弾けるのねって。だから貴女のピアノ、こんな私でも、大好きになれたのねって。

そう思ったら、全部納得できた。だから、目に見えない物でも、信じられた」

心から幸せそうに語る百合とは逆に、私は呆然としているしかなかった。

百合の砕けた口調を、初めて聞いた。

私も不思議に思っていた百合の心境を、初めて知った。

何より・・・涙を流すこの子を初めて見た。

恐らく、システムが限界を超えて誤作動を起こしたんだろう。

2つの瞳から、涙を模した液体が絶え間なく流れていく。

「無いんだったら、私の、あげる」

そう言ってまた、私と掌を重ねた。

「大した事なくてもピアノが弾けるんですもの。私だって持ってる筈よ」

綺麗だった百合の声は、途中から酷く掠れて、ノイズが混じり出していた。

そして、全身がカタカタと音をたてながら震え始める。

それでも、百合は笑っていた。

「だから、大丈夫  ね」

「ゆり」

あっと思う暇もなく、百合の体が横に傾いた。

必然的に、重ねていた手が私から離れていく。

絨毯の上に頭が落ちると、「ゴツッ」と固い音がたった。

それきり動くのを止めた人形。さっきまでの笑顔も心地よさも、何もかも一瞬で消し去って、彼女は逝った。

強制終了されたパートナー・ドールは、二度と再起動出来ない。まして百合は廃棄予定だった欠陥品だ。リサイクルもされず、全ての部品はバラされて、捨てられる。

それは彼女達ドールにとって、間違いなく「死」だった。

「百合」

花の名を呼ぶ。返事は、無い。もう、いない。

それを理解するまで、私はどれだけの時間を要したのだろう。

徐々に胸に満ちる虚無感が、私は1人になったのだと教えていた。

部屋の中に、夕闇が堕ちてくる。けどそんなの、もう私には何の害も及ぼさなかった。

彼女の存在が私にとってどんなに大きかったのか、今漸く思い知った。

いつの間にか滲んだ視界を、雑に拭う。その手にまだ残る温み。

私は床に両腕をついた。動かない足に代わり、重い身体を引きずり進む。

いかなくては。あの子の、お願いなんだから。



床を這いずり向かったのは、懐かしささえ覚えるピアノの元。

百合の配慮で、ドアは全て開け放たれているから、部屋へは難なく入る事が出来る。

息を切らしながら、手の届く距離まで近付くと、黒光るそれは、冷たく私を見下ろしている様に思えた。

「・・・久しぶり」

苦く笑って、手を伸ばす。

酷使した腕は痺れと痛みを訴えていたけれど、絶えて何とか椅子に腰掛けた。

蓋を開いて、試しに一音。


―――♪


狂ってない、優しい音がした。

(百合、調整してくれてたの?)

きっとそう。いつ、私が此処に戻ってもいいようにって。自然に、笑みが零れた。

両手を鍵盤に添える。

力を抜いて、柔らかく、ふわり。プティの卵を、包み込んで。

鍵盤を、叩く。




不協和音が響いた。




「ふふ、ふふ・・・っうぇ」

音の余韻に混じる、気味の悪い泣き笑い声。

殴るように叩いた鍵盤の上で、プティの卵は完全に握りつぶされていた。

「百合やっぱり、無理だわ」

最期のお願いだから聞いてあげたかった。

けど此処には、貴女がいない。

私を察してくれた耳が無い。私を褒めてくれた声が無い。

だから、私がピアノを弾く意味が無い。

そうでしょう?私はずっと、貴女に助けてもらいたくて、ピアノを弾いてたんだわ。

『私は今ね、こんなに悲しいの。こんなに楽しいの。

だから傍にいて慰めて。一緒に笑って』

そんな事を思いながら、いつもピアノを弾いてたんだわ。

今更自分以外の為に弾くなんて、出来なくて当たり前。

「上達しないのも、当然ね」

気付いてしまったら、何故だか笑顔が浮かんできた。

百合と違って、さぞ醜い顔になっているんだろうなと思うと、更に笑えた。

「ほんっと、屑」

分かっていたけれど、私に出来る事なんて何も無い。百合がいないと、全部駄目。

自分が今どんな気持ちなのかも、全然分からない。百合がいないと、分からない。

貴女の存在は、こんなに大きかった。

今になって思い知ったよ。馬鹿みたいだね。ああ、世界が暗い。

泣き疲れたのかな?何だか寝ちゃいそう。

たゆたう意識が誘うまま、私は目蓋を閉じた。



最後に。

あのね百合、聞けるなら聞いてくれる?

貴女は私のピアノが大好きだと言ってくれたけど、私は貴女の事が大好きだったの。本当だよ。

貴女を酷く傷付けてしまった時はまだ、自覚してなかったけど。

私のプティの卵は貴女だわ。

ピアノは上手になれないけど、私に生きようと思わせてくれた。大事な卵。

そんな貴女を、私は沢山潰してしまった。

酷い言葉を向けて、最後の一個までも。

貴女を亡くした今の私には、生きる意味さえ見付からない。

だから、ごめんなさい。

貴女から譲られたプティの卵さえ、私は壊してしまいました。

貴女が聴きたがった演奏も、もう二度と出来ないでしょう。

ごめんなさい。

でもこんな私を、貴女はきっと嫌わないし、見捨てない。

そう思うと苦しくて、・・・とっても嬉しい。

♪♪♪


百合が先に逝った所にも、ピアノはあるのかな。

あったらいいな。そしたら、百合の願いを今度こそ叶えてあげられるもの。


ああ何だか凄く気分が良い。

全身の感覚が少しも無いのに。

これって、嗚呼やっぱりそうね。

百合。


きっと、これから会えるんだよ。



(今度は、ちゃんと一緒に弾きたいな)



END



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