3-1 海辺の悪夢
弾丸は炎邪の体毛部に当たり、ダメージは与えられていないようだ。しかし、顔に当たった何発かが相手を怯ませた。
『――――――――――――――――――――――――――――――――!』
振り回される大木のような炎邪の尻尾。しかし、闇雲な攻撃なのか狙いは甘い。機体を少し後退させるだけで回避できた。
再び前進させるために、甲斐は単純な直進ではなく、両足のローラーをそれぞれ逆回転し、超信地旋回を行いつつ、頭上から見れば半円を描きながら懐に飛び込む。とあるドイツの操縦士が編み出したこの機動は“ブリッツ”と呼ばれ、数あるSV機動技法の中でも、甲斐の最も得意とするものだった。
“ブリッツ”は単純な後退前進の機動の何倍も速く敵に接近する事ができ、さらに相手から見れば、視界から急に消えて、突如横から、しかも間近に現れる事から奇襲にもなりやすい。甲斐が学内の模擬戦で同じ“ラストライン”の信二を抑え一位の座にいるのも、この技を極めたところによるのが大きかった。
機動の途中、ライフルを投げ捨て、“スイジン”は姿勢を低くし、炎邪の頭部の真下に位置取った。
“Cナイフ”をフルパワーに設定。いつも以上に耳をつんざく刃の回転音。
「モーターが焼き切れたって構うものか!」
息を吐き、腹筋を締める。機体に膝を折らせた後、飛び上がるように炎邪の顔の下からナイフを突き刺した。その場所は丁度、体毛の境目だった。
『――――――――――――――――――――――――――――――――!』
飛び出す赤い液体。刃の振動とは違う、痙攣にも似た炎邪の動きによる手元の揺れ。
その両方を押さえつけるように甲斐は操縦桿を強く握り締めた。
どれぐらいの時間そうしていたのか。
気付けば、炎邪はその四肢を地面に投げ出し、ピクリとも動かなくなっていた。
「……やったのか?」
額の汗を拭う。目の前のモニターには、頭を“Cナイフ”で貫かれ、生気を失った炎邪の姿があった。
「やった……んだ」
“Cナイフ”を引き抜くと、炎邪の頭は力なく砂浜に落ちていった。
動く様子はない。
甲斐は深呼吸して、操縦桿から両手を放し、グッと拳を握った。
小さく喜んでいた。その時だった。
『三番機! 後ろだ!』
発令所からと思われる通信での呼びかけに従い、後ろを振り返る。
「なっ!?」
そこにいたのは、炎邪だった。
竜、のようだった。後脚は短く、前足は長い。相貌は口元がとがっており、力強そうだ。
そんな炎邪が、思いっきり体当たりを行ってきた。
『――――――――――――――――――――――――――――――――!』
旋回しつつ、後退しようとした“スイジン”の側面に巨体が激突した。甲斐の“スイジン”は宙を飛び、そして砂浜を巻き上げながら地面に叩き付けられた。
コックピットが縦横無尽に揺れる。安全装置が働いて頭部が操縦席に固定され、衝撃を体全体に広げる。それでも、意識が何度も吹っ飛びそうになった。
「っ! なんで、ここに炎邪が」
頭の意識が乱雑している。体の節々も痛み、自由も利かない。それでも甲斐は、状況を確認するために体を起こす。
今になって気付いたが、モニターに映るのは数多くの味方のロストのマーク。彼方に見えるのはスクラップになった戦車と“スイジン”達から立ち上る黒煙だった。
「中央がやられたのか!?」
その思考は遮断した。炎邪の再度の突進があったからだ。
甲斐は“スイジン”頭部の二○ミリ機関砲二門を発砲させながら、機体を立ち上がらせようとする。しかし、
「間に合わないかっ!」
機関砲は体毛に阻まれ、炎邪の前進を緩める事も出来なかった。
立ち上がる前に、炎邪の両手に掴まれて引きずられる。そして、堤防に背部から押し付けられた。
再度の衝撃。
続けて機体の振動。断続的に続く。炎邪に両腕で機体を殴られているのだ。
「まずいっ!」
こちらも両腕を伸ばし炎邪の体を遠ざけようとする。しかし、態勢的な不利もあって押し返せない。
モニターには炎邪の口が一杯に広がった。
血の気が引く。狙いは、きっと胸部だ。
奴らは、知っているのだ。鋼鉄の巨人のどこに人間がいるのかを。
両腕は抑えられている。機体は動かない。機関砲は、炎邪が射線から外れているため使えない。
炎邪の口が、更に大きく広がった。
死ぬ。
あの顎の強度を、二度も見てきた。きっと自分もああやって易々と噛み砕かれる。
こんなところで死ぬ。
誰も守れぬまま。
何も果たせぬまま。
顔が頭の中によぎる顔は文子、桜子、そして、
その時、何かが飛来した。
『――――――――――――――――――――――――――――――――!』
噛み砕くために開かれた口は絶叫のために使われた。そのまま炎邪は巨体を揺らしながら後ずさる。
一拍後、甲斐の“スイジン”の装甲に何かが当たり、地面に落ちた。
見ると、それは炎邪の黒い腕だった。
前に視線を移すと、砂浜に突き刺さっていたのは全長五メートルはありそうな赤い刀身の日本刀だった。
(あれが、炎邪の腕を切ったのか!?)
体毛に阻まれた炎邪の腕を切断するのは“Cナイフ”のフルパワーでも手間である。それをあの刀はあっさりと、しかも投擲で切り裂いたのだ。並みの切れ味ではない。
しばし、呆然とその刀を眺めていると。
『なんだ、あの機体は?』
モニターからの南雲司令の声。甲斐は、その声でハッと意識を取り戻し、刀が飛来した先を見た。
「赤い、SV?」
そこにいたのはSVだった。“スイジン”以上に絞られたフォルム。鬼の角のように頭部から突き出したアンテナ。ゴーグル状のセンサー。装甲は赤く、書き込まれている模様はどこか日本鎧を想像させた。
突如現れた赤いSVは、腰を屈め跳躍。高い。自身の全長の二倍以上は軽く飛んでいる。
SVとは、基本脚部ローラーを活用した二次元運動が基本である。もちろん、多少の悪路でも走破できるよう跳躍可能なように作られているが、それでもせいぜい腰部までで、跳躍後の故障などを考慮しないのであっても、SVの全長までが限界である。しかも、その跳躍方法も一時停止をして両足を屈めて飛ぶという人間で言えば無骨な立ち幅跳びのようなやり方で、あのように流動的な動作ではない。
(すごい、まるで……)
鳥? 妖精? 天使? そのどれも当てはまらない気がした。ただ純粋にその動作は美しいと感じた。
赤いSVは、そんな甲斐と炎邪の間に降り立ち、砂浜に噴煙を巻き上げる。そして、地面に突き刺さっていた刀を引き抜いた。
『――――――――――――――――――――――――――――――――!』
咆哮。炎邪は腕を切り取られた恨みをぶつけるように残った片腕を振り上げ、敵を無残に噛み砕かんと牙をむき出しにして、赤いSVに襲い掛かる。
赤いSVは刀を構えた。
接触する瞬間。赤いSVが動き、直後に勝負は終わっていた。
SVは半身になって炎邪の突進をかわす。そして、炎邪はしばし走ってその場で止まり、遅れて首が滑るように落ちた。
首元から、血液が噴水のように飛び出し、炎邪は砂浜に倒れ落ちた。
「あいつ……」
難無く倒した。通常三体のSVでようやく倒せる炎邪をたったの一体で。
刀の構えからの、動作を極限まで減らした振り下ろし。無駄が無く、それでいて威力も申し分ない。本来であればそのような動作を行えるSVの性能に注目する人物の方が多いかもしれないが、甲斐は中の操縦士のその戦闘の練度にこそ心を奪われていた。
SVは緩やかなに、こちらを正面に見据えた。
甲斐はお礼を述べようと、外部スピーカーのスイッチに手を伸ばす。
しかし、その赤いSVは刀を構えると、突如、甲斐の“スイジン”に襲いかかってきた。
「なっ!?」
甲斐はとっさに機体を立ち上げて、先ほどとは違う“Cナイフ”を兵装ラックから引き抜いて防ぐ。一合、二合、三合、先ほどの光景を思い浮かべて“Cナイフ”が寸断されるのではと考えたが、十分打ち合えた。
(別に特別に強い武器ってわけじゃないのか!?)
しかし、問題は武器ではない。
決定的なのは近接の運動性である。刀を振るう際の細かな腕の動きや機体の柔軟性などが、赤いSVと“スイジン”では比較にならない。
相手は攻撃や防御の際に、まるで生身の人間の打ち合いのように最小限の動きを行えばよいが、“スイジン”は機体の可動域が赤いSVと比較すると限定されているため、相手と同じ最小限の動きというのができない。そのため同じ速さで反応しても、動作が遅れてしまうのだ。
今の段階では何とか対抗できているが、長くは保たない。
「南雲司令! こいつに止めるように言って下さい!」
『そいつはわが軍のSVじゃない! 呼びかけているが返答も無い!』
「そんなっ! 味方じゃないんですか!?」
『構わん真田君! 逃げろ! 炎邪は全滅した! もう無理に戦う必要はない!』
「とは言っても!」
撤退できるのならばとうの昔にしている。
甲斐は破れかぶれな気分で、頭部の機関砲を放つ。
炎邪ならともかく、SVであれば一応のダメージは与えられる。それを嫌がってか後退する赤いSV。
しかし、それは後退では無かった。下がると見せかけて、赤いSVは身を屈め、“スイジン”頭部からの機関砲の掃射を掻い潜るように躱す。
「!」
背筋が凍る感覚。とっさに無意識に甲斐は“スイジン”の両腕でコックピットの胸部を守る。
「……嘘、だろ?」
振動があり、結果として“スイジン”の両腕は、重たい音を立てて甲斐の遥か後方に落ちた。
何をされたのかはすぐに理解できた。身を屈めた赤いSVは甲斐の懐に回転しながら飛び込み、そして下から“垂直気味”に蹴りを放ったのだ。
機体損傷。
戦闘不能。
撤退推奨。
赤い文字でモニターに浮かび上がる文字と、鳴り響く警報ブザー。
それでも、甲斐は目の前の赤いSVから目を離せなかった。
「この技。お前――」
言葉は最後まで続かなかった。赤いSVが助走をつけて体当たりをしてきたからだ。両腕を無くした“スイジン”にそれを防ぐ術など無かった。
再び吹っ飛ばされて地面に叩き付けられる“スイジン”。
コックピット周りの衝撃吸収機構は問題なく動いたはずだが、マンションの二階くらいから放り投げられたんじゃないかと錯覚するような体の痛みと、脳の痺れがあった。
その隙に、赤いSVは飛び上がって“スイジン”の上へと着地する。
鋼鉄の装甲同士が激突する音と、機体の揺れ。
白い靄がかかりかけている頭を振り払い、前を見据えると、逆手に構えられたあの赤い刀が甲斐に――コックピットに向けられている所だった。
「お、おい。馬鹿。やめろ……」
殺気がある。完全にこちらを殺す気だ。
「俺だぞ! 甲斐だ! 真田甲斐だぞ!?」
振り下ろされる刀。甲斐は微動だすらできなかった。
『甲斐!』
横から飛び込んでくる銃弾に、赤いSVは跳躍して避けた。
『無事か!?』
脚部ローラーをフル回転させて、甲斐を庇うように立ちふさがった“スイジン”。
『どうなんだ甲斐! 無事なら返事をしろ!』
聞き慣れた声。甲斐は安堵の声を出す。
「信二か? お前、生きてたのか」
『なんとかな。それより、なんだこいつは』
赤いSVは、向かってくるかと思いきや、その場で再び跳躍、甲斐たちを飛び越えて向かい側に着地した。
『こいつ!』
信二の“スイジン”がその赤いSVに弾丸を撃ち出す。しかし、赤いSVは着地後に細やかな跳躍を繰り返して信二の射線を外して距離を取ると、一目散に逃げて離れていき山の狭間に消えていった。
「ま、待て!」
甲斐は両腕の無い“スイジン”を、起き上がらせて後を追おうとするが、
『おい! 炎邪以外は今は放っておけ!』
と信二の“スイジン”に進路を遮られてしまった。
「違うんだ信二、あいつは……」
『何だ、なんか心当たりでもあるのか?』
問われて、甲斐は答える事が出来なかった。
「いや、そうじゃない……」
なぜか、そんな言葉が口から出てしまう。
『なら戻ろうぜ、甲斐。中からではわからんかもしれんが、お前の“スイジン”は腕から黒煙は出てるわ、スパークしてるわで酷い状態だぞ』
言われて、今になってモニターが赤い警告の文字で埋め尽くされている事に気付いた。
「……ああ」
それに、甲斐の体も色々と限界だった。
○●○
SVについては専用のトラックが迎えに来てくれたので、それ以上移動する必要は無かった。最後の力を振り絞りトラックに“スイジン”を固定させると、タラップを持った軍人が近寄ってくるのが見えた。
甲斐はコックピットのハッチを開こうとして、手前のパネルに伸ばした指を止めた。
“ラストライン”のメンバーの生死が確認できる、味方機の認証一覧データ。それが、三番機と四番機以外はすべて灰色になっていた。つまりは撃墜されていたのだ。
「……」
発令所に問い合わせて、メンバーの生死を確認する気は起きなかった。
ハッチの開閉を行う。空気が漏れるような音がしたあと、冷たい風が流れ込んできて甲斐の体を冷やしてくれた。
更に、何か軽いものが甲斐の体に降り注いでくる。
「雪?」
戦闘中からなのか分からないが雪が降っていた。どうりで風も冷たいはずである。
甲斐は操縦席から立ち上がろうとするが腰が浮かない。力が入らないのだ。
どうすることもできず、その場でボーっとしていると、外から手が差し伸べられた。甲斐はそれを掴んだ。細い手だったが、その手は力強く甲斐を外に引き上げてくれた。
「ありがとうございます……」
コクピット付近の装甲に立ったところで、甲斐は眩暈がして足元がフラつき、目の前の持ち上げてくれた人物に寄りかかってしまった。
「すみません。失礼しました」
すぐに離れようとしたが、背中に回された腕に力を入れられたため、身動きが取れなかった。
今の甲斐の力ではそれを振り払う事ができない。
「あの……」
「いいのよ」
体が近すぎて顔は確認できないが、その声を聞き間違えるわけはなかった。
「その声、文子さん?」
「心配したわ。本当に、よく生きて帰ってきてくれたわね」
泣いているのか、そんな震える言葉を耳元で囁かれると同時に、更に強く抱きしめられた。
甲斐は、なんだか安心して、体を遠慮なく文子に預けた。
「なんだかよく分からないです。なんで文子さんがこんなところにいるのかもそうですし、そういえば文子さんに伝えなきゃいけない事もあったような気がします」
「そんなのは、思い出した時でいいじゃない」
「すみません。俺、汗でびっしょりなんです。服が汚れてしまいますよ」
「甲斐ちゃんの汗でしょ。汚くないわ。それとも私とこうしてるの、嫌?」
「そんなわけないですよ。すごく、落ち着きます。このまま、寝てしまいたい……」
「寝てしまいなさい。後は私が面倒を見てあげるから」
限界だった。すでに緊張から解放された反動か、意識も朦朧としているのだ。甲斐は体の求める休息への要望に身を預ける事にした。
「ありがとう、ございます……」
甲斐の体から力が抜ける。
男一人の重みにはさすがに耐えられず、文子は腰を落とし、その場に座り込んだ。
傍の黒い服の男達が、二人に駆け寄ろうとするが、それを文子が手で制した。
「もう少し、このままにさせて頂戴」
懇願する文子に対し男たちは、頭を下げて元の位置に戻っていった。
「ごめんなさいね。辛かったわね。だからせめて今だけはゆっくり休んで。私の甲斐ちゃん……」
文子は愛おしそうに、甲斐の頭をなでる。
雪は戦場の熱を冷めるように、いつまでも振り続けた。
《戦闘結果》
一番機~二番機、五番機~一○番機大破。操縦士八名死亡。
三番機は炎邪一体撃退後、突如現れた未確認SVと戦闘、中破。操縦士は意識を失うものの軽傷。
四番機は中央にて一体の炎邪撃退後、北の“スイジン”部隊の全滅に伴い北上。北に上陸した炎邪を撃破し、その後南下して三番機と共に未確認のSVと交戦するも撃墜、捕獲に至らず。機体の損傷は軽微。操縦士も無傷。
○●○
歳が七つになって間もない頃。両親と出かけた最後の旅行の時。
唐突にそれは起きた。
行き先はホッカイドウだった気がする。正直に言えば内容はあまり覚えていない。ただ、帰りの空港での出来事は今でも鮮明に思い出せる。
空港に到着する直前、巨人の手に捕まれたかのように飛行機が大きく揺れた。
阿鼻叫喚の残響が微かにでも記憶に残っているということは、機体が滑走路に落ちたところまでは意識があったのだろう。しかし、次に目を覚ますと、周囲を囲む炎と、一メートル程の穴に半身を投げ出している自分、そして、その穴の底で横たわっている黒い長髪の少女の姿だけがあった。
目と目が合う。
少女の唇が動いた。
タスケテ、と聞こえた気がした。
少年――真田甲斐は、使命感にも似たものに突き動かされて声を出す。
「待ってろ! すぐに助ける!」
体を乗り出し、甲斐は腕を伸ばした。
通路に空いた穴。おそらく飛行機の倉庫の空間に落ちた床が、何かしらの原因でぶら下がっている状態なのだろう。その証拠に、少女の背中にある床は小さくではあるが振り子のようにユラユラと揺れている。
僅かに見える隙間から、少女の横たわっている床は下の地面からかなり高い位置だというのが分かる。マンションの三階ぐらいの高さだろうか。何かのはずみで床ごと落ちれば、大怪我では済まないだろう。
「早く、手を……」
しかし、甲斐が手を伸ばしても、少女はただ甲斐を見つめるだけで動こうとはしなかった。怪我をしているのか、いや、むしろ意識を保っているのかも疑わしい。口は締まりが無く半開き。目も、甲斐ではなく、どこかあての無い空間を見つめているようだ。
「頑張れよ! こっちに手を伸ばせ!」
体の伸びと比例して激痛が走る。
甲斐も決して五体満足ではないのだ。おそらく折れているのだろう、右足の感覚がない。周りに火が回っているせいか息も苦しい。頭も強く打っているらしく、それを訴えるかのように血が瞼に滴り落ちてくる。
気を抜けば意識が遠くなる。それでも目の前の少女を視界に収めている限りは、いくらでも声を絞り出せる気がした。
「助けてやる! だから、こっちに手を!」
「……」
少女は、ピクリと体を小さく震わせた後、求めに応じてゆっくりではあるがようやくこちらに手を伸ばしてきた。
甲斐はその手を急いで掴む。握り返しは無い。それほどまでに少女は衰弱しているのか。
「よしっ!」
しかし、それで十分だった。
武道家の家に生まれた甲斐は、厳しい父の下で激しい修練に明け暮れており、同じ年代の男の中でも甲斐に敵う者など誰もいない程の膂力を手に入れていた。そんな甲斐が、自分より小柄な少女を穴から救い出す。それほど難しい事ではない。
腕に力を込める。
ところが、少女の体はピクリとも動かない。
「そん、な……」
愕然とした。
現実に返る。墜落のショックで混乱していた頭が正常に回転を始め、今の自分がどういう状況だったかを思い出す。
修練に明け暮れ、年齢に見合わない力が発揮できたのは過去の話だ。
一年半前。甲斐は病魔に侵され、身体能力を著しく減退させていた。
幸運にも成功率三○%と言われていた困難な手術は成功し、その病気は半年前に完治させる事ができたものの、それ以降、稽古に厳しかった両親への反発から、甲斐は鍛錬の一切を拒否するようになった。両親も病気の前は厳しかったが、そんな経験をした自分の子供に、無理に稽古を再開させようなどとは考えなかった。
改めて、恐る恐る自分の腕に目を凝らしてみると、鍛えられていたはずの腕は、まるでもやしのように細く、青白かった。
一年半前なら難無くできた。いや、一年半前でなくても、病気を完治させてから両親の言う事をきいてすぐに稽古を再開していれば、少なくとも少女をこの底から救い出す事はできたはず。
「ち、ちくしょう……ちくしょう!」
重い。
何度も腕に力を入れる。しかし、自分より小柄な少女の体は、甲斐の動きに沿ってガタガタと揺れるだけだった。
少女の僅かだった力が抜けていく。瞼がゆっくりと重なろうとする。その様子は、まるで眠りに入る赤ん坊のようでもあった。
「諦めるな!」
強気の発言とは逆に、どんなに力を入れても自分の腕は惨めに、情けない軋みと悲鳴をあげるだけだった。
やがて、少女の手は甲斐の指から零れ落ちた。
「しまっ――!」
再び手を伸ばしたところで、甲斐の体は何者かに背後から引き寄せられた。
びっくりして振り返ると、体を防護服を覆う男がいた。レスキュー隊だ。
「大丈夫か!? 怖かっただろう。もう安心だぞ。すぐに外に出してやるからな!」
抱きかかえられた男の、強化プラスチック製マスクの向こうに見える表情が、心底安堵しているのが印象的だった。
甲斐は慌てて言った。
「待って。僕だけじゃないんだ!」
「なに、まだ生存者がいるのか?」
男は小さく辺りを見渡す。傍にはもう一人、同じ格好をした男がいた。
「退避命令はすでに出ていますが、三〇秒だけ下さい。自分が捜索します。あなたは、一足先に」
「しかし……」
「場所なら、そこの穴にいるんだよ――」
男に告げて、指し示すと同時に、その穴に向けて岩石とも形容できる機内天井の一部が崩れ落ちた。
「なっ……」
塊は見えない穴の向こうで、ごうんと大きな音を立てる。そして小さい破片がパラパラと落ちていく軽い音がしばらく響いた。
甲斐は言葉を失った。そうこうしている間にも、機内の炎を激しさを増してゆく。
「……」
男たちは無言で視線を交わす。一人が首を横に振ると、二人は一斉に反対方向に走り出した。
「何してるんだよ!?」
甲斐は、手で男の防護服を力いっぱい揺らす。
「あそこに人がっ! 女の子がいたんだ! 頼むよ、僕より小さいんだ」
「……」
二人は無言で走り続ける。甲斐を抱きかかえる腕の力が強くなった。
「な、何でだよ!? いるって言ってるだろ! あそこに女の子がいるって言ってんだよ! 助けろよぉぉぉ!」
男達は、口を真一文字にしたまま、二度と開かなかった。