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1-3 最初で最後の機会

 スーパーで、茄子を中心に晩御飯用の買物を終わらせた後、甲斐と響子は早足で霧島家に帰宅した。

 甲斐にとっては自分の家と同じぐらい往来し慣れた玄関である。今更、お邪魔しますも無いので、無言で家の中に入ろうとしたが、

「ただいま」

 と響子が呟いたので、甲斐も、一応文子が帰っていないかを確認する意味で、「ただいま」と呟いた。

 家の中からは何の反応も無かった。やはり今日も生徒会と会社で帰りは遅いのだろう。

 そのまま響子と別れて台所に向かい、買ってきた食材を冷蔵庫に入れてから、自身の部屋として割り当てられているに等しい霧島家の一室で胴着に着替える。

「寒っ……」

 裸足の冷たさを感じながら板製の渡り廊下を通ると、道場の入口ではすでに胴着姿の響子が掃除を始めていた。

 稽古は週三回行われており、内二回の平日稽古は近所の子供たちの指導に当てられている。霧島道場には大人の練習生もおり、甲斐や響子よりも段位が上の人もいるのだが、平日稽古は一八時開始であり、仕事を持っている大人はほとんど参加できない。というより平日の指導はほとんど甲斐と響子だけで行う事が多い。

 ちなみに時間が作れそうで、かつ指導ができそうな、高校生、大学生ぐらいの弟子は大抵霧島三姉妹の内の誰かに色目を使い、今は亡き霧島師範、つまり響子達の父親に大恩があるという大人の弟子達にすでに駆逐されていた。

「みんな遅いな」

 甲斐は、道場隅に置かれたバケツと雑巾を手に取りながら壁の時計を見る。時刻は一七時半。すでに子供たちが集まっていてもおかしくないのだが。

「ああ、今日は誰も来ないからな」

「そうなのか、誰も来ないのか」

 響子の言葉に興味薄く応じて、庭に降り水道からバケツに水をいれて道場に戻る。

 秋の水の冷たさに、体を震わせながら雑巾を絞り、日課の畳拭きを行おうとして、

「って、はぁぁぁ!?」

 と響子に向き直って、甲斐は素っ頓狂な声をあげた。

 当の響子は、道場の壁などを雑巾で拭きながら、

「中学生は修学旅行だし、小学校は風邪が流行ってて学級閉鎖だっていうから中止にした。こういう時は、きっちり中止とかにしないとウチのガキ共は具合が悪くても稽古に来ちゃうからな」

「なんだそりゃ? 俺は聞いてないぞ!?」

「言わなかったから」

「言えよ!」

 責めるように言っても、響子は平然と掃除を続けていた。

 いくら嫌々やらされているとしても、他人の子供を預かって空手を教える以上、稽古の内容を検討するなど、それなりに時間を割いて準備をしてからこの場に来ているのである。

 それなのにこんな風に言われるとまず怒りが湧いてくるが、悪びれる様子なく黙々と掃除を続けている響子を見ていると、その怒りは突き抜けて呆れへと変わってしまった。

「はぁ……、じゃあ。飯作って俺はさっさと帰らせてもらうぞ」

 所詮自分は頭数合わせのために協力させられている身。響子からしてみればそんな奴にいちいち中止だの実施だの連絡などする必要など無く、日課の道場の掃除だけでもやらせればよいということだろう。

 甲斐としては、勝負に負けてその代償として道場の手伝いをしているのだから、その内容が変更しても関係ないと言われれば関係ないが……。

 ちょっとしたやる気の喪失感を感じながらも、やり始めた掃除だけはきっちり終わらせようと、再度雑巾に手をかけると、

「今日は、私と二人で試合をしよう」

 響子が言った。

 甲斐はピタリと手を止めた。そして、響子の発言の意味を咀嚼し、

「どうゆう了見だ」

 と、これ以上ない疑惑を込めて尋ねた。

 響子は意外そうな顔をする。

「なんだよ嬉しくないのか? 私がお前の勝負に付き合ってやるって言ってるんだぞ」

「お前の好きな戦隊物のグッズ発売でもあるのか? お金が足りないのか?」

「そりゃあ確かに戦隊シリーズは大好きだけども……って、そうじゃ無ぇって!」

 響子の顔が少しだけ恥ずかしそうに朱色に染まる。響子が子供の時からゴレンジャーに代表される戦隊シリーズが大好きなのは、クラスメイト等には隠していても長い付き合いである甲斐は知っていた。それどころか甲斐は、恥ずかしいからという理由でその類の玩具の限定品などを小学生が並ぶ列に一人で並ばされて買わされた事も多々ある。

「それで俺からお金を巻き上げようとしてるとでも考えないと納得いかないな。だってお前、俺が言ったら勝負に付き合うけど、正直面倒臭がってるだろ」

「まぁな」

 響子は、基本的には甲斐から仕掛けた勝負には積極的に受けるが、響子が甲斐に勝負を提案することはまずない。というか、未だかつて皆無だった。

「だから、お前の方から俺の勝負に付き合うって言われたって、まず疑いが先に出る」

「嫌なのかよ?」

 問いかけに対して、まさか、と甲斐は首を横に振った。

「どんな理由があれ、お前からそう言われたら俺としては断る理由は無いわな」

 甲斐は、失いかけていたやる気が蘇ったことを示すように、拳同士を打ち鳴らす。

「さて、準備しろよ。自分から言い出したんだ。今日はその言葉通り泣こうが喚こうがとことん付き合ってもらうぞ。今日という今日は長年の因縁に終止符を付けてくれる! 覚悟しろ響子よ! ふはははは!」

「そう急かすな。まずは掃除を終わらせてからだ」

 その言いようがすごく静かで、珍しい出来事にテンションがあがっていた甲斐は、少しだけ拍子抜けしてしまった。

「……分かったよ」

 と、掃除を再開する。しばらくしてから横目で響子を見ると、黙々と掃除をしている。気のせいか、いつもより丁寧に掃除をしている気がした。


   ○●○


 簡単な準備体操を済ませた後、二人は道場の中心から数歩離れた距離で向き合った。

「勝負方法は、いつも通りでいいのか」

 響子の提案。いつも通り、とは目つぶし、金的、噛みつき、武器使用以外は何やっても良しというルールである。

 甲斐に異存は無かった。

「じゃあ、始めるか」

 響子が構えると同時に、甲斐はすぐに摺り足で前進した。

 響子は動かない。驚いた様子も全くない。通常、こういった唐突な事をされれば、人間は本能的に後ろに下がったりするものだが、

(その度胸は流石だがっ!)

 まず甲斐は響子の襟を掴もうとするが、これは響子に避けられる。読んでいた甲斐はフェイントを交えた拳打を放ち、その拳打を避ける響子の先を阻むように蹴りを放つ。響子は甲斐の蹴りの勢いがつく前に腕を伸ばして防ぎ、それ以上の攻撃を防ぐために牽制の軽い突きを繰り出す。

 牽制だと気付きつつも、甲斐はそれを積極的に捌くと見せかけて、響子の攻めを促す。思い通りに響子が前進してきたので、タイミングを合わせて足を踏み出しお互いの瞳孔が確認できるぐらい体を密着させる。響子の表情が少しだけ焦ったように変化した。

 流石にこの距離ではかわされないので、甲斐は今度こそ響子の胴着を掴み、腰を捻って全身のバネを使い投げ飛ばした。

 響子の体は地面から浮きあがった。しかし、手ごたえが軽い。

 案の定。響子は床に背中から落下せず、空中で一回転して足から着地した。

「あ~びっくりした」

 曲芸みたいな事をやってのけ、からかう様に呟く。同時に、彼女は地面を蹴って甲斐に迫った。

 甲斐は態勢を直し、腕を重ねて響子からの攻撃を防ごうとする。

 甲斐の知る限りこの世で一番固い拳が甲斐のガード上にブチ当たった。一撃で腕の感覚が奪われる。今更だが、女の打撃力ではない。

 響子の静かな呼吸と共に素早く重い打撃が続く。四発を数えた所で、甲斐は数えるのをやめ、組んだ腕がほどけないように意識を集中した。そうしなければ、今にも腕が弾け飛びそうだった。

「どうしたっ!? 亀のように固まっているだけでは勝てないぞ!」

 何か言い返してやろうと思ったが、限界まで歯を食いしばっていた反動で口が動かなかった。

 この時、ふと不自然に気付く。今まで続いていた響子の連打の威力が弱まっている。

 ゾクッと背筋に冷気がした。

 彼女は、いつの間にか精一杯腕を伸ばさなければ甲斐に拳が届かない位置まで後退していた。

「遅い!」

 しまった。と心の中で呟き終えていた頃には、響子の十八番、天性のバランス感覚と、最高の柔軟さと、強固な足腰の粘りを持つ響子オリジナルの大技、体を回転させながら相手の懐に体を小さくして飛び込み、地から天へ向けて垂直気味に蹴りを繰り出して直上の相手の顎を粉砕する特殊な後ろ回し蹴り、通称“登竜脚”(響子命名)が炸裂する。

 この技は、体を回転させる蹴り技である以上、仕掛けるには一定の距離が必要であり、この技を知る甲斐は当然、お互いの間隔に気を配っていたのだが、響子の攻撃をしながら少しずつ歩を下げるやり方が巧みであったのと、甲斐が防御に集中していたのも相まって、必殺を放てる位置への移動を許してしまった。

 ガードを固めていたため、顎を粉砕される事はなかったが、その威力に腕がこらえきれず、万歳のように跳ね上がる。

(いや、むしろそうすることが――)

 この隙を響子が逃すわけがない。すでに、響子は態勢を整えている。

 甲斐は反射的に急所である顔を逸らす。

「――!」

 しかし、衝撃は腹部に来た。胃の空気が一撃で全部持ってかれる。

「まだまだ!」

 ゴム製のタイヤをハンマーで思いっきり叩くような鈍い音が道場に幾度も響き渡った。


   ○●○


 足腰に力を入れようとしても、もう限界である。立てない。

「じぐじょう……」

 甲斐は仰向けのまま、息荒く胸を大きく上下させていた。

 最初の勝負はあっさり負けたものの、そのあと続いた一時間あまり続く勝負では結構良い所まで行けた。もっとも、結局、今日も全敗だったが……。

「いやぁ、ヘトヘトだ」

 と言いつつも、響子はスポーツドリンクを飲みながらしっかりとした足取りで傍を歩いている。

「さすがに、私も疲れた。というか甲斐。今日の朝の登校勝負の時も思ったが、腕をあげたんじゃないか?」

 差し出された新しいスポーツドリンクを受け取りながら、甲斐は上半身を起こした。体の節々が悲鳴を上げるが、それを響子に感じさせないよう我慢する。せめてもの強がりだ。

「よく言うぜ。手加減してたくせに」

 甲斐は唇を尖らせ、ドリンクから伸びるストローに口を付けた。

「手加減?」

「お前、今日は顔を狙ってこなかっただろ」

「へぇ、気付いてたのか」

「当たり前だ。馬鹿にするな」

 今日一日の露骨なボディ攻撃を受けて、その事実に気付かないほど甲斐は鈍くない。事実、勝負中に顔に打撃を受けたのは朝の一件だけで、それ以外の響子の攻撃はすべて首から下に限られていた。

「怒ってるのか?」

 当然だ、と甲斐は手に持った空容器を乱暴に床に置く。

「でも、俺が相手では、物足りないというお前の気持ちは分からなくもない。悔しいが、すべては俺の実力不足が原因であって、お前を怒る資格が俺には無いのだろうというのは理解してるつもりだ」

 言ってて少し情けなくなる。響子との徹底した勝負。望んでいたのは確かだが、終わってみれば突きつけられるのは、手加減されても仕方が無いと思える力の差ばかり。

 出会ってから七年。七年もの間、自分は確実に強くなっている。しかし、結果はいつも変わらない。七年前の結果も負け。七年後の今日の結果も負け。

「……」

 ますます気分が暗くなる。自然と体操座りとなり、膝に顔をうずめ始める。

「女々しいわ!」

 響子が持っていたスポーツドリンクの容器を顔にぶつけられた。

「な、何するんだよ!」

 反論の声を上げるが、響子はそれ以上の声量で、

「じゃかましい!」

 と一喝したため、それ以上、発言する気概を削がれてしまった。

「そう言うお前だって、私の顔は狙ってこなかったじゃないか!」

 甲斐はムッとして、でもそっぽを向いて反論した。

「お前が狙ってこない場所は狙わない。そこは俺の意地だ」

「嘘ばっかりだ」

「なに?」

「お前は、今日だけでなく、今まで、ずっと私の顔は狙ってこなかっただろ」

「……はぁ?」

 甲斐は、本日二度目の素っ頓狂な声を上げる。

「だから、私も今日はそれをやらなかった」

「ちょっと待て。お前は何を言ってるんだ。俺が今までお前の顔を狙ってこなかっただと? 何をバカな」

「私さ、今までお前に青あざや打撲なんかの怪我は体中の至る所に何度もさせられたけど。顔を怪我した記憶は無いんだよなぁ」

「それは、お前がいつもうまく防ぐからだろ」

「今日、言われるまで気付かなかった。本当かどうかも分からなかったから同じ条件でやってみたんだ。やってみたら、ははっ、いつもみたいに圧勝はできなかった」

 確かにいつもに比べれば今日はまだ競り合えた方だ。そして、先ほど響子が言った通り、甲斐の拳が響子の顔を捉えたことがいまだかつてあっただろうか?

 何度思い起こしてみても、答えはノーだった。

「俺が手加減していただと……?」

 甲斐は己の拳を見た。そして振り返る。響子と出会い、打ちのめされ争ってきた七年間。甲斐にとっては腐った子供時代を切り捨てるきっかけとなったあの出会い。

 あれがあったから甲斐は様々なことに真面目に取り組んでこれた。口には決して出さないがその一点に関して甲斐は響子に感謝しているのだ。

 だからこそ、響子との勝負を甲斐は真剣に取り組んできた。彼女に対してはそうしなければ失礼に当たると考え、勝負を仕掛けるのならばと寝る間も惜しんで勉学に打ち込み、格闘技を学び、特に格闘技に関しては極端な話、勝負の時は響子に大けがをさせるのも辞さない考えで戦いを挑んできたのだ。

 しかし、今、それは違うと言われた。妥協し、手加減し、その結果、自分が響子に勝てなくても良い。そう考えて七年間生きてきたのだろう、行動してきたのだろうと言われるのと同じことを告げられたのだ。

 それは甲斐にとって、七年間を否定されたのと等しかった。

 考えただけでも恐ろしいことだ。この七年間が否定されれば、残るのは、


――お前。正義とは何か知ってるか?


「そんな事があるか! 俺は本気でお前に勝ちたくて!」

 甲斐は体の痛みを忘れて立ち上がり、叫ぶように訴えた。大人にいわれのない犯人として扱われ、無実を訴える子供のように感情的に、しかしこれ以上なく切羽詰った口調で。

「そんなことは知ってるよ」

 荒ぶる甲斐とは対照的に、響子は静かに微笑んだ。満足げに。でもどこか悲しげに。複雑に様々な思いがそこに表現されているが読みとれない、そんな微笑み。

 甲斐は、なぜか猛烈に不安な気持ちになった。

「な、なんだよ。どうしたんだよ響子。そんな顔して……」

「なぁ、甲斐。私を怖いと感じたこと、あるだろ」

「怖い、だと?」

「それとも気持ち悪い、かな。こんなに強くて。女なのに強くて。最初は、お前に洒落にならない怪我も相当させたよな」

 響子は自身の拳を握りしめ、乾いた笑い声をあげた。

 甲斐は、目の前の彼女の姿に困惑した。今まで聞いたことが無い程に自分は強いと連呼する響子は、今まで見た事がないぐらい弱々しく見えたのだ。

「でも、お前はそんな私にずっと挑み続けてくれた。その点は、本当に感謝してる」

 そしてついに、ここまできた、と続けて呟く。その言葉だけは、甲斐に投げかけたものではなく、自分に言い聞かせたものなのかもしれなかった。なぜかそんな気がした。

「あと何年かしたらお前はきっと――」

 響子の言葉を遮ったのは大きな地震だった。

 続けて、何か大きなものが軋み、崩れる音がした。

 それは突然で、感情が置いてきぼりをくらうぐらい唐突な出来事だった。

「なんだ?」

 甲斐は、体にダメージがあったことも忘れて、足早に外に飛び出す。

 信じられない光景が広がっていた。

 すでに陽が落ちて暗くなっており、その光景が見間違いかと思って何度か目を擦った。

 巨大な影が、ここからでは親指ぐらいに見えるビルにしがみついている。そのビルはすでに窓ガラスの至る所が割れていて、一部はコンクリートの壁が抉られて中身が丸出しになっていた。

 某怪獣映画のゴリラの化物が東京タワーにしがみつくシーン。あれが甲斐の頭の中で真っ先に連想された。

「あれは、何だ? どっから出てきた?」

 声は驚きのあまり擦れて、小さくなった。

「化物だよ」

 いつの間にか傍にいた響子が呟いた。その言葉は、甲斐の言葉に応じたものか、それとも彼女の感想だったのか。

「人を食う、最悪な化物だ」

「人を食うだって?」

 そして、甲斐は発見した。見たくなかった。この時ばかりは自身の二・○以上の視力を呪ってやりたい気分になる。

 化物は全身の毛が逆立っていた。サルのような四肢を持ち、狼のような頭部を振り回す異様な獣は、口を開けて喚いていた。その口、牙と牙の間には、遠目で見てもマネキンとは違う、生々しい人の頭部や一部が挟まって、重力に従い右に、左へと揺れていた。

 腹部を強打された時とは違う嘔吐感が巻き起こる。これだけ距離が離れていなければ、今度こそ胃の中のものを全部吐き出していたかもしれない。


『――――――――――――――――――――――――――――!』


 今まで聞いてきたどの獣の鳴き声からもかけ離れた絶叫。そして、化物は振動を立てて地面に降り立ち、再度天に向かい咆哮した。

 これが契機となったのか、周りで甲斐と同じく、唖然としていたのであろう市民たちの悲鳴が堰を切ったかのようにいたる所であふれ始めた。

「おい、こっちに来るんじゃないか!?」

 甲斐は目の前の出来事にまだ頭が納得していないことを自覚しながらも、とにかく遠くに離れようとする。ここから逃げようとする。

「響子。なにボサッとして――」

 あまりに強力すぎて、最初は何が何だか分からなかった。

「ごめんな、甲斐」

 響子の拳が甲斐の腹部に深々と突き刺さっていた。今日、散々いたぶられた部分な上に、完全に気を抜いていて筋肉が緩んでいた時に打ち込まれたのだ。

「響子。何、を」

 足から力が抜けていく。立つことができなくなり、堪えきれず目の前の響子に倒れこむ。彼女は自分より大きな甲斐の体を軽々と支えた。

「そして、もう一つ謝っておく。ごめん、今までお前の青春を奪ってきて」

 唇に薄れゆく意識の中でも確かに感じられる暖かで柔らかな感触があった。響子の唇が自分に触れたのだ。

 甲斐にとって人生初めての異性とのキスだった。感想としては、お互い動き回った後なので、自分の汗と、響子のいつもより強い体臭が混ざってなんか微妙な気分になった上に、正位置が分からないのか――当然、甲斐も正位置など分からないが――唇をくっつけては微細に動かしての繰り返しで変な感じだった。でも気持ちよかった。望むべくならば、もっと強く近づいて、もっと彼女を感じられるようにしたかった。しかし、甲斐の体の自由はすでに奪われており、されるがままになるしかなかった。

「今までのお詫びだ」

 と、彼女は悪戯っぽく言った。

「でも、お前はきっとこれから色んな人とこんなことが出来るはずだ」

「お前、何をして……」

 響子はニッコリと笑っていたが、唇を重ねられるほど至近距離であるが故に薄れゆく視界の中でも甲斐は気が付く事ができた。

 響子の瞳から涙が零れていた。それも、潤むとかいうレベルではなく、大粒の涙が。

 響子が泣いている?

 甲斐はにわかに信じられない。自分より体の大きな男に恫喝されても、甲斐に何度も体を痛めつけられても、瞳を潤ませたことすらなかったあの響子がである。

「響子――」

 それ以上の発言はできなかった。響子が甲斐を支えていた自分の体を横に逸らし、地面に倒れる甲斐に対してさらに首の裏に手刀を打ち込んだからだ。

 顔に何か冷たい感触があったので、自分が地面に倒れこんだというのは分かったが甲斐が理解できたのはそれが最後で、以降の意識は闇の中へと消えていった。

「じゃあね」

 そんな言葉が聞こえた気がしたが、同時に化物の咆哮が轟いたため、確実な事は分からなくなってしまった。

 そして、それを確認する機会はもう二度と与えられないのだと、後に甲斐は知った。

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