4-1 背負ったもの
時間の針を少し戻す。
「お父さんは立派だ、あなた達も見習いなさい。よく言われた言葉よ。そして、子供だった私達の訴えなんて消し飛んでしまう魔法の言葉」
病院の会議室のような部屋。
信二が退室し、甲斐が返事を告げた後に語られたその言い様は、立派な父親を誇る類のものからは程遠いものだった。
霧島才蔵。霧島道場の主であった彼は、鍛えられた肉体を持ち、礼儀正しく、武道を通して町民との親睦を深めるなど、立派な人物として有名だった。
甲斐は、霧島才蔵という人物に会ったことは数える程しかなかった。稽古を受けた回数で言えばたったの一度。子供の時に響子に無理やり道場に連れて行かれた時のみである。
――君が響子のボーイフレンドか。
見降ろされる上背に、道場に良く通る力強い声。
挨拶に行ったら大きな手で頭をグシャグシャにされたのは今でもよく覚えている。
その数日後に霧島才蔵が突如失踪し、行方不明となったと聞いたときは本当に驚いた。結局、それ以上の親交は無かったのだが、記憶に残る印象では、町で噂される“立派な人”というイメージに違和感無い人物だったように思う。
しかし、文子から語られたのは、そんなイメージをあっさりと打ち壊すものだった。
「父は科学者だった」
外向きで活動的そうに見えた霧島才蔵の印象からすれば、予想外な事実。しかし、他に仕事を持っていたという点に関しては納得できる。道場の授業料だけで生計を盛り立てていたはずはないのだ。
「そして、当時はまだ存在すら知られていなかった炎邪を研究していた」
文子から質問を許すような時間が空けられたが、甲斐は無言のままだった。ここで急に出てきた炎邪というキーワードに面を食らい、何も発言できなかったのだ。
文子は話を続けた。
「炎邪が人類の前に現れたのは確かに“ファーストコンタクト”だけど、そのような生物が地球上に存在するというのは随分昔からすでに分かっていた。そして炎邪が遠からず人類にとって脅威となることを察していた父は、炎邪に対抗するためにとあるプロジェクトを立ち上げた。資金やその他設備などは、カンパニーズの役員だった母からのつてで手に入れたそうよ。鎖国中ではあったけど、当時から中立の勢力だったカンパニーズは入国や荷物の受け渡しのチェックは甘いから、機材や資金を手に入れるのはそこまで困難じゃ無かったみたい」
甲斐は、霧島三姉妹の母親には会ったことが無かった。すでに響子達と知り合った時には故人だった。仏壇に写真は置いてあるが、せいぜい外見が桜子に良く似ているなぁ、と思ったぐらいで、それ以上、死んだ人について桜子達にあれこれ詮索をする事もなかった。
「その計画の名が“バトルマスター製造計画”通称“B計画”」
「B、計画?」
「B計画の目的は大きく分けて二つ。一つは炎邪に対抗できる兵器の開発。こちらの方は、早い段階ですでに理論として組みあがっていたSVという兵器を転用、及び改修、開発していく事で結論が出ていたから、そこまで難航しなかった。難航したのは……」
躊躇いがあった。覚悟は決めているのに、自分でも分からない何かに口を抑えられている。そんな感じだった。
文子は咳払いを一つして、意を決したように、
「……もう一つの目的。より進化させたSVという兵器に対して、それに適応できる人類を越えた人類、バトルマスターを作り出す計画」
布同士が強く擦り合う音がした。隣からだ。見れば、桜子が自分の服をより強く握りしめていた。こころなしか顔も青い。その事に文子も気付いたようだが、動かし始めた口は止めなかった。
「ナノマシンって知ってる?」
想定外のキーワードに戸惑った後、甲斐は、
「よく映画とかで出てくる小さな機械ですか?」
「人間の細胞よりも小さな機械。父はそれを、怪我をした人間の完治を早めるための細胞分裂の促進に使えないかを研究する科学者だったんだけど、ある日、今までの研究成果を人間の強化に転用できないかと考えた」
唾を、喉を鳴らして飲み込む。
「でも、問題もあって、極小とはいえ人間の体でないものを人間の体に変化が起きるぐらい投与するわけだから、拒絶反応が凄いのよ。後から知ったことなんだけど、実験中に試された動物はほとんど死んでしまっているわ。でも、ナノマシンを、より幼少の時に投与するほど拒絶反応が少なくて、かつより幼少の時に投与して一定以上の適応を示した個体ほど、成長した際の強化がより強く表れるという結果は出ていた。そして父はさらに実験を進め、ついに人間に一番近い動物までのナノマシンとの適合を成功させた。そうなれば、実験は最終段階よ」
一拍の間。甲斐は、自分の胸を布できつく締め付けられるような感覚を味わっていた。
「人体実験だから公にはできない。日本政府に協力なんて依頼できない。カンパニーズ内でも、炎邪の存在を知るのはごく一握りで、それに日本とカンパニーズでは距離も遠いから、研究を行うには身近なところで試すしか無かった。経過をつぶさに観察したいというのもあったと思うわ」
「身近な、ところって……」
甲斐は、文子から目を離せなくなっていた。
「結局、父はすでに生まれていた私では無く、後から生まれてくる娘を実験台にすることにした」
「!」
甲斐は、かつてのライバルの姿を思い浮かべた後に桜子を見てしまいそうになるが、寸前のところで踏みとどまった。
「その結果は、あなたも知っている霧島響子という超人――バトルマスターの誕生よ」
微かな違和感を感じた。告げられた事実の内容に比べたら本当に些細な事であったため、次の瞬間にはその違和感を気にしなくなっていた。
「あいつが、響子が、炎邪を倒すために作られたバトルマスター……?」
響子、と呟くのに少々の戸惑いがあった。思えばこの名を呟くのは一年ぶりだった。
「霧島響子は、生まれる前から、それこそ母胎の中にいる時からナノマシンが体に慣れるように調整をされた人間なのよ」
甲斐は、唇を歪ませながら視線を下げた。
人体実験。父が娘に行う行為として、にわかには想像し難い事である。
続けて思い起こされたのは、響子と過ごした勝負の日々だった。
甲斐は、一般人に比べれば体力はかなり高い方である。打倒響子を掲げ、生きる時間のほとんどを体を鍛える事に費やしてきたので当たり前と言えば当たり前なのだが、そんな人間を響子は笑いながらあしらっていたのだ。
男と女の本来持つ体力差を考えれば、それはひどく異常な事なのだろう。
しかし、いままで誰もそれを問題にしなかった。みんな響子が勝つ。それが不思議ではないと思わせる、勝者の風格ともいえばいいのか、響子はそんなものを感じさせる人物だったような気がする。いや、気がするではない。そういう人物だった。それは自分が一番よく知っていた。
「でも、話がおかしいじゃないですか」
と、甲斐は当然な疑問を口にした。
「響子は炎邪を倒すのが目的なんですよね。ならなぜ、炎邪と戦う俺たちを攻撃したんですか」
「そうね……」
文子の言葉が途切れた。今度は自分の意思で口を閉ざしているようだった。
「今更ごまかしは無しですよ。あの赤いSVに乗っていたのは……響子なんでしょ?」
「……二つ問題を出すわ」
文子の掻き上げれた髪が、艶やかに揺れた。少し、苛立っている時の仕草であることを甲斐は知っていた。
「一つ、広範囲に散った敵を殲滅するのに有効な方法は何でしょうか? 二つ、大勢の敵と戦う上で、もっとも重要な事は何でしょうか?」
「一つ目の答えは、敵を一か所に集める事ですね。二つ目は……」
「二つ目の答えは、必要以上の体力を使わない事。そして必要以上の体力を使わないようにする上で必要なのは、常に同じ力を出し続けられるように感情を殺すことよ」
「感情を、殺す? ちょっと待って下さい一体何の話をして――」
多少苛立ちながら甲斐が言うと、それを遮るように文子は声量をあげた。
「あの子が施されたナノマシンはね、ある時を境に炎邪を呼び寄せる信号みたいなものを発するようになるの。その信号は父があらゆる手を使って世界中にばらまかれたナノマシンに反応して伝わっていき、最終的には世界規模で発信される。ちょっと想像しただけでも恐ろしい事でしょ? 炎邪なんて今でこそ日本でしか確認されて無いけど、世界にどれだけいるのかなんで誰も分からない、発見されていないだけかもしれない。それが、響子から発せられる信号に触発されて目覚め、地上に出てくる事になれば……」
世界の終焉。その想像は酷く簡単だった。
「その“ある時”というのは父が行方不明になってしまって確かな事は分からないのだけど、父が残した文献を見る限り、響子がもっとも肉体的に成熟するとき、つまり一八歳~二○歳頃と予想されるの。そして、あの子は“決戦の時”に備えて自身の感情を徐々に失う様に“造られている”のよ。感情を無くし、迫りくる炎邪を最後の一匹まで効率よく倒し続けるために」
文子は口元を歪めた。笑ってはいるが、ひどく疲れた表情に見えた。
「凄いでしょ? 私たちの父はそれが本当に人類のためになると思って疑ってなかったみたいなの。自分の最高傑作が、世界の炎邪を相手取っても負けるわけが無いってね。まぁ、おそらくはもっと多くのバトルマスターを造り、揃えるつもりだったんだろうけど、結果として完成されたバトルマスターは霧島響子だけだった……」
「造られている、ですって?」
一体何を言っているのかと、この時ばかりは文子の正気を疑った。この人は今、一年前に笑い合っていた自分の肉親に対して、なんと言った。
「文子さん、あなた――」
文子は甲斐の言葉を無視した。
「なぜ霧島響子が敵対しているのかと訊いたわね。正常なら私達と敵対することはありえないから、考えられるのは、ナノマシンが狂った可能性、それ以外にはそんな人生を歩まされてきたんだもの、ヤケになってみんな炎邪に食われてしまえばいいとか思ってるかもね。どちらにせよ」
彼女は再度、その艶やかな髪を軽く掻き上げた。
「もう霧島響子が何を考えてるかなんて誰にも分からない。分かっているのは、惨劇を防ぐ確実な方法は、あの子を壊すしかないという事よ」
甲斐は、感じていた違和感が何か分かった。文子は自分の妹の事をいつもは“響子”と呼んでいたが、今日はずっと“霧島響子”と呼んでいるのだ。
まるで他人事のように。記号名のように、発音も平坦に。
頭の中が真っ赤になって、甲斐は勢いよく立ち上がった。
「文子さん、あなたは……あなたはっ!」
「あなたはっ! 何よ」
今まで味わった事の無い、文子からの鋭い睨みを受けた。
甲斐が何も言い返してこないと見るや、更に文子はまくしたてるように言う。ゆったりと椅子に腰かけている姿勢は変わらないまでも、そんれには先ほどと比べてひどく陰が込められていた。
「軽蔑した? 別に構わないわよ。好感を持ってる男の子にそう思われたって、私は別に何とも思わない。だって、これはやらないと日本は滅んでしまうもの。分からないの? 理由はどうあれ霧島響子は私たちと敵対してるのよ。まだこちらに残っているのなら手の打ちようはあるけど、敵対をしてるのよ? 霧島響子のナノマシンがいつ炎邪を引き寄せる信号を発信しはじめるか分からないし、いや、それどころか今度アイチ近辺に出現したワームホールはその霧島響子のナノマシンの影響で現れた可能性だってあるわ。それなのに、霧島響子はこちらに連絡も何の意思も伝えようとしてこないで、ただ敵対のみを繰り返す。それを、ほかにどう扱えと言うのよ。それとも何? 何か良い考えがあるの? ならぜひご教授いただきたいわね。お願いします。どうぞ。何を黙ってるのよ。言いなさいよ。さっきみたいに、強い口調で、自信満々な口調で何か言ってみなさいよ」
甲斐は、何も言い返せなかった。
文子は、他人には容易に気付けないぐらいの小さい舌打ちをして、その視線を甲斐から逸らした。
「……ごめんなさい。言い過ぎたわ」
「いえ、こちらこそすみませんでした……」
顔を逸らしてしまった。それを卑怯だと感じながらも、甲斐はそうしてしまった。
文子は静かに立ち上がり、
「改めてお願いするわ。真田君」
そして頭を深く下げた。
「少なくとも、私たちと一緒にいたときのあの子は、こんな結果を望んでいなかったはず。であるのなら、私はそういう意味でもあの子を助けてあげたい」
助ける、というのは名を借りたものだ。そんな事は、文子も分かっているだろう。甲斐の負担が少なからず安らぐようにとの気遣いだろうか。
「あなたには、ワームホールの対応をしてもらう以上に、赤いSVが現れた場合の対処をお願いしたいの」
「しかし、俺は響子には勝ったことがありませんよ」
「それでも、響子に勝てる可能性があるのは、あなただけなのよ。力の強さとかそういうのは関係無く、世界でただ一人あなただけ。そして、その理由こそ、あなたにすべてを押し付けざるを得ない理由でもある」
「俺が、響子に勝てる理由?」
そして、文子は申し訳なさそうに更なる事実を告げた。
○●○
ワームホール付近に到達すると、そいつは風景と同化するように大木の間に立っていた。
赤いSV。カンパニーズではコードネームを“赤鎧”と名付けたらしい。正式名称は他にもあったそうだが、外国にあるカンパニーズの基地から強奪されたそれは、すでに登録を抹消されており、正体不明機“赤鎧”がすでに正式名称のような扱いだった。
装甲は、倒されたカンパニーズのSV“ガイスト”のオイルか何かだろうか。灰色の液体で染められている。
甲斐は、走らせている自機“ガイスト・カスタム”を止めた。
甲斐が先日の炎邪戦で破損させた日本製SV“スイジン”の両腕を、“ガイスト”のものに付け替え、さらに“赤鎧”の機敏で柔軟性のある格闘戦にも対応できるように、甲斐の希望で装甲を減らし、フレームの可動域を極限まで高めてある。
パワーについては動力にあたる特殊な高密度電流にて回転するエンジンをメーカー規定出力の一・五倍まで発揮できるように改造しており、理論上は“赤鎧”に搭載されているカンパニーズ製最新式エンジンの出力を上回っていた。
もっとも、本来安全を踏まえて、あえて出力を抑えてあるエンジンをフルパワーで動かした時にどうなるかは、だれにも保障などできないが。
甲斐は、カンパニーズ日本支店の整備員達にじゃじゃ馬と称されたこの機体を数時間の訓練で適応するという神業を見せていた。やはり自分はこういったことに向いているのだろう、とすでに分かりきった事を改めて認識させられた。
そうこうしている間に、“赤鎧”はワームホールの前に移動して迎撃態勢を取った。
明らかに、穴には近付けさせないという意思表示である。
本当に意味が分からない。事前に穴に近づこうとした、カンパニーズのSVを容赦無く撃破したというし、本当に奴は頭がどうかなってしまっているのだろうか。
甲斐は、外部スピーカーのスイッチを入れた。
「俺はカンパニーズ日本支店所属の真田甲斐だ。そちらの名前を聞かせてもらえないか」
返事は行動によって示された。
何も持っていなかったはずの“赤鎧”は、次の瞬間には手元に刀を出現させ、斬りかかってきた。あれはカンパニーズの新技術である液体金属だそうで、腕部に取り付けられたタンクから液体を放出後一瞬の内に設定してあった形状に固まるという優れものらしい。しかし、あくまでそれはただの金属であって、特殊な事など何もないものなのだそうだ。
(何も無いものが、炎邪の腕をああも容易く切り避けるとは思えないが……)
甲斐は機体の腰部の兵装ラックから“Cナイフ”を取り出し、注意深く刀の攻撃を防ぐ。
やはり、打ち合える。
素早い動作、というよりかは最短の動作。防御力を犠牲にして得た柔軟性は早速役に立った。
押し込むようにして、相手を後退させた後、甲斐は再度呼びかける。
「繰り返す。俺は真田甲斐という。そちらの目的を――」
聞いちゃいない。“赤鎧”は再度刀を振りかぶる。甲斐は言葉を切って、側面に飛んだ後、脚部のローラーを起動させ砂ぼこりを巻き上げながら距離を取る。
ドリフト気味に方向を転換しながら、操縦桿のトリガーを操作し、左腕に持たせていた四○ミリアサルトライフルを発射。弾丸は“赤鎧”の回避の後の空間を通り、後方の森の木を轟音を立てながらなぎ倒す。
“赤鎧”の回避は、“ガイスト・C”から見て右側への移動も兼ねていた。
「上手い判断をっ!」
左腕に持ったライフルでは右側面への射撃は、狙いがつけ辛い上に時間がかかる。
こちらが撃たないと判断してか、“赤鎧”は地を蹴ってこちらに迫る。ローラー移動では行えない速度の直進。甲斐はすぐさまライフルを投げ捨て、その腕で“Cナイフ”を取り出す。
一刀の切込みを、頂点から見て半円の勢いを付けて振りかぶったナイフで防ぐ。押し合いになるが、こちらが片手でもパワー負けはしない。しかし、機体の背面――コックピットで言えば下部後方のエンジンが、ギュルギュルと不信感を感じさせるような歪な音を立て続ける。
繰り出される突きや、切りの怒涛のような攻撃を時には躱し、時には受け止めて捌く。
“不自然さ”は無い。
(油断できない攻撃である事に間違いはない)
上段から振り下ろされる刀を、半身になって避ける。
鋭い攻撃ではあるが、防げない程ではない。いつかの炎邪との戦いでこの“赤鎧”が見せた動きと比べるとひどく鈍重である。
――アンチナノマシン。
文子の言葉を思い出す。
――父のナノマシンは、人の意思を肉体に反映させることを基礎理念の中に組み込んでいた。戦いには無駄だと言いながらも、父はその強さを信じていた節がある。医療用のナノマシン開発に専念していた時には、人の治りたい、という意思は何よりも強く人を完治させるとか、そういう甘い事も言っていたそうよ。
それはつまり。
――子供の時に響子との勝負の最中、まぁ、殴り合いの中でお互いの傷口が接触することもあったでしょう。そんな理由で血液感染によってあなたの中に移ったナノマシンは、あなたの体に適応し、増殖し、そして長年のあなたの“響子に勝ちたい”という想いに反応し、響子のナノマシンの肉体強化を抑制するものへと変わっている。人間で、ナノマシンに適合して響子への勝利を願いつつ、かつ長い年月を生きて、ナノマシンの力を借りなくても響子に勝てる強い人、そんな人が存在するのは、本来であれば天文学的な確率。
それはつまり。
――あなたは、霧島響子に人間として戦わせられる唯一の人間なの。あなたが響子の力を発揮させたくないと念じれば念じるほど、あなたの体の中のナノマシンは響子のナノマシンの活動を抑制する。
自分がナノマシンに感染していた事については、正直、文子が気に病むほどの事は無いというのが、甲斐の正直な気持ちだった。すでに自分は普通の人生を歩めるとは思っていない。むしろ、この状況を打破できる力を授かっているのを幸運にすら感じていた。
念じる。自分は響子に勝ちたいと。すると、体中に静電気が巡るような感覚が起こる。
(これが、ナノマシンか)
甲斐は、“赤鎧”を睨みつける。
一年前で力量は拮抗していたのだ。時が経ち、さらに響子のバトルマスターというアドバンテージを消失させた今、その力の差は……。
甲斐は“Cナイフ”二本を振るい、攻め立て続けた。回転する刃が火花を散らせ、躱し切れなかった“赤鎧”の装甲に、ついに傷が付く。
(動きが鈍い、いや正常になっている? やはり、効いている)
今の響子は、“本来の力”に近い状態になっているということ。
甲斐はその手を止めず、“Cナイフ”を更に突き出す。刃が赤鎧の片腕――腕部の付け根に突き刺さる。
だが“赤鎧”も黙っていない。その刀を、損傷していない腕で“ガイスト・C”の腰部に突き立てた。
(腰に、動作に必要な機関は無かったはずっ!)
ならば、とむしろ前進。腰部のアーマーが弾け飛び、火花が散る。負けじと腕に抉るように力を込めると赤鎧の腕は宙に飛んだ。
よろめく“赤鎧”。いつかと立場が逆になった。
(最初から響子と分かっていて、そしてこの一年鍛えた俺ならっ!)
甲斐は“Cナイフ”を、思いっきり引き寄せる。狙いは胸部――コックピット。
「俺なら勝てるっ!」
救わなければいけない。何より大切な人を。桜子を、文子を。
自分は誓ったのだ。願ったのだ。もう、大切な人を失いたくないと。
――この鬼子!
ナイフがまさに“赤鎧”のコックピットに突き刺さる寸前に、ダイレクトに体に湧き上がってくる声があった。向けた刃はその動きを止めた。
「な、なんだ」
頭の中に送り込まれる映像があった。頭の中で何十冊もの本がパラパラとめくられ、その全てを見させられるような、
「見せられている? いや、違う」
その次の瞬間には漠然と理解できた。
「俺が望み、俺のナノマシンがそう働きかけているのか」
体中が熱い。外から気持ちが溢れてくる。こちらに流れ込んでいる。
「知りたいと願ったということか、それにナノマシンが応じて、これは……」
それは、望まぬ形で生きてきた少女の記憶だった。
子供の時、止められない力に振り回され、周りには望まぬ怪我を負わせ、家族以外の人間からは、化物、鬼子、怪物、悪魔と罵られ続けた。石を投げつけられて、何度か引っ越しも繰り返した。
周りだけに留まらず、自分は人類すべてを不幸にする人間――バトルマスターだと気付いたのは中学校の時だった。とある男のおかげで自分の力が周りにそこまで“気味の悪いもの”として扱われなくなり、人間関係もそれなりに広がってきた矢先の事だった。
やはり自分は生まれてはいけなかったのだ、と思い自殺を図った。
しかし、死ねなかった。死のうとすれば、体のナノマシンがそれを拒んだ。ナイフを喉元に突き刺そうとすれば、意思に反して手が止まった。崖から落ちようとすれば意思に反して足が止まった。食を断てば、体が意思に反して体の機能を維持しようと、食べ物を手段を選ばず手に入れた。誰かが自分を殺そうとすれば、自分の意思に関係なく体は身を守り、そして対象を意思に反して即座に抹殺した。
そんな少女の物語。
しかし、絶望の底で、少女は奇跡に気付く。
真田甲斐。幼少の時から異質といえる力を持っていた彼女に、唯一対抗し、そしてそれを続けてきた人間。骨を砕き、肉は捻れ、内臓を傷つけられても少女の傍に居続ける事を拒否しなかった唯一の男。
その男の前で自分は、“人外”では無く“人の中で優れている”程度の力しか発揮できない事に気づいたとき、ああ、そうか、と少女は決断した。
この男を、育て上げて、そして、
「お前は今まで俺に殺されるために俺からの勝負を受けて、俺に殺されるために生きてきて、俺に殺されるために敵対したのか……」
殺されるには憎まれるしか無かったと、殺されざる立場になるしか無かったと。
“赤鎧”に向けられていたはずのナイフの切っ先は、やがて慣性に従って下へと傾き、地面へと落ちた。
『……取れよ』
初めて、“赤鎧”から声があった。懐かしい、あの強気な声だ。
『ナイフを取れよっ! 真田甲斐!』
声から泣いているのが分かる。いや、今だけではない、この少女はいつも甲斐の知らないところでやがて来る運命に、絶望し、人知れず涙を流していたのだ。
それが分かってしまった。見えてしまった。
「……無理だ」
『無理とか言うなっ! そんな事言うなっ! お前、私に勝ちたいって言ってたじゃないかっ!』
「それに嘘は無い」
『じゃあ、何で、何でだよっ!』
甲斐はコックピットのシートに深く体を預け、そして操縦桿からも手を放した。
「涙が止まらねぇんだよ」
小刻みに肩を動かす甲斐の目からも、涙が流れていた。
「前も見えないぐらいに、涙が止まらないんだ。お前の記憶を、俺は見た。もう、俺はお前を殺せない。俺にはもう……」
『ふざけるな、何だよそれ、ふざけるなよ。馬鹿野郎ぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!』
絶叫は、周りの木々を揺らすかの如く響き渡った。