閉じられた工房
只々広い部屋の端にある、窓際。
そこに僕は陣取り、ひたすらに木を彫っていた。
彼女が喜んでくれるように。彼女の為だけに。
左足首には枷が嵌めてあり、そこには鎖が繋がっている。
それは、部屋の隅から隅まで歩き回れるくらいには長いけれど、それがあるから、この部屋から出ることは出来ない。
いや、どの道、部屋の唯一の出入り口である分厚い金属性の扉には厳重に鍵が掛けてあるし、窓には鉄格子が嵌めてある。
窓の外には鬱蒼と生い茂る木々の風景しか見えないから、出ようと思って出れるものでもない。
……それに、今の僕にはここを出たいと思う気持ちなんてない。
ここは、僕からしてみれば閉じられた世界。
だけど、彼女にとっては、一体どんな世界なんだろう。
僕の父は彫刻家だ。作品を作る為に、一日中工房に籠っている。
幼い頃の僕には、そんな職人の父が憧れであり、一緒に工房に籠っては、飽きもせずに父の作業に見入っていた。
それがしばらく続くうちに、僕も木彫りを始めるようになる。
父にある程度の知識を教えてもらった僕は、工房の隅っこを貸してもらい、余った木材で木彫りを始めた。
初めは父の見よう見まねだったけど、その内自分で彫り方を勉強し、今では木彫りが趣味だと言えるほどには、ましなものを作れるようになったと思う。
僕が彫った作品を見た人達は、こぞって父の後を継ぐよう勧めてきた。
筋がいい、なんてことを父の仕事仲間の人から言われたこともあったっけ。
その場に父が居たから、単なるお世辞だったのかもしれないけど。
小・中学の頃には、僕はそんな薦めに対して元気に返事をしていたと思う。
だけど、高校に上がる頃には、その熱意は薄れ始めていた。
単純な話だ。彫刻家なんて職業でちゃんと暮らしていけるのか、不安だったんだ。
不安を払拭できるほどの自信も、僕には無い。
だから、高校を出ても美術系の大学に通うこともなく、何の変哲もない経済大学に僕は進学した。
将来はサラリーマンにでもなって、そこそこの収入さえあればいいやなんて、誰でも考えそうなことを頭に思い浮かべながら。
僕の行動を惜しんだ人達も居た。
けれど、父は僕の進路に何も口出しはしてこなかったし、特に問題が起きることはなかった。
元々父はあれこれと喧しく言う方ではなかったから、その真意は分からないけれど、多分僕のやり方を認めてくれたのだと思う。あくまで、僕の勘だけど。
大学では美術部に入った。
父の後を継ぐ気はないけど、依然として木彫りは趣味として続けていたのだ。
元より、幼い頃から父と一緒に工房に籠ってばかりいたから、単に他に趣味と言えるものが無かっただけの話ではあるのだけれど。
そして、入部してしばらく経った頃。
新入生を交えての、初の展示会が大学構内で開かれた。
「へえ、熊か。木彫りじゃ定番だよな」
「そうですね」
「つっても、これは手の平サイズだから、迫力があるっていうよりは、ちんまくて可愛い感じか。
佐土原、お前動物ばっか彫ってっけど、今回は何でまた熊なんだ?」
「やっぱり定番な組み合わせですし、
それぐらいの方が展示を見に来た人の興味を引けるかなと思いまして」
「なるほどな。でも、部内じゃ木彫りはお前しかやらないから、その分目立ちはすると思うがな」
部長はそう言って、自分の作業へと戻っていった。
今は完成した作品を各々展示スペースに設置している最中だ。
僕が作ったのは木彫りの熊。
趣味の産物でしかないそれだけど、少しでも来場者の目に残ってくれれば、僕はそれだけで満足だった。
展示会は一週間続き、恙無く終了した。
そして翌週、僕は彼女と出会うことになる。
その日、活動場所となっている美術室では皆が思い思いに活動の準備を行っていた。
活動といっても、主にやることは個人制作であり、それぞれ取り組んでいる事柄はバラバラだ。
取り組む姿勢も人それぞれで、僕のようにもくもくと木を彫っている者もいれば、談笑しながらまったりと絵を描いている者もいる。
今も、既に準備を終えて話し込んでいる部員が数人いた。
しばらくすると、ほとんどの部員が準備を終えて席に付き、 そして、さあ活動を始めようかという段になって、部長が思い出したように口を開いた。
「ああ、そういや、知ってる奴もいると思うが、新入部員が入った。先週の展示を見て興味が湧いたんだそうだ。色々と面倒見てやってくれよ」
部長は投げやりにそう言うと、部屋の後方へ視線を投げかけた。
振り返ると、そこには部員に囲まれながら、皆に頭を下げている女の子の姿があった。
「新入部員……か」
正直、未だに部員を全員覚えていない僕にとっては、新入部員だと言われても、あまりぱっとしない。
まあ何にせよ、先週の展示会がきっかけで入部したというのならば、あの行事もやった甲斐があるというものである。
人によって、有意義に感じるかどうかのポイントなんて幾らでもあると思うけど、少なくとも僕はそう感じた。
そして、そんなことを考えながら、改めて彫刻刀を握りなおし、作業に没頭しようとしていた時である。
「ねえ、あなたが佐土原幸成君?」
そう声を掛けられ、僕は顔を上げた。
すると、そこに居たのは件の新入部員の女の子であった。
「……そうだけど、君は――――」
「私は椿茉由魅っていいます」
彼女はそう言うや否や、僕の両手を自らの両手で包みこんだ。
「私、あなたの作品に感動したわ!」
「……へ?」
それが、彼女との初の邂逅だった。
後から聞いた話ではあるのだが、彼女は展示会が開かれていた先週の内に、部室に押し掛けてきていたらしい。
彼女は、それほどまでに僕の作った作品に情熱を持っていた。
展示会に出した熊の木彫りだけではなく、他の僕が作った像を見る度に、こちらが恥ずかしくなってしまうぐらいに褒めちぎってくるのだ。
「幸成君の作品って、本当にどれも素晴らしいわ。小さいサイズのものばかりだけど、どれも毛並みの一つ一つまで丁寧に彫られてる。本当、見入っちゃう……」
彼女はそう言いながら、うっとりと作品を撫でていた。
その顔は上気していて、まるで惚れ入っているかのようだ。
これを部員たちの前でやるものだから、こちらとしては恥ずかしいったらない。
ただ、ここまで褒められることに、悪い気はしなかった。
彼女の賛辞には、今まで受け取ってきたお世辞めいたものとは違い、彼女の純粋な気持ちを感じることが出来たからだ。
以降、彼女とはよく話をした。
彼女は作品だけでなく、僕のことも慕ってくれたのだ。
彼女の話を聞いている内に、彼女の父親が相当なお金持ちで、かつコレクターだということが分かった。
彼女が大学の部活の展示会なんかを見に来たのも、父親に影響されて、彼女自身美術品が好きだかららしい。
驚いたことに、彼女の父親のコレクションの中には、僕の父の作品もあるのだとか。
これには、思わず因縁めいたものを感じずにはいられなかった。
そうこうする内に、すぐに一ヶ月が経過した。
その頃の僕は、彼女の事をすっかり意識してしまっていた。
そして、ある日の部活後、彼女と一緒に帰っていた時である。
「幸成君……ちょっといいかな?」
「ど、どうしたの?」
その日、珍しく口数が少なかったことが気になっていたのだけど、その時の彼女は熱でもあるのかってくらい顔が真っ赤になっていた。
それでいて、その表情は酷く悩ましげで、そんな色っぽい彼女の所為で、僕までかなり緊張してしまっていた。
「私……私ね……」
「う、うん……」
もじもじとする彼女に、こちらの緊張もピークに達する。そして――――
「私、幸成君のことが好きなの……だから、付き合って下さい!」
「…………はい、喜んで」
こうして、彼女からの告白で、僕らは付き合うことになった。
僕にしてみれば、彼女……茉由魅は初めて出来た恋人だ。
しばらくは彼女と二人、本当に幸せな時間を過ごすことが出来たと思う。
偶然にも、僕も茉由魅も恋人が出来たのは初めて。
最初は緊張しっぱなしだったけど、それでも茉由魅と過ごすのは楽しかった。
だけど、時間が経つごとに、僕は僕の知らない茉由魅を垣間見ていくことになった。
それは、茉由魅の少し変わった一面だ。
付き合うようになってから、より強くなったように感じるのだが、茉由魅は僕の作品に対して異様なまでの執着を見せた。
ある日、僕が何の気なしに、自分で作った木彫りの狐を、茉由魅に贈ろうとしたところ、なんと彼女はお金を払う等と言いだしたのだ。
「こんな素晴らしいものをタダで貰うなんて、とても私には出来ないわ。でも、幸成君からの折角の贈り物、ちゃんと受け取りたいし、だから……」
そう言って、茉由魅はあろうことか万札を財布から取り出した。当然ながら、お金なんて受け取れる筈が無い。
茉由魅が言うほど、僕は自分の作品を素晴らしいものだなんて思っていないし、父のようにちゃんとした職人でもない僕が、自分の作品を売ってお金を得るなんて大それた行為をするなど、全く考えられなかったからだ。
僕は、自分で作った作品にそれ程愛着があるわけではない。出来の良いもの、気に入ったものだけ取っておけば、それでいいと考えている。
だから、僕の作品を好きになってくれる茉由魅に、軽い気持ちでプレゼントをしようと思ったんだ。
こんな結果になるなんて想像だにしていなかったけれど。
結局彼女はお金を払うことを譲らず、僕は彼女にプレゼントをする事自体を諦めた。
そして、それから時を置かずして、彼女の異様さは異常さへと取って代わっていった。
「あっ――――」
そんな声が聞こえてくると同時に、ごとり、という鈍い音が部室に響く。
見れば、床には僕が作った木彫りの猿が転がっていた。
「ご、ごめん、佐土原君!」
同じ一回生の女の子が、慌てて謝ってくる。
作品を見ようと手にとって、誤って落としてしまった、というわけなんだろう。
この木彫りの猿は、部室の見栄えをよくする為にと部長に頼まれて部室に置いていたものだ。
他の部員の作品も多数あり、その所為でごった返しているから、とても見栄えがよくなっているとは思えない。
ただ、だからこそ汚れても構わないような作品を僕は持って来た。
だから、別に気にしなくていいよ、と声を掛けようとしたんだけど、その声は隣に居た茉由魅によって遮られた。
「あなた……幸成君の作品に、なんてことしてくれるのよ!」
「えっ……」
茉由魅は部屋の外まで届きそうな声と剣幕で、その子を怒鳴り付ける。
温厚な性格だった茉由魅の余りの変わりように、部室に居た全員が驚いていた。
当然、僕だってその一人だ。こんなに怒った茉由魅なんて、今まで見たことがない。
「ま、茉由魅、別にこれくらいのこと、僕は気にしないから。ほら、大した傷なんて付いてないし」
僕がそう言って宥めようとすると、茉由魅は像を入念に見回し、「ここ」と言って、猿の右腕を指差した。確かにちょっとだけ擦り切れてるけど、それが気にする程のものとは思えない。
しかし、茉由魅は再び女の子を怒鳴りつける。
「小さな作品だからこそ、こんな傷でも目立ってしまうのよ! あなた、それを分かってるの!!」
「ご、ごめんなさい……」
元々大人しい性格だったその子は、茉由魅の余りの剣幕に、既に半泣きになっていた。
その後、何とか僕が宥め賺して、茉由魅はようやく落ち着いた。
しかし、怒鳴られた子は、それ以降茉由魅を見る度に怯えるようになってしまい、それが部に与えた影響は決して浅いものではなかった。
そして、同じような出来事が、後に何回も続くことになる。
とある日、活動中に作品を彫り終わった僕は、像にニスを塗って窓辺で乾かし、その間茉由魅と談笑していた。
その時、ある男子部員が、乾かしていることを知らずに、作品に触れようとしてしまった。
この時の茉由魅の怒りようも凄かった。
「幸成君が丹精込めて彫り終わった作品の仕上げを、台無しにするつもり!!」
その子は慌てて謝っていたけど、その表情は困惑の色を隠せていない。
それも当然だ。大学の部活動とはいえ、それに取り組むときは誰しも本気になる筈だ。
現にその時僕が作った像も、手を抜いたものなどでは決してない。
けれど、茉由魅が怒鳴る程の重要なものなのかといえば、それはそうでもないというのが実際のところだ。
何かの展示や賞に出すわけでもない、ただ趣味として作りだした、その程度のものなのだ。
この他にも茉由魅は、同じようで事で何回も部員に対して憤りを見せていた。
それとは別のことでも、茉由魅が異常な態度を見せたことがある。
それは、休みの日に、一人暮らしをしているアパートに茉由魅を招き、木彫りをしていたときのこと。
何故彼女を家に招いておいて木彫りをするのかといえば、それは僕が木彫りをしている姿を見るのを、茉由魅が好きだからである。
元々僕は、休日にはいつも日がな一日木彫りをしている。
だから、その日の過ごし方も茉由魅が居るか居ないかの違いぐらいしかなかった。
ここは、実家の工房のように勝手は良くないが、今まで作ってきたのは小型のものばかりだし、レジャーシートや新聞を敷けば、部屋を汚すこともない。
ただ、木くずが舞ってしまい、掃除を行っても部屋の中が埃っぽいのが、多少の悩みの種ではあるんだけど。
この日は堅い材質の桂材を彫っていたのだが、それが仇となったのか、力を入れ過ぎてしまい、誤って指先を切ってしまった。
とはいっても、ホントにちょっと切ってしまっただけで、大したことはなかったのだけど、それに対する茉由魅の反応はヒステリック染みたものだった。
「ゆ、幸成君大丈夫!? 早く手当てしないと。救急箱ってどこにあるの?」
「救急箱は無いけど、別に大丈夫だよ。これぐらいなら、洗って絆創膏でも貼っておけば――――」
「駄目だよっ、ちゃんと消毒もしないと! ばい菌でも入って指が使い物にならなくなったらどうするの?」
「そんな大げさな……」
「とにかく待ってて!」
茉由魅はそう言うと、慌てて近所から手当の道具を一式買ってきた。
そして、手当てを済ませると、掛り付けの医者を紹介するとまで言う。
流石にそれは遠慮した。が、ここまで来ると然しもの僕でも辟易する。
彼女のことは好きだ。
でも、この行き過ぎた行動は、いくらなんでも目に余るものがある。
「俺が何の話をしたいのか、お前なら分かるだろ、佐土原」
「茉由魅のこと……ですね?」
「ああ」
部内の茉由魅への不満は、徐々に募っていた。
そしてそれは、茉由魅にきちんとものを言えない、僕へも伝播した。
僕と部長以外、誰も居ない美術室が、夕焼け色に照らされる。
活動の無い日に、僕だけ美術室に呼び出された時点で、何を言われるのかは分かっていた。
僕も、ついに覚悟を決めなければいけないときが来たのだ。
「あいつは俺が何を言っても聞きやしねぇ。椿が言うことを聞くのはお前だけだ。情けねぇ話だが、あいつのことはお前に任せたい。頼むぜ佐土原、でなきゃ最悪は……」
「……分かりました。その時は、僕も一緒に部を止めますよ」
部長は頷くと、僕の肩に手を置き、「すまんな」とだけ言って、そのまま部屋を出ていった。
……一体、何と言って茉由魅を説得すればいいのだろうか。
今日は人が来ないから、ここでじっくり考えていくのもいいかもしれない。
そう思い、手近な席に座ろうとしたとき、扉の開く音が聞こえた。
部長が戻ってきたんだろうか? そう思って扉を見ると、そこに居たのは思いもよらぬ人物だった。
「ま、茉由魅!?」
「どうしたの、幸成君? そんなに驚いた顔して。私がここに居ることが、そんなに不思議?」
「だって、僕が今日用事あるからって言ったら、先に帰るって言って……」
茉由魅は部屋に入ると僕の傍まで歩み寄った。そして、僕が鞄に付けていた猫のキーホルダーに手を伸ばす。それは、茉由魅から貰ったものだ。
「茉由魅?」
茉由魅は猫の背中のファスナーを下ろす。このキーホルダーは、芳香剤を背中のファスナーから入れて、香りを楽しむものだ。
当然、中には芳香剤が入っている筈なのだが、茉由魅が中から取り出したのは、小さな黒い金属の塊だった。
「あれ、そんなもの入ってたっけ?」
「これはね…………盗聴器よ」
「えっ……」
茉由魅は笑みを浮かべていた。
いつも僕に見せてくれるものと、なんら変わらない笑み。
だけど、変わらない筈なのに、何故か背筋が震える。
「じゃ、じゃあ僕と部長の会話を――――」
「ええ、聞いていたわ。私の話、してたよね?」
そう言った茉由魅の顔には、もう先程の笑顔はない。
「私は幸成君の作ったものが好きで、大切にしてるだけなのに、何であいつらから口やかましく言われなきゃいけないの? 私には分からないわ」
茉由魅の声音から、部員に対しての鋭い棘のような嫌悪の念を感じた。
その表情も、まるで仇敵を前にしたときのような、険しいものだ。
本当に茉由魅は、自分が何をやっているのか分かっていないのだろうか?
盗聴器をプレゼントに仕込んで付き合っている彼氏に渡すなんて、正気の沙汰とは思えない。
ここで彼女を止めなければ、取り返しのつかないことになってしまうような気がする。
僕はここにきてようやく、事の重大さを理解した。
「茉由魅……これから僕が言うお願い、聞いてもらえないかな」
「どうしたの、改まって?」
先程の表情から一変、茉由魅は元の笑顔に戻っている。
「…………」
僕が……僕が言わないと駄目なんだ、彼女の為にも。こんなところ怖がっていてどうする。
拳を力一杯握り締める。僕は、覚悟を決めた。
「茉由魅が僕と僕の作品を好きになってくれるのは凄く嬉しい。
僕もそれで君のことを好きになったから。
でも、僕や僕の作品の為に周りを……部員の皆に迷惑を掛けるのは止めよう。
君がそこまでする必要はないし、僕もしてほしくない。
それに、そこまでしてくれなくても、僕が君を嫌いになることなんて絶対ないから」
「幸成君……」
茉由魅は神妙な面持ちで黙り込む。
その沈黙が三十秒、いや、一分も経った頃だろうか。
気付けば、茉由魅の表情は元の笑みに戻っていた。
「そうね……私も考えを改めないといけないみたい」
「茉由魅……」
心に圧しかかっていた枷が、全て外れたような気分だ。
良かった、僕の言葉で茉由魅はちゃんと考え直して――――
「そうよね、こんなところに居るから、幸成君の作品が汚されようとするんだよね」
「えっ……」
茉由魅は、瞳を鈍く輝かせていた。
「私達二人の関係にも邪魔が入るし。
……そうだ! 私達だけの場所を作りましょう。
幸成君が安心して彫刻に集中できて、幸成君が作ったものだけを並べて、幸成君も幸成君の作品も、どちらも私だけのモノに出来る空間……」
いつも僕に向けてくれるものとは違う、狂ったような歪な笑みで、さも愉快そうに茉由魅は捲し立てる。何か良くないタガが、外れてしまったような気がした。
未だに茉由魅はぶつぶつと何事かを呟いていて、僕はそんな彼女に対し、恐怖を感じるしかなかった。
茉由魅は、確かに考えを改めてくれた。
でもそれは、明らかに違う方向へ振り切ってしまっていたんだ。
「ふふふ……」
茉由魅は僕の目の前まで来ると、初めて会ったときと同じように、僕の両手を握る。
「待っててね、幸成君……」
そして、そう言い残し、この部屋を後にした。
夕陽に照らされた部屋の壁に、黒いシルエットが浮かび上がる。
それはまるで怯えているかのように、小さく震えていた。
目の前に広がるのは、床、壁、天井が全て真っ白な、大学の講義室程はあろうかという広い部屋。
目が覚めると、僕はそんな部屋に居た。
そこにはポツンポツンと間を空けて、家具が一式設置されていた。
それは僕の部屋にあるものもあれば、そうでない、見た感じ新品のものもある。
思えば、今僕が居るのも白いベッドの上。
多少広いけれど、暮らしていくのに申し分ないぐらいに、ここには物が揃っているように思えた。
一体ここはどこなのだろうか……。
「もしかして……夢?」
「夢じゃないよ」
「!?」
聞き覚えのあるその声に、背筋が凍る。
「私、昨日ちゃんと言ってたでしょ?」
そして、その一言で、僕は今の状況を理解してしまった。いや、理解せざるを得なかった。
彼女は確かに言っていた。『私達だけの場所を作りましょう』と。
傍にあったタンスの陰から、茉由魅が現れる。
「思い出してくれたみたいだね」
「で、でも何で!? 昨日確かに僕は家に帰った筈……」
「幸成君が寝ている間に、家具と一緒に運ばせてもらったわ」
「そんな馬鹿な……。第一、どうやってこんな場所を一晩で確保したんだよ」
「私なら出来る。そんな事、幸成君も知ってるじゃない」
確かに、金持ちの娘だと聞いているし、実際に盗聴器なんてものを用意していた。
でも、だからってこんな馬鹿げたことまでやってしまえるなんて、考え付ける筈がないじゃないか!
「あと、君はここから出ることも出来ないよ。まあ、そのことは置いておいて、それよりも幸成君。
私のお願い、聞いてくれる?」
茉由魅は、僕を見詰めながらそう尋ねる。
「私の為だけに、ここで作品を作って。大丈夫、道具も何もかも、ちゃんと揃ってるから」
彼女の指差す方を見れば、確かに道具は揃っていた。
新品のものがほとんだけど、その中には僕が愛用している彫刻刀もあった。
だけど、事ここに至って、彼女の為だけを思えるほどの、彼女に対しての好意の感情は、僕の中にはもう残っていなかった。
「もし断ったら?」
茉由魅はにこにこと笑みを浮かべ、僕の問いに答える。
「私達は恋人同士だよ。
私はあなたが作りだしたものも、それを作りだすその手も、その手を持つあなたも、
その全てを愛しているの。そんな私の期待に、あなたは応えてくれないの?」
「…………」
「さっきも言った通り、私はあなたの全てが好きだから、あなたを傷つけるようなことは絶対しない。でもね……」
茉由魅は新品の道具の中から、彫刻刀……印刀を取り出し、
「……でもね、自分の体なんて、どうなっても全然構わないの」
自らの手首を、切り裂いた。
「!?」
切り裂かれた傷口から、真っ赤な血が流れ出て、それは腕を伝ってポトリ、ポトリと真っ白な床へ落ちていった。更に、茉由魅は尚も別の場所を印刀で切り裂く。
「な、何をやってるんだよ!! 頼む、頼むから止めてくれ!!」
「私を愛しているのなら……ね?」
僕は、折れんばかりに首を縦に振った。
「良かった……。やっぱり私達って、相思相愛なんだね」
血ぬれた手首をそのままに、茉由魅は僕に抱きつく。
……これで僕は、正真正銘彼女の為だけに、木を彫り続けることになってしまったのだ。
「幸成君、ちょっと待っててね。急いで夕食の材料用意してくるから」
茉由魅はそう言って、分厚い扉を開け、外へ出ていった。厳重に鍵を閉めて。
部屋の外がどうなっているのか知らないけど、恐らく十分もしない内に茉由魅は帰ってくるだろう。
いつものように。
あれから何日経ったのか、もう月日の感覚も麻痺してしまった。
僕が作りだした木彫りの像は、一際大きい真っ白な棚の中に並べられている。
それを見る度に、彼女は笑顔を見せてくれた。
今では、その笑顔を見る為に、僕は木彫りを続けている。
別に、苦しいだなんて思わなかった。彼女の笑顔を見れれば、もうそれでいい。
それに、ここは僕にとって、生きていくのになんの支障もない。
身の回りのことは全て茉由魅がやってくれる。何もかも。
この生活がいつまで続いていくのかは分からない。
ただ、もし仮に終わりがあるとしても、それまでこの工房は閉じられたままなのだろう。
でも、僕は大丈夫だ。
何せ、幼い頃は父に付き合い、ずっと工房に籠っていたのだから。