葵と藍
――二年後――
一人の少女が老人と高級車の後部座席に乗っている。
少女は長い美しい黒髪を二つの三つ編みにして垂らしており茶色に白のラインの入ったセーラー服を身に包んだ清楚な雰囲気。長い睫毛に縁取られた黒い瞳は大きく小さな愛らしい唇と優しげな顔立ちではあるが黒い瞳には強い意志が感じられる。一方老人は白髪頭を綺麗に後ろに流しダークスーツに彫の深い顔立ちだが少女を見る目は優しげだ
「葵、今日から学校だが大丈夫か」
「おじい様は心配しすぎ。編入試験だって高得点だったんだから」
微笑みながら少女は呆れながら老人に言うと老人は一瞬目を見張る。
藍……
そこに嘗て愛した少年の顔を見出し息が詰まるのだった。
あの日海岸で助けた不思議な少女には記憶がなかったばかりか、不思議な言語を操り最初は言葉が通じず、少女もかなり混乱をしてパニックを起こし泣き叫び大変だったが日に日に落ち着きを取り戻して一月もしない内に日本語を日常会話程度ならマスターしてしまい流暢に日本語を話し英語すら話せる程、しかも小学生程度の知識もなかったが今では高校に入学が可能なほどに学力を身に付けた。しかもそれを僅か二年で習得したのだから驚くべき知能の高さだと少女に付けた家庭教師も驚愕するばかり
その間も少女は一向に記憶を取り戻せず身元も分からない為に身元引受人として大沢が引き取り家で孫のように可愛がり暮らし始めたのだ。
それは藍に対する贖罪であるのは間違いない
名前も大沢葵を名乗らせており何不自由がないように生活を送らせ、それを息子達が冷ややかな目で見ているのを知っているが無視をした。
藍は全てを受け入れ優しく包みこむような少年だったが、少女は容姿は優しげで藍には似てはいるが内面は全く違う。記憶をなくしながら気丈にこの世界を受け入れ自分の道を切り開こうとする意志の強さは少女でありながら感嘆せずにはいられない。
自ら高校に通い勉強をしたいと言い出した時もまだ早すぎると反対したが奨学金や定時制で働きながらでも自分の力で通うと言いだすので此方が折れてしまった。
高校を通わすのに反対した理由には人種的には日本人だが一つだけ特殊な身体的特徴があるからだ。
それはあるべきはずの臍がない、人間や哺乳類にあるべき臍がない人間など存在するはずがなく駆けこんだ病院の医者には厳重な口止めをしておいたが世間に知られれば好奇な目で見られるのは必至、少女を守りたいと言う思いが過剰に働き過ぎているのかもしれない
この少女が孫のように愛おしかった。
車が校門の前に停車すると門には私立聖桜花高等学校と書かれており県内でもトップの進学校でそこに入るならと許可したのだが編入試験にほぼ満点で入ったのだから2年前まで日本語すら話せなかったなど信じられない。
「旦那様着きました」
「ああ 本当に着いて行かなくてもいいのか?」
「大丈夫。尚吾さんも居るから」
「そうか」
まるで子供が独り立ちして行くような寂しさが募る。
コン コン
そこへガラス窓を叩く音
「尚吾さんが迎えに来てくれたから行くね」
窓を叩いた少年がドアを開けて少女を促す。
「葵 おはよう! あっ、おじい様お早う御座います」
少年は高身長で深い彫の整った顔立ちの好青年だった。
「尚吾、 葵をくれぐれも頼むぞ」
「はい。 悪い虫が付かないよう確り見張っておきます」
そう言う少年が一番気がかりなのだが、葵が受け入れるならそれはそれで良かった。
大沢尚吾17歳は次男夫婦の長男で葵を任し正式に大沢の一族に入れば自分の死後も安心出来る。
「二人とも私はそんなにもてませんよ。それより尚吾さんのファンに虐められないか心配」
「葵ならやられぱなしは無いだろ。反対に虐める方が心配だよ」
「むぅ 酷い! 職員室には一人で行くわ。 おじい様行って来ます」
「葵待てよ! それではおじい様」
そう言って尚吾を振り切り一人で駆けていく葵を急いで追いかけていく尚吾を見送りながら自分の役目はソロソロ終わりなのかと思い始める。
少女はこの見知らぬ世界を一人で必死に羽ばたき飛び立ととしている今、引き留めるのは年寄り我儘
後は少女を見守っていくしかないのだと登校の生徒達の中に消えていく姿を見詰めるのだった。
藍 お前は一体どこで何をしているのだろう
もしあの娘がお前の血縁者なら、何処かで幸せに暮らしているのだろうか
そう願わずには居られなかった。
「葵! 待てって言っただろ」
「話しかけないで。 周りが私に注目するじゃない」
私は成るべく平穏な学校生活を送りたいのでこの酷く目立つ容姿の男と親しげにしたくなかったし、この男の居る学校にも通いたくなかった。
実際今も登校中の生徒達が私達を不躾に眺め、女生徒には敵意のある視線も含まれているのに気付いている。 私の容姿はそこまで人目を惹く程綺麗では無いののを自覚しているので明らかにこの男、大沢尚吾の所為だ
180を超える身長に今時の若者らしいスタイリッシュな髪型に彫の深い顔立ちはハーフのような容姿は何処か甘く女の子の憧れの王子様フェイス。もてない訳がなくかなり遊んでいるとお姉さんの紫さん情報で知っている。
「俺が居なくても葵ならその内に校内で有名になるんじゃないか」
「どうして?」
私のような地味な女が注目されるなんてあるだろうか
「校内順位が張りだされれば一発だろう」
「ご心配なく、その辺は抑える心算だから」
「うー 嫌みな女だな」
「私は目立ちたくないんだから尚吾さんも私には構わないで」
おじい様の手前この男に頼るような事を言ったけど実際は近寄りたくない
嫌いではないけどいやに私にかまって来るので鬱陶しいのが本音
恐らく私の境遇を面白がって興味本位なのだろう
何しろ私には2年以前の記憶がなく記憶喪失と言う脳の疾患を患っている。
目を覚ました時自分の名前や親のすら思い出せない恐怖は今でも時折思い出したようにパニックの発作が続いており、しかも私は日本語はおろか地球上に存在するかどうか分からない言語を話していた。
一体自分は誰なんだろうと絶望で最初は暴れ泣き暮らしたけど助けてくれたおじい様の愛情と援助のお陰で立ち直り何不自由なく暮らせるのを感謝している。
年頃の近い孫である兄弟を紹介されたのは一年程前で、姉の紫さんは派手な美人ながら確り者で優しくしてくれ本当の姉のような存在だけど弟の尚吾さんは最初は無関心で冷たかった様に思っていたのだけれど何時の頃から犬のように擦り寄って来る
「葵は二年に編入するんだろ。どうせなら三年の俺のクラスに編入すればズーッと一緒なのに」
少し拗ねたように言うが大きい男だから可愛いとは言い難い
「心にも無い事を言わなくてもいいですよ。 職員室が見えてきましたので大沢先輩有難うございました。 後は一人で大丈夫ですから」
そう言って軽く会釈して足早に職員室に入って入室し尚吾さんを振り切るのだった。
可愛くない女だと思うけど私は目立ちたくない!
普通の少女が味わう高校生活が送りたいだけ
一応大学まで進学して就職をしてからおじい様にして貰った事を返して行きたいと思っている。もし私を助けてくれたのがおじい様で無かったなら施設に預けられ境遇はもっと違った物になっており今ほど恵まれなかったのは容易に想像できる。
最悪な状況であったけど幸いでもあったと前向きに生きる事を決めた私
私は過去を捨てた訳ではないけど思い出せない物は仕方ないと諦め、大沢葵として生きる事を選んだのだった。
担任の教師は三〇代の数学の横田先生で眼鏡を掛けた神経質そうながら綺麗な顔立ちで女生徒にもてそうで横を歩く私より少し背が高いだけで小柄なのが難点かもしれない
「大沢は帰国子女だそうだがアメリカのシアトルの高校に通っていたそうだな」
記憶の無い事や日常の不自然さを誤魔化す為にそう言う事にしておいた。
「はい。 両親の仕事の都合でずっと向こうで生活をしていたので日本の学校は初めてで少し不安ですが宜しくお願いします」
「礼儀正しいんだな大沢は、きっと両親の躾が良かったんだろ」
「いえそな」
「ご両親はアメリカに留まっているそうだが、今は大沢尚吾の祖父の家から通っているでいいんだな」
「遠い親戚に当たるので大沢のおじい様が快く引き受けて下さったんです」
「そうか。慣れない環境だろうが頑張ってくれ」
廊下を歩きなが身上調査のように聞かれボロを出さないかひやひやしたがどうにか誤魔化せたようだ。
それから2年Aのプレートが掛かった教室に入り、教壇の前に立つと30人近くの生徒達の目が一斉に此方を見ており初めての経験で少し慄いてしまう
社会生活に慣れる為に何度も紫さんと買い物に連れて行って貰ったりして人混みには慣れていたけど教室と言う空間は一種異様に感じてしまう
こんな狭い部屋で同じ年頃の少年少女が整然と机と椅子に納まり同じ服に黒い髪
とても異和感を感じてしまう
何故だろう???
「自己紹介をしてくれ」
「大沢葵と言います」
名前だけ言うと暫らく沈黙が続くと横田先生が困ったように言う。
「それだけか?」
「はい」
記憶の無い私に自己紹介はかなり難問であまり嘘も付きたくなかたので名前だけにしておく
「それじゃあ委員長の三沢に後で学校を案内してもらえ。 席も三沢の席の横だ」
そう言って一人の生徒を指さすと眼鏡を掛けた小柄な少年で大人しそうな印象
席に着く時に一応声を掛けておく
「宜しく三沢君」
「あ… 宜しく」
小さな声で返事をしてくれるが恥ずかしそうに俯いておりかなりシャイな男の子のようだ。 反対の横には女子がいるので後で声を掛けてみようと考える内に女性教師が入って来て古典の授業が始まると教室は教師の声と黒板に当たるチョークの音と生徒が立てる筆記の微かな音しかしない。
考えていた高校生活とは少し違い戸惑う
テレビのドラマで見る授業風景は先生と生徒がふざけ合い楽しそうだったのに
期待とは違ったけどまだ始まったばかりだと授業を静かに聞いていると
「編入生の大沢さんだったかしら、ノートを取らないなんて余裕かしら」
嫌みな感じで私に声を掛けて来る女性教師は私を睨んで来る。
??
「そう言う心算はありません」
「編入試験でもかなり成績だったようだけど前へ出て此方の問題を訳を書いて下さい」
私は言われるままに黒板に訳を書いて行くと益々教師の顔は険しくなってきて、何か間違っているのかと思い書き終わる。
「先生終わりました」
「……正解です。 席に座っていいですがノートは確り取りなさい」
「すいませんでした」
素直に謝り席に着くと授業が再開されたので仕方なくノートに黒板を写して行くがあまり意味が見出せないけどノートを取るのが普通のようだ
普通が分からない私は周囲を良く観察して真似をした方がいいのかも
古典の時間は始終不機嫌な女性教師のせいかピリピリとしたまま終わってしまい休み時間に早速三沢君に聞いてみる。
「三沢君 先生は何を怒っていたの」
「えっ… ノートをとらないから」
「違うわよ」
私の前の少女が振り返って話に割り込んで来る。
「私は中埜乃ノ華よ」
大きな瞳で緩く髪を内巻きに巻いた可愛い少女だ
「中埜さんは理由を知ってるの」
「乃ノ華でいいわ葵。あの古典教師は大沢君に気があるから仲良く登校してきた葵が気に食わないんだけ。 でも女子生徒の半分は同じだと思った方がいいわよ」
どうやら予想以上にモテルようだけど先生まで虜にするとは尚吾さんは何をしたのやら
やっぱり面倒な男だ
「乃ノ華もその一人」
「私は葵と仲良くなって大沢君に近づきたい派」
「そう。じゃあ仲良くしましょ」
ニッコリそう笑うと
「葵て変わってる…そこはひくところよ」
「そうなの? でも目的が分かっているんだから安心だわ」
恐らくこの子はそんなに悪い子では無い気がするし尚吾のファンと言うのも嘘のような気がする。
突然廊下が騒がしくなったと思うと尚吾がドアからヒョッコリト顔を出して私を呼ぶ
「葵!」
絶対に態とだ
私が目立ちたくないと言ったのが逆効果だったと後悔するが遅い
仕方なく立ち上がり乃ノ華に一緒に来ると目くばせすると首を振るので一人でドアに向かいそのまま尚吾さんの腕をとりひっぱて行くと教室で女子達の黄色いどよめきが起こり頭痛がしてきた。
非常階段の人気の無い場所を捜し出して、この無神経な男を睨みつける。
「私を虐めて楽しんでいるなら今後一切尚吾さんを無視するから」
「チョッと心配で見に来た俺にそれは無いだろ」
「古典の美人教師に私は睨まれ、教室に戻ったらクラスメイトの女子に無視される私をどうしてくれるの」
「うっ これからは気お付けるから許して。 それにお昼を一緒にとろうと誘いに来たんだ」
「無理! 学校では私に今後声を掛けないで」
そう冷たく突き放すが全く意に介していなさそうな男
「ちぇっ 折角学校で頻繁に会えると思ったのに… なら土日に遊ばないか」
「おじい様と出かける予定。 私を誘わなくても尚吾さんなら相手に困らないでしょ」
「じじいがライバルかよ… 俺の方が断然いい男だし若い!」
以前は気持ちが良いくらい私に無関心だた男がこれではまるで私に気があるようだと勘違いしてしまいそう
「最近の尚吾さん可笑しいわよ??」
「葵が鈍すぎるんだ! 俺は葵が好きだって何度も言っている」
確かに最近会う度に好きだと言われたけどあまりにも軽い言葉遣いでからかっているのだとばかり思っていた私
「本気だったの……てっきり冗談かと…」
「じじいだって俺が葵を狙っているのを知っているけど何も言わないのは何故か知ってるか」
「おじい様が!」
おじい様が尚吾さんの気持ちを知っているなんて更に驚く
「どうやら葵の結婚相手に本家の従兄か俺を考えているらしいから気が気じゃないんだ。それに此処に通えば通ったで葵に近づこうとする男が現れないかと心配なんだ」
日本の法律で十六歳から結婚出来るのは知ってるけど晩婚が進む日本で今から結婚なんて考えられない。本家の従兄と言えば二十六歳になる将人さんと大学生の有紀さんだけど二回しか会っていないけど私に対しいい印象を持っていなかったような気がするんだけど
「私より綺麗な娘なんて大勢いるのにそんなにもてるはずないでしょ」
「葵は分かってない! 確かに容姿は地味目だけどその凛とした態度や立ち振舞いが綺麗で人目を惹くし段々葵の魅力に気付くと男どもが絶対寄って来る!」
地味……
華やかな紫さんを毎日見ているから仕方がないよね
「/// 有難う 最初は引っかかるけど」
「ゴメンでも俺にとって葵は世界一綺麗だ! だから付き合ってくれ」
必死に私を見つめる
本気だろうかとマジマジと尚吾さんを見詰め返すと何を勘違いしたのか抱きしめて来る。
「きゃっ」
「絶対大事にするから俺を選んでくれ」
初めて男の人に抱きしめられドギマギするが尚吾さんを好きかと言われると分からない
分からない=愛していない
そんな図式が思い浮かびこのまま大人しく抱きしめられていると身の危険を感じ思いっきり足をかかとで踏みつける。
ガッツン!
「ぐっ!!」
私から離れると恨めしそうに私を見る
「私は尚吾さんをそう言う対象とは見ていない様なのでゴメンなさい」
ぺこりと頭を下げる。
「俺の事嫌いか」
「嫌いじゃないわ」
「それじゃあ可能性はあるんだろ! これからガンガン攻めていくから宜しく」
「はぁ?!」
私は反論しようとするが脱兎の如く非常階段を嬉しそうに駆け降りて行く尚吾さんを呼び止めるのは不可能だった。
「こうなったら尚吾さんに近づかなよう避けなくちゃ」
そう思いながら非常階段のノブを回し扉を開くとそこから傾れ出るように女子達
「「 …… 」」
気まずい沈黙が続く
女の子の集団はやわらと立ち上がると私を睨みつけながらその場を急いで立ち去るのを見送るが、尚吾さんが私に告白した事が学校中に知れ渡るのは時間の問題だと悟ってしまった私
「もしかして尚吾さんに謀られた?!」
これで私は嫌でも目立ち普通の高校生活とは程遠い生活を送りそうで暗たんとした気分に陥る。
「こうなったら普通でいるのは辞めよう。 攻めこそが最大の防御よ」
記憶喪失の私には平穏を望めないのかもしれないが最大の敵が尚吾さんだと認識してしまった私
「覚悟して下さいね尚吾さん」
身勝手な男に私の鉄槌を下すべく思案するのだった。