饗宴のフォボス
【MMX(火星衛星探査計画)について】
MMX(Martian Moons eXploration)は、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が主導する火星衛星探査計画です。2026年10月に打ち上げられた探査機は、火星の二つの衛星、フォボスとダイモスを観測し、とりわけフォボスの表面から試料を採取して地球へ持ち帰ることを目指しています。帰還は2031年に予定されています。
フォボスがどのように生まれたのかは、現在も解明されていない問題の一つです。火星の重力に捕らえられた小惑星なのか、あるいは火星への天体衝突によって生じた物質から形成されたのか。持ち帰られた試料の分析は、その起源を解明するための重要な手掛かりになると期待されています。
本作は、この実在する探査計画を背景に、フォボスの遠い未来と、それを見届けたいと願う一人の科学者を描いたフィクションです。
病室の窓辺に、フォボスの写真が飾られていた。
探査機が撮影した画像を大きく引き伸ばしたもので、火星の赤褐色を背景に、不規則な形をした小さな天体が浮かんでいる。表面には無数の窪みが刻まれ、光の当たらない部分は深い影に沈んでいた。写真の余白には、色とりどりのペンで名前や短い言葉が書き込まれている。
私は、その中に見覚えのある名前を見つけた。紀子がまだ研究室にいた頃、講演会のあとで一度だけ紹介された若い研究者だった。あのときは、まだ大学院生だったはずだ。
長谷川紀子は、ベッドの上から写真を見つめていた。寄せ書きを読んでいるのではなかった。彼女の目は、窪みだらけの表面と、そこに落ちる影を静かにたどっていた。
「よく撮れているでしょう」
彼女が言った。
「ああ」
「実際に近くで見たら、もっと違うのかもしれないわね」
私は写真を見直した。フォボスがどれほどの大きさなのか、表面の窪みがどれほど深いのか、画像だけでは分からないこともある。彼女は、そういう分からないことを話すとき、いつも少し楽しそうだった。
膵臓癌が見つかったのは、数か月前だった。すでに転移があり、彼女は医師から今後の見通しを聞かされていた。私たちは大学時代からの友人だったが、家族ではない。病院から病状の説明を受ける立場にはなく、彼女が話してくれることだけが、私に知り得るすべてだった。
私が小説家になり、彼女が惑星科学者になってからも、私たちの付き合いは続いた。
大学の天文サークルで出会った頃から、私は彼女が好きだった。彼女に好意を寄せる男はほかにもいたが、紀子は誰の思いにも応えなかった。私も自分の気持ちを告げないまま、彼女の隣にいることを選んだ。
彼女はフォボスの研究を続けた。
火星には二つの衛星がある。大きい方のダイモスと、小さい方のフォボス。どちらも不規則な形をしているが、フォボスは火星に近い軌道を回り、少しずつ火星へ近づいている。いずれ火星に衝突するのか、それとも潮汐力によって砕かれ、環をつくるのか。遠い未来に起こると考えられているその変化を、私たちが生きている間に見届けることはできない。
紀子は、フォボスがどこから来たのかを知りたがっていた。
火星の重力に捕らえられた小惑星なのか。あるいは、遠い昔に火星へ天体が衝突した際、飛び散った物質から生まれたのか。どちらの説にも説明すべき点が残されており、決定的な結論は出ていなかった。
彼女は、答えが出ないことを嫌っていたわけではない。ただ、答えが出ない理由を知りたがった。何が分かっていて、何が分かっていないのか。どの観測が足りず、どんな証拠があれば仮説を確かめられるのか。彼女の話を聞いていると、分からないという言葉は、考えることをやめる理由ではなかった。
私は彼女の話を聞き、家に帰ってから小説を書いた。彼女が研究の進展を語るときも、仮説が崩れたときも、私はその話を聞きたかった。研究の内容をすべて理解できたわけではない。それでも、彼女が何を知ろうとしているのかを聞いている時間は、私にとって何にも代えがたいものだった。
「今月打ち上げられたMMXが帰還するまでは、生きたかったな」
紀子が言った。
MMXは、フォボスから試料を採取し、地球へ持ち帰ることを目指す探査計画だった。採取された物質を詳しく調べることで、フォボスの起源をめぐる謎に新しい手掛かりが得られると期待されている。
「帰還まで、五年くらいか」
「そのくらいね」
「まだ五年ある」
口にしてから、私は自分の言葉が空疎に聞こえるのを感じた。
紀子は窓の外を見た。
「私の人生の中で、五年はあっという間の時間だったわ。でも、これから五年は、さすがに無理だわ」
私は何も言わなかった。
紀子は、もう一度フォボスの写真を見た。
「今の軌道から考えると、数千万年後には火星に衝突するか、砕けて環になる可能性があるとされているでしょう。二〇二六年にも、フォボスの潮汐崩壊を数値シミュレーションで検討した論文が発表されたのよ。でも、五千万年後に何が起きるのか、まだ分からないことも多い」
「五千万年だぞ。人類の歴史を何度繰り返しても、届かない時間だ」
「ええ。私たちが死んだあと、文明がいくつ生まれて滅びても、その先にある時間よ」
「私は、それを見届けたいのよ」
彼女は淡々と言った。
「私、生まれ変わりたいわ。何度でも。そうして五千万年後までフォボスを追い続けたい。火星に落ちるのか、砕けて環になるのか。その瞬間を、自分の目で見たいの」
私は、彼女が生まれ変わりを事実として信じているわけではないと知っていた。それでも、五千万年の先にあるものを見届けたいという願いは、彼女にとって嘘ではないのだろう。
「プラトンの『饗宴』に、アリストパネスが人間の起源について話すところがあるだろう」
紀子が写真から目を離した。
「人間は、もともとひとつだったという話?」
「そう。半分に分けられた人間が、失われた片割れを探し続ける」
「あなたは、そういう話が好きだったわね」
彼女はそう言って、またフォボスに目を戻した。窓から差し込む夕方の光が写真の表面をかすめ、無数の窪みに細い影を落としていた。私には、窪みだらけの不格好な石にしか見えなかった。
「君にとっての片割れは、フォボスなのかもしれないな」
紀子は答えず、写真の端に書かれた誰かの名前を指先でなぞった。やがて、こちらに顔を向ける。
「ずいぶん勝手なことを言うのね」
「小説家だからな」
「便利な職業ね」
彼女の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。私は枕元の水差しに目をやり、それから彼女を見た。
「科学者ほど、正確でなくてもいいからね」
「それは違うわ」
彼女は、すぐに言った。窓の外では、夕暮れが建物の輪郭をゆっくりと暗くしていた。
「小説だって、嘘をつくなら、嘘をつく理由が必要でしょう」
私は返事をせず、彼女の横顔を見ていた。大学時代から、彼女は私が分かったつもりでいると、そうして話の先を塞いできた。
「君の研究には夢があったんだ」
「夢じゃないわ。科学よ」
「分かっているよ」
「いいえ。あなたは、分かっているつもりなのよ」
紀子は写真へ視線を戻した。窓の外を走る車の音が、しばらくして遠ざかった。
「科学は、望んだ答えを見つけるためのものじゃないわ。自分の仮説が間違っていると分かれば、考えを改めなければならない。何十年研究しても、答えが出ないことだってある。それでも調べるの。知りたいから」
彼女は、そこで言葉を切った。
「夢に科学の力で追いつくのよ」
その言葉を、私は覚えておこうと思った。
病室の窓は暗くなり、写真の表面には室内の照明が映っていた。フォボスの輪郭は、光の反射の中で少しぼやけていた。
私は彼女を愛してきた。彼女は私を愛さなかった。それでも、私たちは長い年月を友人として過ごしてきた。私は彼女の研究の話を聞き、彼女は私の小説を読んだ。彼女が私の隣にいてくれた時間を、私の望むものに置き換えるつもりはなかった。
それでも、もし本当に生まれ変わることができるのなら、私も何度でも生まれ変わりたい。
彼女が何を見ているのか、私には最後までわからないだろう。それでも、彼女が何度生まれ変わってもフォボスを追い続けるのなら、私もそのたびに彼女の隣にいたいと思う。
彼女が何度でもフォボスを愛するように、私も彼女を愛したかった。
輪廻転生があるのなら、そうであってほしい。
「紀子。いい話を思いついたよ」
私は彼女に言った。
「ありがとう。やっぱり君と話していると、物語が思いつくよ」
そう言ってから、私は彼女の顔を見た。彼女は何も答えず、窓辺の写真に目を戻していた。
彼女は五千万年後のフォボスを見届けたいと願っている。私は、その願いを聞きながら、自分が彼女と過ごせる時間の終わりを、まだ考えないようにしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
火星の衛星フォボスは、現在も少しずつ火星に近づいています。遠い未来、火星に衝突するのか、それとも砕けて環を形成するのか。その結末を私たちが見届けることはできません。
それでも、まだ分かっていないことがあるからこそ、知ろうとする人がいます。
本作の紀子にとって、フォボスは単なる研究対象ではありませんでした。彼女が見つめていたのは、天体の起源や未来だけでなく、自分が生きている時間のはるか向こう側にある世界だったのかもしれません。
人が一生のうちに知ることのできるものは、限られています。けれど、誰かが問いを残し、別の誰かがそれを引き継ぐことで、人間の時間を超えて続いていく探求があります。
五千万年後、フォボスはどのような姿をしているのでしょうか。
その答えを知ることができなくても、知りたいと願うことには意味がある。私はそう考えながら、この物語を書きました。
改めて、読んでくださった皆さまに感謝いたします。




