今年の桜
毎年、春の終わりが近づくと思う。今年の桜こそが、これまで見た中で最も美しいと。
桜の季節も終わったある日、友人がスマートフォンを見せてくれた。画面には、零れ落ちるような見事な枝垂れ桜が映っている。
「昨日、これを見に行ってきたの。実はよそのお墓にある桜で、樹齢二百年にもなるらしいわよ」
その言葉に背中を押され、わたしはすぐに現地へ向かうことに決めた。 新しく買い替えた車は、従来のカーナビではなくスマホと連動するシステムだ。わたしの絶望的な方向音痴には、かつてのナビは太刀打ちできなかった。ナビがありながら、道に迷う不思議体験なら、一晩中でも熱く語れる。
だが、最新のスマホナビは、なんとかわたしを目的地に連れて行ってくれている。りんごに感謝だ。
それなのに……わたしの能力がここで発揮された。気づけばわたしは、見知らぬ他人の家の敷地に入り込んでいたのだ。
親切なその家の人は、平謝りするわたしを誘導してくれた。
細い道をバックで戻る。情けなくて、心の中で泣きべそをかいた。
少し広い場所に車を止めて、そこからは歩くことにした。
道は次第に細くなり、周囲の家々はひっそりと静まり返っている。
スマホの画面に表示される矢印は、磁石を近づけたように頼りなく揺れ始めた。
案の定、わたしはまた道に迷った。低い垣根の切れ目を通り抜けると、そこにはまた別の、知らない庭が広がっていた。
苔が深く息づき、古井戸の影に白い花びらが一枚、ゆっくりと舞い落ちる。 戻ろうとしたが、今来たはずの道は霧に巻かれたように判然としない。足がすくんだその時、縁側の障子が静かに開いた。
「おや、迷い子さんかな」
現れたのは、白髪混じりの柔らかな目をした人だった。
「すみません、桜を見に来たはずが……」 わたしが消え入るような声で答えると、その人は庭を見渡して穏やかにうなずいた。
「たまに、迷い込む方がいらっしゃるのですよ」 その人は庭の奥にある古びた木戸を開けた。
「ここを抜ければすぐですよ」
と道を指し示した。
礼を述べて外に出ると、そこは拍子抜けするほど真っ直ぐな道で、スマホのナビも正気を取り戻していた。 たどり着いた墓地で、枝垂れ桜は空から夢を垂らすかのように咲き誇っていた。二百年の歳月が、無数の花弁となって静かに揺れている。 やはり、今年の桜が一番美しい。
後日、友人と喫茶店でお茶を囲んだ。
「例の桜、見に行ってきたわよ」と言うと、友人は顔を輝かせた。
「でしょう? 本当に素晴らしかったでしょう」
「ええ。言葉がいらないほどに」
「写真は撮ったの?」 友人の問いに、私は少しだけ言いよどんだ。
「それが……一枚もないの。全部、失敗してしまって」
その時、耳元でくすくすと、いたずらっぽい笑い声が聞こえた。
「お嬢さん、少し困らせすぎてしまいましたかな」
それは、あの日庭で出会った人の声だった。
『もう、お嬢さんじゃないけど』とそこじゃないことを思ってしまった。
向かいの友人は気づかぬまま、穏やかにお茶を飲んでいる。 証拠の一枚も残せなかった夢の日の記憶は、温かなお茶の湯気とともに、わたしの胸の中へと静かに溶けていった。
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