【第2部】第15話:動揺する憎悪
一方、アンダルスの本国へと通じる北方の平野部。
五万の聖王国軍別働隊を迎え撃つために布陣、いや待機していたのは、エリオとシャルロッテ。
通常ありえない展開だが、圧倒的な力を持つ二人だからこそ、実現出来る陣形だ。
「……来ましたわね」
地平線を黒く染める軍勢を見据えながら、シャルロッテがポツリと呟く。
「ああ。五万ってところか。……おい、シャル。お前、顔赤いぞ。熱でもあるのか?」
エリオが心配そうに覗き込むと、シャルロッテはビクッと肩を震わせ、慌てて数歩距離を取った。
「ち、近寄らないでくださる!? わ、わたくしは至って普通ですわ! か、構わないで!」
「わ、分かったよ……。あの……、なんだ……その……」
エリオが、少し照れた表情を浮かべる。
「な、なんですの? 言いたいことがあるなら、言いなさいな」
エリオは、すうっと息を吸うと、意を決して声にだす。
「この戦いの後、時間があったら、俺と一緒に……」
「わーー!!!!」
シャルロッテは両手で耳を塞ぎ、顔を真っ赤にして首を横に振った。
「シャル?」
「聞きたくもありませんわ! これから戦闘があると言うのに!」
あの日、エリオに腹部を殴られて気絶して以来。
シャルロッテはエリオとまともに目を合わせられなくなっていた。
頭の中に、ずっと彼の『惚れた女のことくらい……』という言葉がこびりついて離れないのだ。
「あ、ああ、そうだな。じゃあ、また後でな」
エリオは、シャルロッテを守るべく、少し前に飛び出していった。
今までは意識したこともない、小柄な背中。
変わっているはずはないのに、今はより頼もしく見えてしまう。
またしても、シャルロッテの顔が赤面していく。
「ええい、もう! わたくしの心を乱す鬱憤、あいつらに八つ当たりしてやりますわ!」
シャルロッテは、静かに目を閉じた。
どす黒い憎悪。世界を百回破壊しても物足りない、深淵の世界。その奈落から、汲み上げてくる泥のように冷たい何かに手を伸ばす。
だが……。
「え……」
シャルロッテは、確かに深淵を掴んだ。だが、その深淵は冷たい黒ではなく、温かな黒へと変わっていた。
いつものように、シャルロッテのクオリアから出現する思念体。
影から這い出してきた『思念体』たちは、一つ一つの殺意や強度はかつてと何ら変わらない凶悪なものだったが、その『数』が決定的に足りなかった。
かつてエジプーシャを埋め尽くした三千を超える悪魔の軍団はそこにはなく、現れたのはせいぜい数百体。飽和攻撃に対しては、隙間が出来てしまう数である。
「なんで……」
動揺するシャルロッテを他所に、その光景を目にした聖王国軍別動隊は歓喜に満ちていた。
北方の雄メンデルを倒した紅蓮の戦姫。
数千とも呼ばれる戦姫の思念体が、事前予想よりも大きく下回っている。
前方の空。
ちょうど本隊が戦っている辺りに浮遊している魔導戦艦三隻。
聖王国の指揮官たちは、戦場全体にかかっているクオリア阻害の効果が劇的に出ていると思い込んだのだ。
『戦姫は無視し、アンダルス首都を制圧せよ』
この任務を受けた別動隊にとって、千載一遇のチャンスであった。
聖王国軍は横に広く展開し、一気に前進を開始した。
迫る敵軍の波……。
だが、シャルロッテは、ひどく混乱していた。
冷たく、どこまでも暗く、死と隣合わせだった深淵を覗くことができなくなってしまっていた。
『惚れた女のことくらい……心配させろっ!!』
その記憶が蘇るたび、彼女の胸の奥で、静かに角砂糖が溶けるような音がした。
真っ黒で苦いはずの憎悪が、ほんのわずかな、しかし決定的な『幸福』の予感によって、ひどく甘く、緩やかに濁っていく。
(先生の死を……、その鮮烈な喪失を……、自分は手放そうとしているのか)
冷たい雨の降る世界で、ただ一人凍えることを選んだはずなのに。
誰かが差し出した不格好な毛布の温もりに、あろうことか身を委ね、安堵しようとしている自分がいた。
復讐という名の絶対的な使命を、たかだか個人のささやかな平穏で上書きしようとする、ひどく凡庸で、醜悪な裏切り。
(ああ、なんて私は……)
己の憎悪の枯渇が、召喚数の激減に直結していた。
クラウスへの絶対的な愛を『幸せ』という名の麻酔で薄めようとしている自分自身が、たまらなく恐ろしく、そしてひどく汚らわしいものに思えた。
シャルロッテは顔面を蒼白にし、泥にまみれることも厭わず、その場にへたり込んだ。
「作戦通りだ! あのバケモノには直接関わるな!」
司令官の号令のもと、聖王国軍が雪崩を打って突撃を開始する。
数百の思念体は、接触した聖王国兵をいとも容易く両断し、確実に命を刈り取っていく。個々の戦闘力は、間違いなく最強の『戦姫』のそれだった。
だが、たった数百の駒で、五万の軍勢の足を止めることなど物理的に不可能だ。
「隙間を抜けろ! 無視してアンダルスの都市部へなだれ込めェェッ!」
聖王国軍は、思念体が暴れ狂う死地を大きく迂回し、がら空きになった平野の隙間を川の水のようにすり抜けていく。
「なっ……! 野郎ども、シャルを無視しやがった!?」
エリオが舌打ちをした時、統率の乱れた敵兵の一人が、へたり込んでいるシャルロッテの無防備な背後へと槍を突き出した。
「死ねェッ!」
瞬く間にシャルロッテの元へ駆けつけたエリオが、突風を纏う風槍の一閃で、敵兵を容赦なく両断した。
「どうしたんだシャル! 何かあったのか?!」
「エリオ……わ、わたくし……っ」
シャルロッテの声は、迷子になった子供のようにひどく震えていた。
焦点の合わない琥珀色の瞳からは、止めどなく涙が溢れ落ちている。
彼女が使い物にならないと悟った聖王国軍は、少数の足止め部隊だけを残し、エリオたちを完全に置いてけぼりにしてアンダルス本国へと侵攻していく。
「チッ、完全に抜かれた! 追うぞ、シャル!」
「……っ!」
圧倒的な力で無双するはずだった絶対の戦姫。
だが、その心に生じた『温かな綻び』と、聖王国の冷静な戦術は、アンダルスの防衛線に最悪の事態を招こうとしていた。




