【第2部】第2話:最強の種
時を同じくして。
アンダルス東部、乾いた風が吹き荒れる国境の荒野。
地平線を真っ黒に染め上げ、重々しい足音を轟かせて進軍してくるエジプーシャ軍・総勢三万の軍勢。
アンダルスが何やら開戦の準備をしていることは、彼らも諜報員からの情報で掴んでいた。
そして、先ほど届いた宣戦布告の報を受け、前回の雪辱に燃えるエジプーシャ軍は早々にアンダルスとの国境まで迫っていたのだ。
かねてより聖王国から潤沢な支援を受けた彼らの装備は最新鋭であり、雪辱を晴らす喜びに兵士たちの士気も極めて高かった。
だが、その怒涛の大軍勢の歩みは、国境線の中心でピタリと停止することとなる。
彼らの視線の先、荒野の真ん中に、たった一人の美しい女性が優雅に佇んでいたからだ。
服装は戦闘に似つかわしくない真紅のドレス。
波打つ赤毛は激しい動きの邪魔にならぬよう、後頭部の低い位置で緻密に編み込まれ、一つに結い上げられている。
だが、漆黒の鞘に収められた長剣を大地に深々と突き立て、その柄頭に両手を重ねて仁王立ちする様は、装いの令嬢らしい雰囲気とは対極的なものであった。
「はっはっは! なんだあれは! アンダルスの連中、ついに狂ったか!」
エジプーシャ軍の総司令官が、馬上で腹を抱えて大笑いする。
「美女を差し出して、降伏のつもりか! だが残念ながら、聖王国は降伏を認めない。女! 大人しく道を開けよ!」
シャルロッテは、動かない。
それどころか、クスクスと笑う。
「あら、これが降伏に見えましたの? さぞかし『幸福』な頭をしてらっしゃるのですね?」
「ふふふ、知っているぞ。クオリア関連のトラップでも仕込んでいるのだろう? だが、その手には乗らん!」
司令官は、手を上げる。
彼の指示により、陣形の中央に配置された魔術部隊が、聖王国から供与された巨大な魔導具を起動させた。
大型の『精神撹乱装置』である。
同じ轍を踏まないよう、この瞬間のために用意した、クオリアを根源から封じ込めるアンチ・アーティファクト。
しかも、その出力は従来型の比ではない。
「よし、念のため、あの女と周囲のクオリア数値を計測しろ!」
「はっ! ……観測班より報告! 対象と周囲のクオリア反応は……ゼロです! 完全に消失しています!」
報告を聞き、司令官は醜悪な笑みを深めた。
「これで詰みだな。女! 当てが外れて残念だったな。慰みものにでもしてやるから、ありがたく思うんだな。全軍進撃!」
三万の兵士が、行動を再開する。
じわりじわりと、押し寄せる兵士の波。
その圧を前にしても、シャルロッテはドレスの裾が風で乱れるのを気にするように、軽く手で払うだけだった。
「ああ、やはり『幸福』の世界に生きていらっしゃったのですね」
迫り来る数万の軍勢を見据えながら、シャルロッテは退屈そうにため息をつき、美しい唇を不敵に歪めた。
「機械に頼り切った愚か者というのは、本当に救いようがありませんわね」
彼女は、右手に持っていた漆黒の長剣を、オーケストラの指揮棒のように優雅に天へと掲げた。
「それにしても、三万に対してわたくし一人では、いささか退屈……いえ、あなたたちにとってハンデが過ぎますわね」
シャルロッテの琥珀色の瞳が、漆黒に染まる。
世界への純粋な殺意・憎悪。
シャルロッテの四肢から溢れ出る悪意のクオリア。
大気が悲鳴を上げる。
巨大な精神撹乱装置の魔石が、クオリアの圧に耐えきれず、ひび割れ、粉々に砕け散っていった。
「なっ……!? 魔導具が破壊されただと!? さっきゼロだと言ったではないか!」
「そ、そんな……」
兵士たちが動揺する。
ただ単純に前例がなく、観測兵が忘れていただけである。
許容量オーバーによる計測不能は、計器上『ゼロ』と表示されることを……。
「ですから、少しだけ駒を増やして差し上げますわ」
シャルロッテの周囲の地面がどす黒く染まり、そこから泥が湧き出すようにして、無数の『影』が立ち上がっていく。
一体、十体、百体、千体……。
その数は瞬く間に三千に増えた。
実体化したそれは、ただの影ではない。
シャルロッテのクオリアによって構成された、完全な質量を持つ『思念体』の軍勢。
そして、その三千体の思念体の姿は全て、甲冑を纏い、瘴気に包まれた長剣を構えた騎士の姿をしていた。
かつて救国の英雄と呼ばれた後、最悪の犯罪者と呼ばれて死んだクラウス・ガードナーに酷似した無数の思念体。
クラウス本人ですら、数体が限界と言われた思念体の複製召喚。
それを弱冠十八歳の少女が、軍隊レベルでやってのけた。
「な……なんだ、あれは……」
エジプーシャ軍の兵士たちの足が、その異様な光景と、三千の英雄が放つ冷徹な殺気に完全に縫い止められる。
「さあ」
シャルロッテは、真紅のドレスの裾を軽くつまみ、観劇を楽しむ貴族のように優雅にカーテシー(淑女の礼)をして見せた。
「無価値な塵屑ども。楽しい楽しい蹂躙を、開始いたしますわ」
彼女の長剣が振り下ろされた瞬間、三千の『剣聖』が、一糸乱れぬ神速の動きでエジプーシャの三万の軍勢へと襲いかかった。
荒野に、絶望の悲鳴と血の雨が降り注ぐ。
戦闘は、一瞬で終わった……。
文字通り、完全なる全滅であった。
エジプーシャ軍三万は、一人の漏れもなく、荒野の塵となった。
「国家規模にしては軍隊が多いなとは思ってましたけど、こんなオモチャを作っていたなんて、面白いですわね」
シャルロッテは、斬り落とした魔導人形の頭を無造作に踏みつける。
三万のうち、約八割の兵は全て機械人形であった。
心臓部に魔石を備え、それを動力に駆動する機械兵。
「あなたが、司令官ですわね?」
唯一生存した、いや「生存させられた」司令官は、無数の瓦礫と残骸が散乱する荒野にただ一人座り込んでいた。
「い、命だけは! 何でも話しますので!」
「ええ、では、今のエジプーシャにこれ以上の戦闘継続能力は残っているのですか?」
「は、はい! 聖王国から供与された魔導兵がまだ三万はあります。アンダルス本隊を引き付け、長期戦に引き込めと指示が来ておりました」
「そう? ということは、短期でエジプーシャが壊滅したら、それはそれは焦るのでしょうね?」
クスっと、シャルロッテは不敵な笑みを浮かべた。
「こ、これでよろしいでしょうか。み、見逃してくださいますか?」
「ん? ああ、そうでしたわね」
シャルロッテは、クルクルと周囲を見渡す。
「ああ、いましたわ。これをご覧になって?」
司令官がシャルロッテに示されたところを見ると、一匹のフナムシがいた。
「これ、気持ち悪いですわね。わたくしは本当に嫌いで、この虫を殺してくださいませんか?」
「は、はい! 喜んで!」
司令官は、急いでフナムシを踏み潰した。
シャルロッテは、可憐な微笑を浮かべる。
あまりの美しさに、司令官は命乞いも忘れて見とれてしまった。
「いま、どう思いましたか?」
「え?」
「フナムシを殺した時、何を思いましたか?」
「い、いや、何も……」
シャルロッテは、その美しい顔を司令官に近付ける。
「わたくしの気持ち、ご理解いただけました?」
「え?」
刹那、司令官の首が胴から滑り落ちた。
「さて、先生。参りましょう」
シャルロッテは、残した一体の思念体と共に馬に乗り、さらに東へと向かった。




