触れない距離のうた
まだ柔らかさを残す日差しがカーテン越しに覗いている。
その穏やかさに似付かわしくない、キーボードを叩く無機質な小さな連続音。
閉め切られたカーテンが風に揺れる擦れる微かな音色すら遠い。
人々の急ぎ足、求められる即答にはいつも着いていけない。
この世界は──僕には速過ぎる。
置いてけぼりには慣れてしまったけれど、そのままでは生きていけない。
だから、毎朝十五分の日課だけは死守している。
音楽と二人きりの世界でだけ、僕は前を向いていられるから。
ピピ、とアラームが出勤時間を告げ……データをプレイヤーに移す。
ノートパソコンを閉じると同時に椅子が軋み、背が丸まったのを自覚した。
――届かなくていい。けど、届いてほしい。
その呟きは、静かに瞬きへと落ちていった。
*
店長にも他の従業員にも、僕が人間を怖がっていると知っているように扱われている。
優先的に裏方に回してくれて……気を遣わせていることに引け目を抱き過ぎて、お礼も言えない始末の自分がひどく情けない。
「音田くん」
「! は、はい」
「新人さん来たから案内してあげてくれる?」
「はい……っ」
そうだ。今日からだった。
先輩の喉元から、その背後へと視線をうろつかせた一瞬。
僕よりもずっと大きな影。
降ってきた、ウッドベースみたいに響く低音。
「弓塚です」
「──お、音田、です……」
肩肘に緊張が走ってしまって、喉が締まるようだ。
自分を褒めてあげたい。顔は上げられないけど、なんとか名乗り返したのだから。
一瞬の沈黙の後、向かい合っていると気が遠くなってしまいそうで、案内を理由に背を向けた。
つむじや後頭部に視線が刺さっている気がする。気のせいであってほしいけれど、喉が引き攣れてしまって……呼吸を落ち着かせるのに精一杯だった。
まるで足跡を辿るような覚束ない歩みだったと、ちゃんと自覚している。
バックヤードの空いているロッカーを小さく震える指で示すと、彼……弓塚さんの影が頭を下げるのが見えた。
僕が入った時はエプロンの紐の正しい結び方を知らなかったけど、弓塚さんは知ってるんだろうか。
気になって、でも声をかける勇気はなくて、ただ棒立ちになっていた。
すると──
「ひっ」
彼は、屈んで目を合わせようとしてきたんだ。
距離は保ったままだった。
でも、僕は目を見ることも見られることも怖いから、後ずさってしまった。
「ぅ……あ、」
気を悪くしただろうか、謝らないと、怖い、何て言えば。
混乱のつむじ風が腹の底からせり上がるにつれて、息を詰まらせる。
いつの間にか胸の前で握っていた手は、白い温度で震えている。
僕の様子を見た弓塚さんは、眉一つ動かすことなくゆっくりと姿勢を戻した。
そして僕を見ないまま、ほんの一拍だけ、その場に留まった。
気まずい沈黙の中、僕はまた足元に目を落としながら、弓塚さんの後ろを歩いていた。
僕は大きな影を視界に収めるのが精一杯なのに、彼はおそらく、僕に気を遣ってくれている。
三歩──それが僕と世間の一番近い距離だ。
弓塚さんが先輩のもとに戻ったのをいいことに、僕はキッチンにふんわりと広がっているコーヒーの香りで深呼吸。
未だ抜け切らない指先の震えは知らないふりをして、決まった曜日の決まった時間に来る常連客のテイクアウト品の準備を始めた。
開店から二時間が経とうかという頃合いになり、今のうちに十分程の休憩を取らせてもらうことになった。
備品の所在などを弓塚さんが訊ねてくる度に怯えてしまい、いつも以上にエプロンにシミを付けてしまったこと以外は特に問題はない、はず。
一息つこうとロッカーを開けて水分を摂り、イヤホンを着けて今朝のデータを再生した。
スローテンポ寄りの、静かなメロディがバックヤードの片隅で流れ、肩の力が抜ける。
小さな祈りを込めた、小さな曲。
まだ出来上がってはいない。
けれども大切な、自分の切れ端だ。
できているところまで聞き終えてひとつ深く呼吸をし、イヤホンを外した時だった。
コン、と小さな物音に振り向くと、バックヤードの扉にもたれて、弓塚さんがこちらを見ていた。
「……休憩、ですか」
「あ……う、ん」
「それ、落ちてます」
指差された先を視線辿ってみれば、仕事用のメモに使ってるペンが足元に転がっていた。
そういえば、いつの間にか僕との距離を保ってくれてる。
今も、僕が怯えないように……?
……近付きたくないだけ、だよね。
そう思うことにして、少しだけ上げかけた視線を、足元に落とした。
弓塚さんが入って二日目の閉店作業中。
バックヤードで伝票の整理をしていると、先輩の指示で弓塚さんが手伝いに来た。
彼は飲み込みが早くて、どこのポジションでもやっていけそうだ。
僕はホールに出るとパニックに近い状態になってしまうから、正直なところ助かる。
今日だって──
「ホール、無理なら、先に言ってくれれば……代わりますから」
今日だって、混雑の中を助けられた。
責めていないそのトーンが却って痛いようで、撫でられたようで。
いつもはどこか苦しさを覚えている呼吸が、少しだけ楽になった気がした。
今日はお客が少なくて、普段はできないところの掃除に手を出してしまうくらいだった。
雨音が心地よくて、狭いバックヤードで三歩の距離で休憩を取ることに慣れてきていた。
「……さっきの、曲?」
いつも沈黙している弓塚さんの、ウッドベースみたいな声が僕に向けられた。
業務連絡や質疑応答しかしたことないから、何を言われているのか理解が遅れてしまって。
「……歌ってた、やつ」
「──!」
やってしまった。
彼の視線の先、外したばかりのイヤホンを握る手から、胸から、脳天から体温が引いていくのがわかった。
だめだ、切れ端を知られたら、僕の奥底を知られるのと同じだから。
僕のパニックになど気付いていないのか、弓塚さんは靴音を鳴らして、一歩だけ近付いた。
何よりも怖ろしい小さな一歩に、膝下が震える。
「ごめ、ちょっと……」
踏み込まれてしまう前に、逃げなきゃいけない。
それだけが思考を支配している。
でも逃げ場所はバックヤードの奥しかなくて、背を向けて必死に呼吸を宥めた。
僕は、人が怖い。
でも言ったら、終わる気がする。
本当は──誰かと、一緒にいたいのに。
(大丈夫、弓塚さんは、無理に来たり……しない)
大丈夫、大丈夫、と締まる喉元をゆっくり撫でていると、背中越しに声をかけられた。
「……ごめん。怖がらせたく、なくて……」
肩が揺れた。
跳ねたのではなく、ただ、ピクリと。
その低い声は、小さく震えていたから。
額を預けた壁はひんやりとしていて、目頭の熱を少しだけ吸い取ってくれた。
もしかしたら……もしかしたら、似ているのかもしれない。
ざわついた胸の奥に、形にならない何かが残った。
雨上がりのしっとりとした風に形を残しながら、僕は自宅へと駆ける。
息を乱しながらもノートパソコンを起動した。
キーボードを叩く音がこの胸で暴れる鼓動のようだ。
夜を超え、朝日がカーテンを照らす頃には波が静かに伸びていて──画面を撫でた僕の目頭は、また熱くなる。
碌に仮眠も取れないままバイト先に向かう僕の視線は、足元よりも少しだけ先を見ていた。
*
少し回転が鈍い思考をなんとかフル稼働しながら閉店作業を終えて、帰り支度をしているのはもう僕と、弓塚さんだけ。
いつもなら真っ先にアウターに手を伸ばす僕の手に握られたスマホに気付いたのか、彼はふと動きを止めた。
「き、いて……ほしいのが、あって」
目線で頷いた彼。
緊張でスマホが重く感じられる。
四分に満たない曲を、そっと差し出した。
僕たちの切れ端を、彼はどう受け取るだろうか。
少しだけ怖いけれど、僕の視線を縫い留めているのはもう彼の影ではない。
まだ目を合わせる事はできなくても、わずかに震える喉元を、たしかに見ることができた。
メロディの余韻が消えても弓塚さんは少しの間、言葉を探しているようだった。
「……ちゃんと、届いたよ」
会話の最後は、僕の涙が落ちる音。
僕たちは明日もまた、いつもの距離から。




