EP 8
「失意の公爵、荒野の美月」(前編)
翌朝。
アルヴィン公爵邸は、いつになく爽やかな朝を迎えていた。
小鳥がさえずり、執事たちが朝食の準備に追われている。
ルークスは執務室で、優雅に紅茶を啜りながら書類に目を通していた。
(今日の予定は……ああ、国王陛下への謁見の準備を進めなければ。ミツキ殿を紹介すれば、彼女は間違いなく宮廷の華になる)
彼は疑っていなかった。
自分が敷いたレールの上を歩くことが、美月にとっての幸せであると。
バンッ!!
静寂を破り、執務室の重厚な扉が荒々しく開かれた。
普段は沈着冷静な老執事が、髪を振り乱し、血相を変えて飛び込んできたのだ。
「わ、若様!! 大変でございます!!」
「どうした、セバスチャン。騒々しいぞ」
ルークスは眉をひそめ、カップを置いた。
「朝からそんなに慌てて。ミツキ殿ならまだお休みか? 彼女は寝起きが悪いからな、もう少し寝かせてあげるといい」
「ち、違います! ミツキ様が……ミツキ様が、お部屋にいらっしゃらないのです!!」
「……何?」
ルークスの動きが止まった。
「散歩にでも出たのだろう。庭を探したか?」
「探しました! 庭も、裏門も、どこにも……! お部屋に残されていたのは、あの『紅蓮の甲冑』と……この手紙だけです!」
執事の震える手には、涙で滲んだ羊皮紙が握られていた。
ルークスは無言で立ち上がり、手紙をひったくった。
嫌な予感が、背筋を駆け上がる。
震える指で封を開き、見慣れた、けれどどこか頼りない彼女の文字を目で追った。
『ごめんなさい、ルークス様』
『貴方の事が大好きだから……』
最初の行で、心臓が跳ねた。
だが、続く言葉が、彼を地獄へと突き落とした。
『貴方が好きだと思っているのは、私の「ランダムボックス」なんです。私じゃない』
『私は「神上美月」として、貴方を振り向かせます』
「…………」
ルークスの手から、力が抜けた。
手紙がハラリと床に落ちる。
「そ、そんな……」
否定したかった。
私は彼女を愛している。彼女の笑顔を、彼女の声を。
だが、脳裏に浮かぶのは、自分の言動ばかりだ。
『でかしたぞ、これで我が国の医学は進歩する』
(彼女自身ではなく、医学書を褒めた)
『紅蓮の白雪姫だな。君にはずっと滞在してほしい』
(彼女に鎧を着せ、飾り立て、自分の所有物のように扱った)
『君は何もしなくていい』
(彼女の意思を、行動を、全て奪っていた)
「俺は……ただ、美月殿が大切で……傷つかないように……」
言い訳が、虚しく口の中で溶ける。
美月の笑顔の裏にあった、寂しげな瞳。
昨日の晩餐会での、乾いた笑い。
なぜ気づかなかった? なぜ、「君はどうしたい?」と一度も聞かなかった?
「嫌……確かに……俺は……ランダムボックスを……見ていたのかもしれない……」
「賢者」という肩書き。「異界の道具」という利益。
愛しているつもりで、その実、彼女の能力に溺れ、彼女自身(美月)を見ていなかった。
ルークスは膝から崩れ落ちた。
床に手をつき、拳を叩きつける。
「糞ッ!!」
ガンッ! という鈍い音が部屋に響く。
完璧貴族の仮面が砕け散り、ただの愚かな男の顔がそこにあった。
「馬鹿だ……俺は……本当の馬鹿だ……!!」
失って初めて気づく、あまりにも大きな代償。
ルークスの慟哭が、主のいなくなった屋敷に響き渡った。




