EP 1
「眠れる森の美月と、白雪の刃」
「……というわけで、静脈注射における穿刺角度は……」
教授の単調な声が、まるで遠い国のお経のように聞こえる。
午後の講義室。窓から差し込む暖かな陽射し。
神上美月は、必死に重くなる瞼と戦っていた。
(だめ、寝ちゃだめ……正看護師になるんでしょ、私……。でも、今日のお昼、学食のカツカレー大盛りだったし……)
意識がとろとろと溶けていく。
ノートに書いていた文字がミミズのように這い回り、視界がブラックアウトした。
(5分だけ……ううん、3分だけ……)
美月は机に突っ伏し、深い闇へと落ちていった。
「ん……んん……」
小鳥のさえずりがうるさい。
誰だろう、スマホのアラーム音をこんな爽やかな「森の朝」みたいな音に変えたのは。
「……もうちょっと、寝かせてぇ……」
美月は寝返りを打つ。
ゴリッ。
頬に当たったのは、冷たい机の感触でも、柔らかい枕の感触でもなく、硬い小石と土の感触だった。
「…………え?」
美月は弾かれたように飛び起きた。
目に入ってきたのは、講義室のホワイトボードではない。
見渡す限りの、緑、緑、緑。
見たこともない巨大な樹木が天を覆い、木漏れ日がスポットライトのように降り注いでいる。
「えええええええ!?」
美月の絶叫が、森にこだました。
ここどこ? キャンプ場? 誘拐? それともドッキリ?
パニックになりながら周囲を見回すと、足元に一冊の分厚い本が落ちているのを見つけた。
表紙には達筆な日本語でこう書かれていた。
『異世界転生マニュアル ~アナステシアへようこそ~』
「……マニュアル?」
震える手でページをめくる。
『おめでとうございます! あなたは選ばれし迷い人です。ここはマンルシア大陸。剣と魔法と闘気の世界です。帰り道はありませんので、諦めて強く生きてください』
「雑っ!! 説明が雑すぎるよ神様!?」
美月は頭を抱えた。
恋愛経験ゼロのまま、看護師になる夢も半ばで、異世界サバイバル生活突入?
無理無理、私には無理。虫も怖いし、野宿なんてしたことないし。
『ですが、ご安心ください。あなたにはユニークスキル【ランダムボックス】と【善行システム】が付与されています』
マニュアルの続きには、スキルの使い方が記されていた。
【ランダムボックス】:ポイントを消費して、地球の物品をカテゴリー選択で召喚できる。
【善行システム】:良いことをすればポイントが貯まる。
そして、最後のページに輝く文字があった。
『★初回ログインボーナス:1000P プレゼント中!★』
「せ、1000ポイント……!」
美月の目が、現金な輝きを帯びた。
マニュアルによると、1回100Pで3つのカテゴリー指定ができるらしい。1000Pあれば、4つのカテゴリー(1000P消費)でかなり精度の高い物が出せる。
「落ち着け、美月。まずは現状確認……」
周囲は森。獣の気配がするかもしれない。
食料も大事だけど、もし熊とか出たら?
今の私は丸腰。看護学校で習ったのは包帯の巻き方であって、熊の倒し方じゃない。
「武器……武器がいる」
美月の脳裏に、実家の道場が浮かんだ。
父の厳しい指導。何万回、何億回と繰り返した、たった一つの動作。
不器用な私が、唯一自信を持てるもの。
「よし」
美月は意を決して、虚空に向かって手をかざした。
マニュアル通りにスキルを念じる。
「【ランダムボックス】起動。1000ポイント消費。カテゴリー指定……」
美月は目を閉じ、故郷の技術と、自分の手に馴染む感覚を強くイメージした。
「『日本』、『武器』、『刃物』、『刀』!」
ポンッ!
間の抜けた音と共に、目の前の空間が歪み、茶色いダンボール箱が落ちてきた。
Amazonで注文した時のような、見慣れた箱だ。
美月は箱を開封する。緩衝材の中に、それは入っていた。
飾り気のない、白木の鞘。
鍔すらない、シンプルな白鞘の居合刀。
「……綺麗」
手に取ると、驚くほどしっくりと馴染んだ。
少しだけ鯉口を切ると、カチリという澄んだ音と共に、鏡のような刀身が冷たい輝きを放った。
業物だ。素人の美月でも分かる。
「あなた、名前は……うん、『白雪』ね」
美月は刀を帯に差す……帯がないので、スカートのベルトに無理やり差した。
女子大生の服に日本刀。アンバランス極まりないが、背筋がスッと伸びた気がした。
これで最低限の自衛はできる。
「さてと……これからどうしよう」
まずは人里を探さないと。
歩き出そうとした美月の視界に、ふと足元の風景が入った。
誰かが捨てていったのか、壊れたポーションの瓶や、ボロボロの布切れが散乱している。
「……汚いなあ」
美月は眉をひそめた。
彼女は根っからの綺麗好きだ。部屋の乱れは心の乱れ。道場の教えでもある。
彼女はしゃがみ込み、ガラスの破片を拾い集めた。
「危ないもんね。誰かが踏んだら怪我しちゃうし」
布切れも拾い、ダンボール箱の中にまとめる。
すると。
ピローン♪
軽快な電子音が脳内に響いた。
『善行:ゴミ拾いを確認。1ポイント獲得しました』
「え?」
美月はパチクリと瞬きをした。
視界の端に、デジタル時計のような表示で【所持ポイント:1P】と出ている。
「あ、これでも貰えるんだ……」
ゴミを拾うだけでポイントが貰える。
ポイントがあれば、水や食料が出せるかもしれない。
美月の顔に、パァッと花が咲いたような笑顔が戻った。
「ふふっ、これなら私にもできるかも! よーし、この森のゴミ、全部拾っちゃうぞー!」
不安だらけの異世界生活。
でも、やることは決まった。
とりあえず、ゴミ拾いから始めよう。
女子大生剣士・神上美月。
彼女がこの後、そのゴミ拾いの最中に「とんでもないもの」を拾うことになるのは、まだ少し先のお話。




