第8話：エマと『傾向性』―SNSに隠された欲望の正体―
その夜、エマの部屋に戻った二人は、下の食堂で軽く夕食を済ませた。窓の外は完全に暗くなり、街の明かりだけが星のように瞬いていた。
ベッドに横になったテルは、ふとポケットからスマホを取り出した。バッテリーは12%。それを見たエマが、テルの隣で興味深そうにスマホをのぞき込んできた。彼女の銀色の髪が枕の上に広がり、ラベンダーのかすかな香りが漂ってくる。
「その道具で何を見ているの？」
エマが身を寄せて、スマホの画面を見つめる。彼女の肩がテルの腕に触れ、白いナイトドレスを通して心地よい温もりを感じる。
「SNSってやつさ。俺の国の人々が、その日にあったこととか、思ったこととか、色々なことを書いているんだ」
「つまり、それは日記みたいなものなの？」
エマの声は知的好奇心に満ちていた。
「ある意味そうだね。ただ、それを多くの人に公開して、それを読んだ人から返事がきたりする」
エマの顔に驚きが浮かぶ。青い瞳が大きく見開かれる。
「それって、日記を道ばたに置くようなものじゃない？どうしてそんな恥ずかしいことを」
「...なんでだろうね」
そんなこと考えたこともなかった。テルは天井を見つめながら考え込む。
「わかった、『いいね』がもらえるからだ」
「『いいね』って何？」
エマが好奇心から身を乗り出す。
「読んだ人が、その内容を良いと思ったら、『いいね』という印をつけることができるんだ。それを沢山もらうと嬉しい、というか」
エマは小さく首を傾げ、考え込むような表情になった。
「確かに、自分の考えを誰かに認められることは嬉しいことね。ただ...」
エマは言葉を選ぶように少し間を置いた。
「それって本当に理性的な行動と言えるのかしら」
「どういう意味？」
エマは真剣な顔で語りだした。
「『いいね』が欲しくて行動するのは、ただ『傾向性』に従ってるだけ」
「傾向性って？」
「傾向性というのは、簡単に言うと、欲求や欲望のことよ。例えば、喉が渇いたから水を飲む、寒いから暖かくしたい、他の人から認められたいから何かを書き込む...それらは全て、人間が持つ傾向性なの」
エマは丁寧に説明した。
「つまり、SNSでの発言が、他の人からの承認という傾向性に従うのであれば、それは本当の自由意志から来るものじゃないってことよ」
「でも、人と繋がりたいという気持ちは自然なことじゃないかな」
テルは反論してみる。
「もちろん、社会で生きる人間が他の人と繋がるのは自然なことよ。問題は、その繋がり方なの」
エマはスマホの画面を指差した。
「もし全員が『いいね』のために本心でないことを書いたり、実像を誇張したりする世界になったらどうなる？」
「信頼関係が崩れるよな...というか、もう崩れてるというか...」
「そのとおりよ。そして、私たちが理性的な存在として互いを尊重し合うためには、信頼関係はとても大切なの」
エマの真剣な表情に、思わず見入ってしまう。彼女の信念の強さは、時に厳格に感じるが、同時に純粋さと誠実さに満ちていた。
「でも、SNSにも良い面はあるよ。距離を超えて人と繋がれるし、情報を得ることもできる。例えば、地震や災害があったときに、安否確認に使われることもある」
「そうね。道具自体に良い悪いはなくて、それをどう使うかが問題ね」
エマは少し表情を和らげた。
「本当の自由っていうのは、欲望に従うことじゃなくて、理性のルールに従うことなの。SNSという道具も、理性的に使えば、人々を自由にするために使えるはずよ」
「確かにそうだね。今のSNSは人を自由にするよりも、むしろ縛っている気がするよ」
テルの言葉に、エマが小さく微笑んだ。
「もう遅いし、そろそろ寝ようか」
テルはスマホのアプリを閉じ、待ち受け画面に戻した。画面には「22:16」という数字が表示されている。
エマがふと目を輝かせた。
「もしかして、その数字は時刻を表してるの？」
「ああ、そうだよ。今の時間は午後10時16分ってこと」
エマは驚きの表情を浮かべた。
「なんてすごい道具なの！」
彼女は身を乗り出してスマホをもっとよく見ようとした。
「時間をいつも正確に知ることができるなんて。これはとても役に立つわ。理性的に時間を使うには正確な時間を知ることがとても大事だから」
彼女は懐中時計を大事にしている人だから、時間を正確に知ることの価値をよく理解しているのだろう。
「明日からの計画も、これを使えばもっと細かく立てられるわ」
彼女の目が輝いていた。スマホの画面に照らされて、彼女の横顔が美しく浮かび上がっていた。
