第7話:エミールの記憶―『宗教戦争』と理性の価値―
夕暮れが街を橙色に染め始める頃、テルとエマは王立学院から帰路についていた。石畳の上を歩く足音が、静かな街に溶け込んでいく。
「今日はありがとう。校長先生に会わせてもらえて、何だか安心したよ」
テルは校長から貸し出された剣を携えていた。細身だが、なかなかの重量がある。腰に下げた剣のベルトがまだ慣れなくて、歩くたびに剣が揺れる感覚が気になった。
「しかし、衛兵として過ごすことになるなんて、考えもしなかった」
ぽつりと呟いたテルに、エマは首を傾げた。
「そうでしょうか。力のある人が力を必要とする職業につくのは自然なことだと思うわ」
エマはいつものように論理的だ。
「いや、俺は別に力なんかないよ」
「でも、私より力があることは間違いないでしょう?」
エマが言う。石畳を歩きながら、ふと疑問が湧いた。
「そういえば、王立学院は女子校なの?男子学生とか、男の先生とかほとんど見なかった気がするけど」
その質問に、エマの足が一瞬止まった。彼女の表情が硬くなり、青い瞳に影が落ちた。
重い空気を感じながら、テルは黙って彼女の返答を待った。風が吹き、エマの銀色の髪が揺れる。彼女はようやく口を開いた。
「いまから7年ほど前、『宗教戦争』と呼ばれる大きな戦争があったの」
エマの声は静かだったが、重かった。
「その時、たくさんの男の人が戦争に行って、帰ってこなかった。ぼんやりと覚えているの。私の街でも毎日のように誰かの家族の葬儀が行われてたこと」
エマの透き通るような青い瞳に遠い記憶が浮かんでいるようだった。
「王立学院の男子生徒たちも、多くが志願して戦争に行った。戻ってきたのはほんの一握り...」
エマの声が少し震えた。胸の前で組んだ手に力が入り、いつもの冷静な彼女とは違う表情を見せる。
「今は男子生徒も少しずつ増えてきているけれど、まだ数はとても少ないわ。男性教員も同じよ」
「そうだったのか...」
急に胸が重くなった。テルが少し好ましく感じていたことが、この世界では痛みを伴う記憶なのだと気づく。
「ごめん、余計なこと聞いて」
「いいえ、あなたが知りたいと思うのは自然なことよ。理性的な判断のためには、正確な情報が必要だもの」
エマはいつもの調子を取り戻したようだった。
何気なく手元の剣を見ると、鞘に小さな文字が刻まれているのに気づいた。「エミール」と読める。
「この剣、エミールって書いてあるように見えるけど」
テルの言葉に、エマの表情がまた曇った。彼女は立ち止まり、優しく伸ばした指先で剣をそっと見つめた。
「エミールは大ジャンヌの弟さんよ。彼も宗教戦争で亡くなっているわ」
テルは言葉を失った。
「大ジャンヌはその剣を大切にしていたわ。それを貸したということは、あなたを信頼している証拠ね」
エマは小さく微笑んだが、その瞳には悲しみが宿っていた。
「この国が、理性を重視している理由って...」
言いかけて、テルは言葉を切った。多くのことが頭の中で結びつき始めていた。
エマは深いため息をついた。
「宗教戦争は、理性を無視した感情や信念の対立から始まったの」
エマは石の手すりに寄りかかり、沈んでしまった夕日を見つめながら語り始めた。
「人々は自分の信じる神や価値観を振りかざして、違う考えを否定し始めた。最初は言葉による争いだったけれど、やがてそれは力の行使を伴うようになった」
彼女は視線を落とし、石畳を見つめた。
「だから、この国は『理性』を中心に据えることにしたの。感情や信念ではなく、理性によって人々を調和させるために」
エマの言葉には確信があった。それは単なる理論ではなく、痛みを伴う経験から生まれた信念だということが伝わってきた。
「理性は、私たちに誰もが従うべき道徳のルールを示してくれる。それに従えば、どんな立場の人も互いを尊重できるはず。宗教の違いも、出身地の違いも超えて」
エマは両手を胸の前で組み、まるで祈るように言った。
「理性の光に導かれれば、二度とあのような悲劇は繰り返さない。私はそう信じているわ」
夕暮れの空が徐々に星空へと変わり始めていた。エマの顔には強い決意が浮かんでいた。
「エマ...」
言葉が見つからなかった。夕闇にたたずむ少女が背負っているものの重さを、テルはようやく理解し始めていた。
静かな時間が流れ、エマは再び微笑んだ。
「さあ、戻りましょう。明日からあなたの仕事が始まるわ。十分な休息が必要よ」
「ああ、そうだね」
二人は再び歩き始めた。夜の帳が降り、街灯に照らされながら、二人の影が石畳の上に長く伸びていた。
星が見え始めた空を見上げながら、テルは思った。この国の理性への信念は、血塗られた歴史の上に立っているのだ、と。
腰の剣が揺れる感覚がまた意識に上る。エミールの剣。かつて戦争で命を落とした誰かの思いが、今この剣に宿っているのかもしれない。
「俺は、この剣をどう使うべきなんだろう」
そんな問いを胸に抱きながら、テルは静かに帰路を進んだ。エマの靴音とテルの足音が不思議な調和を奏でていた。




