第5話:『言語ゲーム』って何?―ルーシーが教える言葉のルール―
「あなたが東方から来たという方ですか?」
入ってきたのは、長い黒髪を持つ美しい少女だった。漆黒の髪は腰まで届き、白いブラウスに黒に近い深紅のリボンが際立っている。紺碧色の瞳は鋭く知的で、テルは思わず息を呑んだ。
慌ててスマホをポケットにしまう。少女は部屋の中央まで歩み寄ってきた。
「ええ、その...テルと言います」
声が少し上ずってしまう。
「ルーシー・ヴィットです。私は生徒会で書記をしています」
彼女は丁寧にお辞儀をすると、テルを観察するように見つめた。
「『東方』というのは、正確にはどのような地理的位置を示していますか?」
突然の質問に戸惑う。異世界から来たなんて言えない。
「いや、その...遠い国で...」
「『遠い』という言葉は人によって違う意味になります。距離や移動時間で明確に言ってください」
ルーシーの質問は容赦なかった。
「あの...何と言えばいいか...遠い場所なんだけど...現実と言えば現実の世界で...」
ルーシーが深く明瞭な声で言った。
「あなたは今、自分でも理解していないことを話そうとしています。人は、語りえないことについては、沈黙しなければなりません」
ぐうの音も出ない。
「すみません...言葉が足りなくて...」
「『言葉が足りない』という表現は間違いです。問題は『言葉の使い方が正確でない』ことです。言葉の使い方があいまいだと、思考も必然的に混乱します」
ルーシーはテーブルに座った。
「あなたがこの場所に滞在する目的は何ですか?」
「いや、特に目的はないんだ。ただ見学に来ただけで」
「『特に目的はない』という否定と『見学に来た』という目的を同時に述べることはできません。矛盾しています」
彼女は口元に人差し指を当てながら、テルの言葉を分析し続けた。
テルは彼女の口調を真似てみた。
「言い直します。入学の手続きに訪れた、というような明確な目的は私にはありません」
初めて彼女が微笑んだ。その笑顔は清らかで、まるで春が来たようだった。
「今の表現は論理的に筋が通っています。言葉は現実を映し出す道具であり、あいまいな言葉は現実の見方を歪めてしまいますから」
「言葉って難しいんだね...」
「言葉は難しいものではなく、ルールに基づいたシステムです。言葉は特定のルールの中で行うゲームのようなものです。『言語ゲーム』と呼びます」
「言語ゲーム...」
「人は日常的にいろんな言語ゲームに参加しています。命令、質問、報告、冗談。これらは違うゲームで、それぞれ独自のルールを持っています。同じ言葉でも、参加している言語ゲームによって意味は変わってくるのです」
テルはルーシーの話を何とか理解しようと耳をかたむける。
「例えば、『今、何時ですか』という言葉も、『質問』のゲームなら現在時刻を問われていますが、『非難』のゲームなら、あなたが遅刻したことを意味します」
彼女の説明は分かりやすかった。厳密な口調の中にも、教えることへの情熱を感じる。
「同じ言葉でも、どの『ゲーム』に参加しているかによって、意味が全然違ってきます。だから会話を成立させるためには、同じ『言語ゲーム』をプレイしている必要があるのです」
「なるほど、君が俺の言葉に厳しかったのは、同じ言語ゲームをプレイしたかったからなんだね」
ルーシーは少し目を伏せた。
「...正しい指摘です」
「実際に練習してみませんか?ちなみに、これは提案です」
彼女が紺碧色の瞳でテルを見つめる。
先手必勝だと思ったテルは、自分のほうから逆に提案をしてみた。
「では、冗談のルールに基づく言語ゲームを始めましょう。ルーシー、冗談を一つ言ってみてください」
ルーシーは姿勢を正し、少し考える様子を見せた。
「『冗談』という言葉は、厳密には『真実ではない言葉で笑いを起こそうとするもの』と定義されます。でも私の言葉は常に真実なので、技術的には私は冗談を言えません」
一呼吸置いて、初めて見る子供のような表情で付け加えた。
「いまのが冗談です」
しばらくの沈黙の後、思わず笑いがこみ上げてきた。ルーシーも口元を少し緩め、少女らしい表情を見せた。
「あなたの表情に現れた豊かな感情は高い価値を持ちますね」
テルがそう言うと、ルーシーの頬がわずかに赤く染まったような気がした。少し視線をそらし、髪を耳にかける仕草は、いつもの堂々とした態度とは違って見えた。そして、彼女は小さな声で言った。
「人は、語りえないことについては、沈黙しなければなりません」




