第38話(第1部最終話):二人の「遅刻」
夜空から月の光が石畳を照らしていた。テルは疲れた体を引きずりながら家に向かって歩いている。今日一日の戦いを終え、体は重かったが心は軽やかだった。
ふと前方を見ると、見慣れた人影があった。近づくと、それは月光に照らされたエマの姿だった。銀色の髪がきらめいている。
「ただいま」
テルの口から自然に言葉がこぼれた。
「おかえりなさい」
エマの声はいつもと少し違っていた。そして予想外のことが起きる。エマは駆け寄ってくると、テルの体に抱きついたのだ。
「無事で帰ってきてくれて...本当に良かった」
エマの声が震えていた。いつもの理性的な彼女からは想像もつかない姿に、テルの胸が熱くなった。
家に入ると、テルはどっと疲れが押し寄せて椅子に座り込んだ。
「疲れているのですね。体を拭いて差し上げます」
エマがそう言うと、テルは驚いた。
「いや、いいよ、自分でやるから」
しかしエマはすでに布と水を用意していた。
「理性的な人間にとって、体を清潔に保つ手助けは日常的な行為です。それに、私はあなたの裸を初日に見ていますから」
確かに、泥だらけで倒れていたテルの服を着替えさせてくれたのはエマだった。
エマは丁寧にテルの体を拭きながら、今日の出来事を聞いた。テルはマキャベリアとの合同訓練の話をする。エマは真剣に聞き入り、まるで自分のことのように喜んでくれた。
「テル、あなたは頑張りました。本当に」
エマの言葉には純粋な賞賛が込められていた。彼女の青い瞳が輝き、笑顔が花のように開いている。これまでに見たことのない、エマの無垢な表情に心を奪われた。
ふと、エマが時計を見た。彼女がいつも持ち歩く懐中時計を取り出し、金色の枠が月明かりに反射して美しく輝いた。
「もう遅くなりました。疲れているでしょうから、早く休んだ方がいいですね」
俺も頷いた。確かに、今日は精神的にも肉体的にも疲れ切っていた。エマの優しさに包まれながら、俺は柔らかなベッドに身を横たえた。彼女の存在を感じながら、瞼が重くなっていく。
「おやすみなさい、テル」
エマの囁きと、彼女の指先が俺の髪を撫でる感触が最後に意識に残った。
———
目を覚ますと、朝の白い光が窓から溢れていた。疲れは残っているものの、昨晩よりはずっと体は軽い。隣を見ると、エマが目を開けていて、瞳には俺の顔が写っていた。彼女の銀の髪は枕の上で水面のように広がり、長いまつげが瞬きする。
のぞき込んだスマホの画面に「9:37」と表示されている。
「うわっ、遅刻だ!」
思わず声に出してしまったが、それでもエマは動じない。彼女は穏やかな微笑みを浮かべていた。
「エマ、急いで! もう授業始まってるよ!」
しかし、エマは落ち着いた様子で俺を見つめていた。彼女の青い瞳には珍しく茶目っ気が宿り、唇がかすかに笑みを作っている。
「どちらにしても、もう間に合いません。今日はゆっくり行きましょう」
彼女の口元に微笑みが浮かんでいた。普段は時間に厳格なエマの言葉とは思えなかった。
「でも、エマ、学校は...」
「私が『間に合わない』と言うのなら、本当に間に合わないのです」
彼女はそう言って笑った。その表情には今までに見たことのない自由さがあった。
二人でゆっくりと朝食を取る。パンとジャム、そして紅茶。シンプルな食事だが、エマと向かい合って食べると特別な味がした。
「遅刻して、大丈夫なの?」
テルが心配して尋ねると、エマは小さく首を振った。
「私はこれまで遅刻したことは一度もありません。だから1度ぐらい大丈夫です」
「でも、みんなが授業に来たり来なかったりしたら、先生は困るんじゃ?」
エマは少し考え込んだ。
「そうですね…『定言命法』的には」
エマの声にはわずかに迷いがあった。しかし、すぐに元気を取り戻した。
「では、急ぎましょう。ただし、走らずに」
二人は並んで街へと歩き出した。
午前の街を歩くのは、エマにとって珍しい経験だった。彼女は好奇心に満ちた眼差しで街の様子を眺めている。
「こんな風に街を見るのは初めてです。いつもこの時間は学院にいますから」
エマの声には純粋な喜びが混じっていた。
テルはふと、この世界に来る前の自分を思い出した。現実世界でいつも遅刻して急いで授業に向かっていた日々。あの時は街の風景を楽しむ余裕など持っていなかった。
「転生して異世界で無双する、なんて夢見ていたんだよな」
思わずつぶやいた言葉に、エマが不思議そうな顔をした。
「転生?無双? それはどういう意味ですか?」
「いや、なんでもない」
テルは微笑みながら答えた。
王立学院に到着すると、エマは気を引き締めるように背筋を伸ばした。
「それでは、これから、私は授業に行きます」
「俺は、まずは昨日のことを大ジャンヌに報告するよ」
エマは微笑むと、教室への廊下を歩き始めた。
校長室への廊下を歩きながら、テルは考えた。現実世界で、果たして俺は本当に「生きていた」と言えるのだろうか。
何のとりえもない俺が、異世界で無双する、なんて考えていたことが、今は恥ずかしく感じる。エマやこの世界の人々を見ていると、彼らは膨大な時間を「考えること」に費やしている。
テルは自分自身を振り返った。好きなだけ寝て、SNSを見て、アニメを見て、ゲームをして...確かに授業には出ていたが、エマたちのようにじっくり考えることはあっただろうか。その場の流れに従って、何も考えずに生きてきたのではないか。
もし人間の基本的な能力がどの時代も変わらないなら、違いはその時間の使い方だ。この世界の人々が何倍もの時間を考えることに費やしているなら、彼らが現代の人々より深い思考に到達していても不思議ではない。
大ジャンヌが待つ校長室の前で、テルは決意を新たにする。相変わらず、この世界でのテルの使命は不明だ。サンデラが言った「自分を救ってください」の意味も分からない。
そして、マキャベリアとの関係がどうなるのかも予断を許さない。本当に戦争は回避できるのか、交渉で解決できるのか、分からないことだらけだ。
しかし、一つだけ確かなことがある。
テルはこの世界で毎日を確かに生きている。そしてこれからも、エマたちと共に、この国で日々を過ごしていくのだ。その日々が、テルにとって何よりも大切だということは、今はもう、確かな現実だった。
(第1部完)




