第33話:アンナと『創造性』—感情は邪魔者じゃない—
夏休みも終わりに近づいた8月の昼下がり、テルは王立学院の石畳の廊下を歩いていた。角を曲がったところで、誰かとぶつかった。
「あっ!」
相手は床に倒れ込んだ。テルもよろめいたが、なんとか踏みとどまる。
「大丈夫?」
手を差し伸べると、床に座り込んだ少女が顔を上げた。
金褐色のセミロングの髪が日差しを受けて輝き、澄んだ緑色の瞳がテルをまっすぐに見つめている。この世界の人にしては珍しく日に焼けた健康的な肌をしていた。明るい色の上着には、胸と肩に赤青の花の刺繍が施されている。
「大丈夫、大丈夫。私が悪かったわ」
少女はテルの手を取って立ち上がると、服の埃を払いながら笑った。その笑顔は太陽のように明るく、周囲の空気まで一瞬で温かくなったように感じる。
「あなた、あの衛兵だよね、雷の剣の使い手!」
少女はテルを指さしながら言った。その口調はこの国では珍しい親しげな感じで、まるで古くからの友人に話しかけるような気さくさがあった。
「何で知ってるの?」
テルが驚いて尋ねると、少女は誇らしげに胸を張った。
「この学院を見学に来たときに、たまたま見たのよ。あなたの雷の剣、本当にすごかった!まるで神話の英雄みたい!」
少女の緑の瞳は好奇心と興奮で輝いていた。
「私はジョアンナ・フォン・ゲーテル。みんなアンナって呼んでるよ」
少女は自己紹介すると、自然な仕草で手を差し出してきた。
「俺はテル」
「よろしく、テル!私もゲーテル、って姓だから、なんだか縁を感じるわ!」
アンナは力強くテルの手を握った。その手は温かく、安心感を与えてくれる。
「私、秋からここに入学するの。この学院のこと、いろいろ教えてくれない?」
声には期待と好奇心が溢れていた。
「いいけど、俺はただの衛兵だからあんまり詳しくないかも」
そう言いながらも、テルはアンナを連れて学院内を案内することにした。校内を巡りながら、彼女は次々と質問を投げかけてきた。
「どうしてここでは、そんなに理性を重んじるの?感情を抑えるなんて、人間らしくないと思わない?」
「宗教戦争があったからだよ。感情や宗教の対立が戦争を招いたから、理性的な判断で世界を見ようという考え方が広まった…らしい」
テルが簡単に説明すると、アンナの表情には子供のような素直な反発が浮かんだ。
「理性だけでは足りないわ」
アンナは立ち止まり、窓の外を見つめながら言った。日差しが彼女の横顔を照らす。
「感情や情熱は、ただの邪魔者じゃないと思うわ。むしろ、本当の創造はそこから生まれるんだから。音楽も、絵画も、詩も、全ては魂の叫びから生まれるのよ」
アンナの言葉には熱がこもっていた。緑の瞳が燃えるように輝き、金褐色の髪が感情の高まりと共に揺れる。その姿は、この理性の国の生徒たちとは明らかに違っていた。
「君はどこから来たの?」
「シルバーマイン。ヘルメニカで一番大きな街よ。芸術の都って呼ばれてるの」
アンナは誇らしげに答えた。ヘルメニカ——南の国だ。フィロソフィアとは気候も文化も違うはずだ。
学院の庭を通りながら、アンナは時折足を止めては、小さな革のスケッチブックを取り出して何かを描き留めていた。その手つきは魔法使いのように素早く、まるで浮かんだインスピレーションを逃すまいとするかのようだった。
「何を描いてるの?」
「残したいものは何でも」
アンナは微笑みながら答えた。その笑顔は花が咲くように自然で魅力的だ。
「美しさには形があるから。それを見つけて留めておくの。ほら、見て」
スケッチブックを開くと、学院の尖塔、庭園の噴水、そして日差しに照らされた石畳の美しい陰影が驚くほど鮮やかに描かれていた。絵からは不思議な生命力が感じられる。
「すごい…これ、一瞬で描いたの?」
「瞬間を捉えるのが私の特技なの。美しいものは、ただそこにあるだけじゃなくて、輝く瞬間があるのよ」
彼女の説明には詩が宿っているようだった。
午後の時間はあっという間に過ぎ、夕暮れが校舎の窓を橙色に染め始めた頃、二人は校門の前に立っていた。
「それじゃあね」
別れの言葉を口にしたはずが、アンナはテルの横を歩き続けている。
「あれ? どこに住んでるの?」
「学院の寮だよ。まだ荷物は少ないけど、今日から住むの」
アンナは当然のように答えた。声には新しい生活に対する期待が溢れている。
「一緒にご飯食べようよ!新しい街で一人で食べるのは寂しいもの」
わざわざ断る理由もない。テルは彼女を部屋の1階にある食堂に案内した。いつものようなパンと紅茶、果物が出された質素な食事だったが、アンナは好奇心旺盛に食べていた。
「悪くないけど、私の国にはもっと美味しいものが山ほどあるよ」
彼女は一口パンをかじりながら言った。緑の瞳には故郷を思う郷愁の色が浮かんでいた。
「ヘルメニカの料理はどんなの?」
「香辛料がたくさん使われているの。魚も美味しい!ここみたいに淡白じゃないわ。味も色も強くて情熱的!人生と同じように」
アンナの言葉には誇りが込められていた。
食事を終え、テルは立ち上がった。
「じゃあ、また明日」
アンナも立ち上がったが、どこかに行く様子はなかった。
「テルの家は?」
アンナがテルを見る。瞳には純粋な好奇心が輝いていた。
「この上だけど」
テルが答えると、彼女の顔が明るくなった。
「見せて!どんな部屋に住んでるのか、すごく興味あるの!」
「いや、それはちょっと」
テルは戸惑った。部屋はエマとの共有スペースだし、何より部屋に今日知り合ったばかりの女性を連れていくのは良くないだろう。
「なんでダメなの?魔王でも住んでるの?」
その言葉に、テルは思わず反応してしまった。この理性の国で、「魔王」という言葉は普通使われないはずだ。
「魔王って...そういう概念、君の国では許されるの?ここでは空想上の存在は否定されてるんだけど」
「許されるも何も。人が想像するのは自由でしょ?」
アンナは声に力を込めた。
「ヘルメニカでは、物語は魂の糧なの。病気の息子を魔王から守ろうとする父の物語とか、魔法使いの弟子が洪水を起こす話とか…想像力は人間の最も貴重な宝よ」
アンナの話を聞いていると、テルはどこか懐かしさを覚えた。まるで、元の世界の話を聞いているような不思議な感覚だった。
「それで、部屋、見せてくれるの?」
彼女の瞳が期待に満ちて輝いているのを見て、テルは心が揺らいだ。
「まあ、ちょっと見るだけならいいか」
テルの前で階段を上る彼女の背中からは、自由と創造性の風が吹いているようだった。金褐色の髪が揺れるたび、この理性の国には存在しない、何か新しい力を感じさせる。
部屋の前に到着し、テルがドアを開けると——
そこにはエマの姿があった。夏休みの帰省から戻ったのだ。青い瞳がテルを見つめる。しかし、その瞳がテルの後ろのアンナに気づいた瞬間、表情が一変した。
「テル...?」
エマの声には、いつもの冷静さではなく、明らかな動揺が含まれていた。
一方、アンナはエマを見て首を傾げた。緑の瞳に好奇心の光が宿る。
「誰?」
エマは一瞬言葉に詰まり、小さく息を呑んだ。銀色の髪がわずかに揺れる。
部屋の中には、なんとも言えない緊張感が流れていた。海で育った太陽のような少女と、星の光のような少女。二つの全く異なる世界が出会ったようだった。
「私はエマンエラ・カンテ。あなたは?」
エマの声は静かだったが、その瞳は何かを見抜こうとするように鋭くなっていた。
「アンナ!本当は、ジョアンナ・フォン・ゲーテルだけど、アンナって呼んで」
アンナは明るく自己紹介すると、エマに向かって手を差し出した。金褐色の髪が動きに合わせて揺れ、緑の瞳には飾り気のない友好の色が宿っていた。
エマは少し戸惑ったが、やがて小さく息をついて、アンナの手を取った。二人の少女の間で、テルはどうしていいか分からず立っていた。




