第30話:ミルと『親ガチャ』―努力と才能の本当の意味―
夏の日差しが眩しく輝く午後、王立学院は静まり返っていた。夏休みのせいで、普段は活気にあふれるこの場所も人影がない。
そんな中、テルが生徒会室のドアを開けると、意外な人物がいた。
「ミル?」
テルが驚くと、小柄な少女が分厚い本から顔を上げた。栗色のボブカットが肩で揺れ、青灰色の大きな瞳が書物から離れる。
「あれ、実家に帰ってるんじゃないの?」
ミルは本を丁寧に閉じて椅子に座り直した。
「帰ったんだけど、ちょっと息苦しくて……」
「肺の病気? 大丈夫?」
テルが心配そうに近づくと、ミルは小さく首を振った。
「そういう意味じゃなくて、家族との関係がね」
ミルはそれ以上は語らず、テーブルに置かれた本に視線を落とした。
テルは彼女の向かいに座った。
「そういえば、ミルのお父さんは何をしている人なの?」
「学者だよ。割と有名な」
ミルは少し表情を明るくして答えた。
「納得だね。ミルが賢いのはお父さんの遺伝なんだね」
その瞬間、ミルの表情が一変した。瞳に鋭い光が宿る。
「遺伝じゃない。努力だよ。小さいころからたくさん勉強してきたから」
ミルの声には珍しい怒りの色が混じっていた。
「悪かった」
テルは慌てて謝り、話題を変えることにした。
「ミルは子ども時代、どんな子だったの?」
ミルは不思議そうな顔で首を傾げた。
「子ども時代って何?」
その質問にテルは驚いた。
「3歳から外国語を始めて、今日まで、ずっと一日中勉強してる。子ども時代なんてないよ」
ミルはさらりと言い切った。まるで当然のことのように。
「それは……ミルは親ガチャ、当たりかと思ったけど、そうでもないんだね」
「なに、親ガチャって」
「僕の国で流行っている言葉で、ガチャはくじって意味。つまり、子供は親を選べない。くじを引くように、良い親に当たることもあれば残念な親のときもある」
ミルは考え込んだ。
「そういう意味では、私は間違いなく当たりだよ。父親には最高の教育を授けてもらった」
彼女の声には、どこかためらいも混じっている気がした。
「そう思っているならよかった。さっき、息苦しいって言ってたから」
ミルは少しうつむいた。
「確かに感謝はしてるんだけど、少し父が怖いというか……勉強しているか監視されているように感じて」
「ミルはさあ、そういう時、どういうふうに気分転換しているの?」
「気分転換、って何?」
「遊んだり、楽しいことをして、気持ちを明るくするってこと」
ミルは真剣な顔で答えた。
「わからない。遊んだことないから」
テルは思わず息をのんだ。理性の国でも、さすがにこれは極端すぎる。
「それはちょっとダメじゃない。人間、楽しいこともしないと」
「そんなこと言われても、どうしていいかわからない」
「とりあえず、外行こうよ、甘いものでも食べよう」
テルはそう言って、ミルの手を取った。小さくて温かい手が、驚きながらもテルの手に収まる。
「でも勉強が……」
「今日だけだから」
ミルは少し迷ったが、テルの誘いに応じた。二人は生徒会室を出て、前にミルがケーキを買った店へと向かった。
お菓子職人ピケティ氏の店は、夏休みにもかかわらず多くの客で賑わっていた。甘い香りが漂う店内で、テルはミルに好きな席を選ばせた。
「おごるよ。好きなものを選んで」
ミルはメニューを真剣な顔で読み込んでいた。学術書を読むときと変わらない集中力で、メニューの一つ一つを丁寧に見ている。やがて彼女はアップルパイを指した。
注文したパイが運ばれてきたとき、テルは思わず笑ってしまった。パイが驚くほど複雑な形で切られていたからだ。
「このお店の職人さんって、パイの切り方にこだわりがあるみたいだね」
ミルは少し顔を明るくして、パイを一口食べた。
「おいしいね」
シンプルな感想だったが、彼女の口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
「気分転換の話。例えば、物語を読むとか。ミル、本は好きでしょ」
「哲学や数学の本を読むけど、物語は読んだことがないな。テルはどんな物語を読んでるの?」
テルは少し考えてから答えた。
「ある少年が、トラック……いや馬車に轢かれて、別の世界に生まれ変わるんだ。そこで、最強魔導士として魔物と戦う」
ミルは真面目な表情で考え込んだ。
「その物語、生まれ変わる必要ある?」
予想外の質問に、テルは一瞬言葉に詰まった。
「『あるところに魔導師がいました』から始めちゃダメなの?」
テルはしばらく考えたあと、説明を始めた。
「転生する必要はある。理由は3つ」
ミルはパイを食べながら、興味深そうに聞き入っていた。
「まず、感情移入のしやすさ。ミルは、別の時代の別の国の魔道士に、いきなり感情移入できる?」
「できないね」
「でも、自分の時代、自分の国の、自分に境遇が近い人間が転生したとすれば、これは感情移入が簡単だ」
「……なるほど。一理ある」
ミルは小さく頷いた。
「二つ目は、能力の問題。転生ものでは、現代の知識や技術を持ったまま、300年ぐらい前に転生することが多い」
「例えば、ミルが今の知識を持ったまま、300年前の世界に転生したとして、何をしたい?」
ミルは少し考え込んだ。
「そうだな、あらゆる知識を本にして出版するだろうね。そうすることで、進んだ科学の知識を300年早く人類に普及できる」
テルは思わず微笑んだ。ミルらしい答えだった。
「なるほど。でも、そう想像することは、なんとなく楽しいだろ」
「そうかも」
ミルの口元にかすかな笑みが浮かんだ。
「3つ目は、こういう物語では、転生するときに、特別な能力を与えられることが多い。多くの人は、現実の世界では特別な才能を持っていないんだよ。だから、何か素晴らしい能力が与えられて、それを活かせると考えることはとても楽しいことなんだ」
「その考えはおかしいよ。特別な能力が無いなら、転生するんじゃなくて、今生きている世界で身につければいいじゃない」
ミルは論理的に反論した。
「ミルにはわからないかもしれないけど、努力できるということも特別な才能なんだよ」
「そんなものかな」
ミルが考え込む。
「まあ、とにかく僕が言いたいのは、たまには、何か楽しいことを考えたり、楽しいことをしたりして、息抜きをすることは、心のバランスを保つ上で大切だってこと」
「分かった。覚えておくよ」
ミルはパイの最後の一口を口に運びながら答えた。
帰り道、夕陽に照らされた二人の影が石畳の上に長く伸びていた。
「テル」
突然、ミルが足を止めて振り返った。夕日に照らされた彼女の栗色の髪は、まるで炎のように輝いていた。
「何?」
「今日は……楽しかった」
ミルの頬は夕陽のせいだけではない紅色に染まっていた。
「また……気分転換、してもいい?」
その言葉に、テルは優しく微笑んだ。
「もちろん。いつでも」
ミルの表情が明るくなり、小さな唇が笑みの形を作る。それは、テルが初めて見る、彼女の子供らしい笑顔だった。




