第1話:『定言命法』って何?―エマが教える人助けのルール―
直照が目を覚ますと、見知らぬ部屋にいた。
「目が覚めましたか?」
優しい声が聞こえる。振り向くと、銀色がかった髪を三つ編みにした少女が立っていた。透き通るような青い瞳で、16、7歳くらいに見える。
「ここは...?」
「私の部屋です。街の広場で倒れていたあなたを、ここまで運んでもらいました」
少女の話し方は丁寧で、どこか真面目な印象だった。
「えーと…君の名前は?」
「エマンエラ・カンテです。エマと呼んでください。王立学院の生徒です」
王立学院。間違いない。異世界だ。直照は即座に食いついた。
「魔法とか習ってるの?」
その瞬間、エマの表情が曇った。
「魔法ですか...」
エマは小さくため息をついた。
「いや、その…この世界がどういう世界か分からなくて。ほら、剣とか魔法とか、そういう世界かと思って…」
彼女は、まるで子供に諭すように、ゆっくりと語り始めた。
「当然、剣はあります。普遍的な武器ですから。でも、魔法って…」
「魔法のような現象を信じるのは、理性的ではありません。私たちは自分が体験できることしか知ることはできないのです」
エマの口調に熱がこもった。
「ここはフィロソフィア王国の王都、クロイツベルクです。理性の国です」
エマは誇らしげに言った。
「あなたはどこから来たのですか?」
「東の方から来ました。学生です」
「学生?何を勉強しているのですか?」
「えーと... 経営学とか、その…」
直照は困った。現代の知識をそのまま話すわけにはいかない。
「まあ、それは後にしましょう。今は体を休めることが大事です」
エマは優しく言った。
「ありがとう...俺なんか助けても、何の得にもならないのに」
その瞬間、エマの青い瞳が光った。何かのスイッチが入ったようだ。
「得にならないから人を助けない、というのは間違いです」
エマは直照が横たわるベッドの横の椅子に座った。
「考えてみてください。もし世界中の全員が『得にならないから人を助けない』というルールで行動したら、どうなるでしょう?」
「どうなるの?」
「道で倒れた人を誰も助けず、困っている人を誰も気にかけない...そんな冷たい世界になります」
エマの表情が真剣になった。
「『自分の行動が、もし世界の全員がするルールになったとして、その世界に自分も住みたいと思えるか』と考えるべきです」
「みんなが同じルールで行動する世界...」
「はい。『得にならないから人を助けない』を全員が実践したら、誰も住みたくない世界になります。だから、それは間違った行動なのです。これが『定言命法』という考え方です」
「なるほど...」
直照には難しい話だったが、エマの真剣さは伝わった。
直照が体を起こそうとすると、服が変わっていることに気づいた。
「あの...服は?」
「あなたの服は破れていたので、新しい服に着替えさせました」
エマは何でもないように言った。
「一応聞くけど、その、誰が着替えさせたの…?」
「私です。でも、正しい判断に従っただけです。余計な感情は理性でコントロールできますから」
直照は顔が赤くなった。エマにとっては、それは、とても普通のことのようだ。
「まあ、その…ありがとう」
「人間として、当然のことですから、テルさん」
驚いた。直照は友だちからはテルと呼ばれてた。でも、なぜ彼女がそれを知ってるんだ?魔法?
「俺の名前、なんで知ってるの?」
エマは首を傾げた。
「あなたは『テル...テル...』とつぶやいていました。こんな風に...」
エマは胸の前で両手をクロスして、「エレキテル」ポーズをした。
「分かった!もうやらなくていい!」
直照は慌てて止めた。慌ててベッドから立ち上がろうとしたが、頭がくらくらして座り込んでしまった。
「無理はしないでください。まだ体力が戻っていません」
エマは優しく肩に手を置いた。
「今夜はここに泊まってください。少し食べ物をもらってきます」
「ありがとう、エマ。本当に助かったよ」
エマは少し頬を赤らめた。
「感謝は不要です。正しい行いは義務であり、感謝を求めてするものではありません」
そう言いながらも、エマの表情は柔らかくなった。
「でも...あなたの感謝は、お互いを尊重する気持ちとして、受け取っておきます」
エマの瞳に温かさが宿った。彼女は軽く会釈して部屋を出ていった。
直照は天井を見上げた。「フィロソフィア」という国、そして少し理屈っぽいけれど優しいエマ。
ランプの暖かい光の中で、テルは異世界での生活に期待を抱き始めていた。




