第13話:小ジャンヌと『実存』―人間の本当の姿―
その日の午後、テルはいつものように学院を巡回していた。青い空と心地よい風。緑豊かな中庭を歩いていると、この前と同じベンチに小ジャンヌが一人座っているのが見えた。
制服姿の彼女は、まるで絵の中の人物みたいに静かに座っていた。細い指で本をめくる姿は繊細で、時々風に揺れる黒髪が白い頬を優しく撫でている。先日の「嘔吐」の件が気になって、テルは少し離れた場所から様子を見ることにした。
木々の間から彼女を見守っていると、突然、ジャンヌが細いメガネの奥から、テルの方に視線を向けた。薄茶色の瞳とテルの視線が絡む。そして次の瞬間、彼女が前かがみになって、嘔吐したように見えた。
「大丈夫か!」
テルは慌てて走り寄った。足音が石畳に響いて、小鳥たちが驚いて飛び立つ。ジャンヌのそばに着くと、彼女は白いハンカチで口元を覆って、うつむいた状態でかすかにつぶやいた。
「ええ、ちょっと気分が...」
不思議なことに、先日と違って顔色はそれほど悪く見えなかった。むしろ、頬には薄紅が差して、長いまつげの下の瞳には生気があるようにも見える。
「ちょっと歩けなさそう...医務室に連れて行ってもらえる?」
ジャンヌは震える声でそう言った。目の前で具合が悪そうにしている生徒を放っておくわけにはいかない。彼女の細い体、はかなげな様子を見ていると、前のように抱き上げるしかないと思った。
「じゃあ、失礼します」
テルは深呼吸して、ジャンヌを抱き上げた。やはり、彼女の体は驚くほど軽かった。さらさらした黒髪がテルの腕に触れて、かすかなユリの香りがする。彼女の細い腕がテルの首に回されて、その温もりに少し動揺する。
周囲にいた生徒たちの視線が痛い。驚きの声や、羨ましそうなため息が聞こえてくる。制服姿の少女たちが指をさして囁き合っている。
医務室に到着して、ドアを足で押し開けると、ベル先生が書類を整理していた。豊かな金髪が肩で弾んで、白衣姿の彼女がテルを見た瞬間、意味ありげな笑みを浮かべた。
「まあ、お姫様のご到着かしら?」
彼女の声には茶目っ気が含まれていた。緑色の瞳が楽しそうに輝く。テルは少し恥ずかしさを感じながら、ベッドにジャンヌを寝かせる。白いシーツの上に横たわる彼女の黒髪が、鮮やかなコントラストを作っていた。
「それじゃ、俺はこれで...」
立ち去ろうとした瞬間、ジャンヌの細い指がテルの手首を掴んだ。その白い指先には意外な力が込められていて、まるで蔦が絡みつくみたいに離れない。
「不安なので...そばにいてほしいです」
彼女の声は震えていた。薄茶色の瞳は涙で潤んで、長いまつげに水滴が宿っている。頼りなさげにテルを見上げる彼女の表情を見たら、断る理由が見つからない。
テルが腰掛けると、彼女は身を起こして、不意にテルの耳元に唇を寄せた。柔らかな息が耳を撫でて、ユリの香りに動揺する。
「あなたの『実存』が見たいの」
ジャンヌの囁きに、思わず体が硬直する。「実存」という言葉の意味がわからないのに、なぜか心臓の鼓動が早くなった。まるで魔法の言葉を囁かれたみたいな感覚だ。
テルは慌てて立ち上がって、少し距離を取る。窓際まで後ずさりして、背中を向けた。外の景色に目を向けることで、なんとか心を落ち着けようとする。
そのとき、突然、医務室のドアが勢いよく開いた。振り向くと、息を切らせたルーシーがそこに立っていた。彼女の長い黒髪は少し乱れて、普段は完璧に整えられている前髪が崩れている。いつもの冷静な表情が崩れて、頬は薄紅に染まり、息は荒く、紺色の瞳には焦りの色が見える。
「中庭...いいえ...学院の庭園に...」
ルーシーは一瞬言葉に詰まって、自分の言い方を厳しくチェックするように眉を寄せた。
「学院の中央校庭に、約5分前に、身長180センチくらい、筋肉質の成人男性が、長さ約1メートルの片刃剣を右手に持った状態で侵入して、現在もいることを報告します」
ルーシーは一息ついて、青白くなった顔でさらに続けた。額に浮かぶ汗が彼女の緊張を表している。
「侵入した男の精神状態は、歩き方の不安定さ、声の荒さ、顔の赤さから推測するに、お酒を飲んでいる可能性が高いです。周囲の生徒たち30人弱は、恐怖で逃げていて、このままでは...」
彼女は自分の説明が長くなりすぎていることに気づいたように、急に言葉を切った。
「つまり、危険です。とても危険な状況です」
「わかった、今行く!」
テルは即座に返事をして、腰のエミールの剣を確かめる。ルーシーはまだ何か言いたそうに口を開きかけたが、最終的にはただうなずくだけだった。彼女の表情には強い不安が浮かんでいた。
テルは医務室を飛び出して、廊下を駆け抜ける。石畳の上を走る足音が心臓の鼓動みたいに響く。制服姿の生徒たちが廊下の壁際に身を寄せて、恐怖と期待の入り混じった表情でテルを見送る。剣を持った男と戦える自信は全くないが、「衛兵」という役割がテルの体を中庭に向かって走らせていた。




