第11話:ベルナデットと『私悪』―小さな悪が社会を動かす―
午後の警備を終えたテルは、なんとなく医務室へ向かった。小ジャンヌのことが気になっていたのだ。
医務室のドアをノックすると、中から明るい声が聞こえてきた。
「どうぞ」
ドアを開けると、ベル先生が窓際で書類を整理していた。金髪が午後の光でキラキラと輝いている。
「おや、衛兵くん。また会えて嬉しいわ」
ベル先生は微笑みながら立ち上がった。テルは思わず顔が熱くなった。
「小ジャンヌが気になったの?」
見透かされている気がする。テルは正直に答えた。
「はい、その通りです」
「正直で良い子ね。彼女なら元気になって教室に戻ったわよ」
ベル先生はテルを椅子に座るよう手招きした。窓からは、規律正しく動く学生たちの姿が見える。
「でも、この学院の生徒たちは少し心配なの。真面目すぎるのよ」
ベル先生は窓の外を見つめながら言った。物憂げな表情を浮かべている。
「確かに、そうですね」
テルも同感だった。
「この学院では、みんな『理性』という名の下に、完璧に振る舞おうとしてる。でも、人間って本当にそうあるべきなのかしら?」
ベル先生は棚から小さな瓶を取り出し、光に透かして見た。琥珀色の液体が美しく輝いている。
「社会が『善』だけで成り立つと思う?」
突然の問いに、テルは戸惑った。
「えっと...もちろん善いことの方がいいんじゃ...」
ベル先生は小さく笑った。
「それは違うの。社会は『私悪』があってこそ、機能するものなのよ」
「私悪?」
「そう。個人の小さな『悪』や『欲望』が、実は社会全体の繁栄につながることがたくさんあるの」
ベル先生は椅子に座り、テルをまっすぐ見つめた。緑色の瞳が輝いている。
「例えば、虚栄心。自分をよく見せたいという欲望は、一見すると悪徳にも思えるでしょう?でも、その虚栄心があるからこそ、人は美しい服を求めるし、職人はより良い品物を作り出し、商人は商売で栄える」
テルは黙って聞いていた。ベル先生の言葉には説得力があった。
「贅沢も同じ。贅沢は無駄遣いのように思えるかもしれないけど、それが多くの人の雇用を生み出して、お金が回って社会全体が豊かになるのよ」
ベル先生は立ち上がり、外を見つめながら続けた。
「人間の欲望や弱さが、社会を動かす原動力になってるの。だからこそ、完璧に『善』だけを求める社会は、実は弱いのよ」
「でも、だからといって悪いことをしていいわけじゃないですよね?」
「もちろん。でも、完璧を求めることも同じくらい危険なの。この学院の生徒たちは、あまりにも『理性』という理想に縛られすぎてる」
ベル先生はため息をついた。
「だから私は、ここに生徒が来るたびに、ちょっとした『悪』を注入することにしてるの。彼らが自分の感情や欲望と向き合えるようにね」
彼女はテルに向き直った。
「あなたも私と悪いことをしてみない?」
「え?」
突然の誘いに、テルは戸惑った。心臓がドキドキする。
「い、いや、俺は衛兵なので...」
ベル先生は明るく笑った。
「真面目ね。まずは、恥ずかしさを克服するところから始めましょう」
ベル先生は机に向かい、背を向けたまま言った。
「何か、恥ずかしいことをここでやってみるのよ」
「恥ずかしいこと...」
テルの頭に浮かんだのは、あの発電ポーズ。「エレキテル」だ。思い出すだけで顔が熱くなる。
「どうしたの?思いついたことがあるみたいね」
ベル先生の洞察力は鋭かった。
「いや、その...」
「大丈夫よ。ここは医務室。誰も入ってこないわ。自分の恥ずかしさと向き合うのは大切なことなのよ」
テルは深呼吸して覚悟を決めた。スマホの充電のためとは言えないが、どこかでやらなければならないことだ。
「失礼します」
テルは立ち上がり、両手を胸の前にクロスさせた。
「エレキテル...エレキテル...」と小声で唱え始める。
ベル先生は真顔でテルを見つめていた。その視線が恥ずかしくて仕方ない。
「もっと大きな声で」
「エレキテル、エレキテル...」
数分が経過し、汗が背中を流れる。もう十分だろうと思ったとき...
「続けて」
ベル先生は冷静に言った。その目は研究者が実験を観察するような鋭さがあった。
「エレキテル」の詠唱は15分ほど続いた。腕が痛くなり始めた頃、ようやくベル先生は満足そうな表情を見せた。
「そろそろいいわよ」
テルはへとへとになって椅子に崩れ落ちた。
「どう?まだ恥ずかしい?」
確かに、最初ほどの恥ずかしさはなくなっていた。
「いえ、慣れた気がします。少なくとも、先生の前では」
ベル先生は嬉しそうに笑った。
「それが大切。恥ずかしさは繰り返すことで薄れていく。人間の感情とはそういうものなの」
ベル先生は窓際まで歩いた。陽光で彼女の輪郭が輝いて見える。
「理性も大切だけど、感情や欲望と向き合うことも同じくらい重要よ。完璧を求めすぎることで、自分自身を見失わないようにね」
「ありがとうございます。勉強になりました」
医務室を後にしながら、テルはスマホを確認した。5%だったバッテリーが20%まで回復している。あの恥ずかしい行為が実を結んだのだ。
「これからは、ここでやるか、エレキテル」
夕暮れの光が廊下に差し込んでいた。恥ずかしさを乗り越えることの大切さと、完璧ではなくても前に進む勇気を、テルは医務室で学んだのかもしれない。
時計塔から鐘の音が響き、一日の終わりを告げていた。




