第三話 マーガレット (2)
第三話 マーガレット 12歳
私の誕生日の少し前からお兄様達は長いお休みに入って、家に居る事が多くなった。
成績優秀で士官学校では神童とまで呼ばれていると言うコンラッドお兄様は私とアンに勉強を教えてくれたし、乗馬が得意なフレデリックお兄様は私を馬に乗せてくれた。
初めての馬上は高くて怖かったけれど、お兄様が一緒に乗ってくださって、風を切る感覚が楽しかった。
誕生日の当日、私はまたしてもソフィアお姉様の強襲を受け、真新しい箱から取り出されたドレスを着て、髪のセットと化粧を念入りに施された。
普段着ではないドレスを着たお姉様とアンに手を引かれて食堂に行くと、花がたくさん飾られて、ごちそうが並べられたテーブルに家族が全員揃っていた。
「お誕生日おめでとう、マーガレット」
お父様から始まったお祝いの言葉と頬へのキスはお母様、お姉様、お兄様達とアンから順番に受けた。
恥ずかしくて顔が赤くなる。
それから贈り物。
ドレスはお父様から、お見立てはお姉様。
お母様からはお料理とケーキ。
コンラッドお兄様はご本。
フレデリックお兄様は乗馬用のムチ。
アンはお気に入りの熊のぬいぐるみ。
幼いアンから貰うのは悪いと断ろうとしたら怒られた。
12本のローソクが立ったケーキが運ばれて「願い事をしながら吹き消すんだよ」と教えられて、何を願うべきなのか悩んだ。
皆の顔を見ていると、微笑んで私を見ていた。
今、この瞬間を止めておければ、と思った私は『家族みんなが笑顔でいられますように』と願ってローソクを吹き消した。
ごちそうを食べて、ケーキを食べて、家族みんなでお喋りをして。
楽しく過ごした誕生日だった。
そのうち、はしゃぎ過ぎたアンがこっくりこっくりと舟を漕ぎだしたのを見て「部屋まで連れて行きます」と立ち上がった。
「マーガレットが主役なのだから、私が連れていくわ」
そう仰ってくれたお姉様に「いえ、私も少し疲れてしまいました」と言って、家族のみんなにお休みなさいの挨拶をした。
半分眠りかけていたけれど、それでも意識があったアンの手を引いて階段を上りきると、不意にアンの手が私の手から滑り落ちた。
そして、不安定なアンの身体は階段の上から下へ・・・
『落ちないで!』
目を閉じて身体中が熱くなるほど強く願った。
聞こえて来る筈の落下音が聞こえない事を不思議に思って目を開けると、階段の下に落ちた筈のアンの身体は途中の踊り場で浮いていた。
え?
これは?
一瞬、呆けた後、私は慌てて踊り場へ駆け下り、アンの身体を抱えると、その重みがズシリと両手に掛かる。
私はアンの身体を部屋へと運んだ。
アンは目を覚ます事無く、ぐっすりと眠っている。
私はアンのベッドに腰掛けたまま、さっきの出来事を思い返していた。
あれは・・・あれは、『魔物』の力じゃないの?
神殿で教えられた。
紛れもなく魔物の力。
私は魔物なの?
だから家族に馴染めないの?
いえ、あれは魔物の力などではない。
単なる偶然。
見間違い。
私は魔物なんかじゃない!
けれど、強く否定すればするほど、あの時の感覚が甦ってくる。
身体中が熱くなる、あの感覚が。
掌を開いてじっと見つめる・・・私は・・・私は・・・
その時、ドアをノックする音がして、私は怯えながらドアを見詰めた。
私はノックの音に応えられないまま、じっとしていると、暫くしてお父様が入っていらした。
「マーガレット・・・おいで」
私はお父様が差し出した手に、ゆっくりと立ち上がって近づき、触れた。
私が触れた父の手は震えていた。
顔を上げると、父の目には涙が浮かんでいた。
その時、私は悟った。
ああ、お父様は知っているのだと。
「・・・ごめんなさい、お父様」
折角、この家に迎え入れて下さったのに。
家族として受け入れようとして下さったのに。
「ごめんなさい」
悲しませてしまってごめんなさい。
家族になれなくてごめんなさい。
ただ謝る事しか出来ない私をお父様は抱きしめて下さった。
「おまえは悪くない、悪くないんだよ」
ギュッと強く強く、お父様は私を抱きしめて下さった。
それは最初で最後の父の温もりだった。
私はそのままお父様の指示で馬車に乗り込んだ。
誰にも何も言わずに。
『魔物』は見つかれば処分される。
それが決まり。
昔からこの大陸全土で定められた破ってはならない掟。
けれど、魔物達を匿う里があると言う。
神殿で実しやかに流れていた噂。
場所はどこか判らないが、魔物になった家族を殺すのが忍びない家族達が作り上げてきた里が、この大陸のどこかに存在すると言う。
その里の名は『シャノン』
お父様は私を強く抱きしめた後「シャノンへ行きなさい」と一言だけ告げた。
私は着のみ着のままで馬車に乗り込んだ。
そして暫くして馬車は止まり、一軒の宿屋に案内された。
「こちらでお着替えを」
御者に言われるまま、お父様からの贈り物を脱いだ。
そう、こんな豪華なドレスを着てはいけない。
そしてまた違う馬車に乗り、一日走り続けた。
そんな事を何回も繰り返し、もうどこを走っているのか、満足に長旅をした事のない私には解らなくなっていた。
お母様は知っているのかしら?
お姉様やお兄様達は?
アンは・・・目が覚めたらどう思うのだろう?
家族となって間もない私が居なくなっても大丈夫。
きっとみんな忘れてしまう。
私もきっと忘れられる。
今まで居なくても平気だった家族だから、失って惜しむ事はない。
そして馬車は街道の真ん中で止まった。
昼間だと言うのに人気のない場所で。
「この森を歩いていけば迎えが来るはずです」
馬車が変わるたびに変わっていった御者はそう言うと馬車を走らせて去って行った。
私は馬車が見えなくなるまで見送ると、森の中に足を踏み入れた。
鬱蒼と生い茂る木々の間を縫って歩いた。
神殿では掃除も炊事もさせられていたから平気。
たとえどんな処であろうと生きていける。
私は足元に注意しながら俯いて歩き続けた。
すると、不意に「マーガレット?」と私の名を呼ぶ声が聞こえた。
顔を上げると、そこには一人の男の人が立っていた。
「マーガレットだね?」
もう一度確認する様に名前を呼ばれて、私は頷いた。
すると、その人は優しく微笑んで私に手を差し伸べた。
「ようこそ、シャノンの里へ。僕は・・・ジュリアス」
名乗ったその人の名前には聞き覚えがあった。
「ジュリアス・・・お兄様?」
亡くなったというお兄様?
私がその名を呼ぶと、お兄様は困ったように微笑んで頷いた。
「そう・・・でも、今はユーリと名乗ってる。ここでは今までの名を捨てるんだ」
魔物に今までの名前はいらない。
確かに。
「君は今日から『マルガリータ』になるんだよ。いいね」
私は差し出された手を取った。
ジュリアス、今ではユーリお兄様に手を引かれて森の中を歩いた。
暫く黙って歩いていたが、お兄様は言い辛そうに躊躇いながら私に訊ねる。
「本当は・・・聞いてはいけない事なんだけど・・・良かったら家族のみんなの事を話してもらってもいいかな?」
シャノンでは外の情報は入ってくるけれど、流石に個人の家庭の情報までは入らないという。
「お父様が宰相補佐になったのは聞いたんだけど・・・その、みんな元気?」
私が今日初めて会ったお兄様は、7年前に12歳で事故で亡くなったと聞いた。
それがシャノンの里で生きていた。
お兄様は、短い間だけ家族であった私と違って12年間家族と過ごしてきたのだ。
7年間で忘れられるはずもない。
「みなさん、お元気です」
私は短い間に知りえた事を出来るだけ教えようと思い返した。
「お父様もお母様もお忙しそうで外出される事が多いです。ソフィアお姉様は社交界にデビューなさってからお茶会やパーティのお誘いが多くて大変だとおっしゃっていました。コンラッドお兄様とフレデリックお兄様はお二人とも士官学校に通われていて、コンラッドお兄様はとても成績が優秀でご卒業前なのにもう配属がお決まりになられたとか、フレデリックお兄様は乗馬がお上手で弓もご立派だそうです。アンはお転婆で歌が上手で・・・」
私は息が苦しくなってきて、言葉を詰まらせた。
「アンは・・・突然現れた私に一番最初に懐いてくれました。お転婆でも優しくて可愛い子です。みんな優しくて・・・一度も会ったことのない私を兄弟だと受け止めてくれました。私は・・・私は・・・」
私の息苦しさはますます募り、歩くことも困難になって立ち止まってしまった。
「・・・みんな君が家に戻ってくるのを楽しみにしていたんだ。君が生まれる前、お母様のお腹が大きかった頃からとても楽しみにしていた。君に会えるのを」
私はその言葉に足元を見続けていた視線を上げた。
「ぼくもソフィアもコンラッドもフレデリックも、もちろんお父様とお母様も、君が生まれるのを楽しみにしていた。だから君が神殿に行ってしまっても、お父様は必ず戻ってくるからと仰って、待っていたんだ。君の事を」
お兄様は私を握る手に力を込めた。
「だから、僕は君とはこれが初対面だけど、君の事はよく知ってるよ」
そう言って、お兄様は私を優しく抱きしめてくれた。
「君は家族を失ってしまったけど、これからは僕が居る。今日から僕が君の家族だよ」
私は、私の髪を撫でるその手の優しさにソフィアお姉様とフレデリックお兄様の手を思い出した。
すると、何かが堰を切ったように私の頬を伝った。
「ずっと我慢してたんだね。もう泣いてもいいんだよ。僕の前でなら泣いてもいいし、家族を思い出しても構わないよ」
声を上げて泣き出した私をお兄様はずっと抱きしめて髪を撫でてくれた。
「わ、わたし・・・み、みんなに・・・あり・・・がとも・・・い、いえ・・・なくっ」
泣き続けて上手く言葉に出来ない私の言葉にお兄様は頷いてくれた。
「僕も・・・さよならは言えなかったよ」
私はお兄様の上着にギュッとしがみ付いて泣いた。
「わた、わたし・・・上手く・・・打ち解けられ・・・なくて・・・みんな・・・私の事・・・家族だ・・・って・・・言って・・・」
泣き過ぎて上手く喋る事も出来なかった。
それでもお兄様は何度も頷いて、私を宥めてくれた。
漸く泣き止んだ時には、日は傾き、私の目は腫れあがり、お兄様の上着をビショビショにしていた。
再び、お兄様に手を取られて歩き出した私に、お兄様はこう言ってくれた。
「シャノンの里に居る人達は過去を捨てた人達だ。そうしないと残った家族に迷惑がかかるからね」
私は黙って頷いた。
「でもね、だからこそ、この里の中ではみんなが家族なんだよ」
私は傍らのお兄様の顔を見上げた。
「マルガリータ、君は新しい名前と家族を手に入れたんだ」
そして、新しい名前の由来も教えてくれた。
新しい名前は以前の名前を外国の読み方に変えただけなのだと。
「完全には捨てきれないんだよ。以前の暮らしをね」
それでも、名前を変えることに意味があるのだと言う。
「マーガレットと言う君の名前はね、家族全員で考えたんだよ。『真珠』という意味があるんだ」
真珠はお父様がお母様に初めて贈った耳飾りでそれが由来だと聞いた。
「君は望まれて生まれて来たんだ。たとえ家族と離れても、一生懸命生きていかなくちゃいけないよ」
私は大きく頷いて、お兄様の手を強く握り返した。
魔物の里、シャノンでマルガリータとしての私の人生が始まる。