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深呼吸のための物語

| ─ 音楽家が綴る、静かな深呼吸のような物語 |

これは島根県沖の隠岐諸島を舞台にした深呼吸のための物語。

全4章で構成する短編小説の第1章です。


1章ごとに主人公が変わりながら、さまざまな登場人物を通して

島でのひとときと、そこでふと立ち止まる心の気配を描いていきます。

見知らぬ土地での出会いや風景が、心の奥に静かに波紋を広げていく——

そんな、深呼吸のような時間を綴った物語です。


yamaguchi tatsuya. (音楽家)

深呼吸のための物語

— 第1話|101号室「忘れもの」

 


 カチャ、と扉の音がして、101号室が自分だけの空間になった。その瞬間、私はようやく日常の外側へ身を置くことができた。


 チェックインの手続きを終えようやく辿り着いた、ひとりで泊まるには十分すぎる広さの海の見える部屋。文庫本一冊と小さな荷物で、朝7時に羽田を発ち、島根半島の港から船に揺られることおよそ3時間。隠岐諸島のひとつ、中ノ島の海士町にたどり着いたときには、すでに午後も深くなっていた。

 休みの日に立ち寄った本屋で手にした「TRAVEL & NEST」という雑誌で紹介されていた海のそばのホテル。「 なにもない、がある島 」 という一文の添えられたページには、壁の木目が美しい開放感のある部屋の写真が掲載されていて、一面ガラス張りの窓の向こうには海が広がっていた。


 私は東京でデザインの仕事をしながらひとり暮らしをしている。不規則な生活を静かに見守ってくれる観葉植物を愛で、休日はカフェでラム酒の効いたショコラテリーヌをいただき、小さな本屋で文庫本を一冊買って帰る。それを「息抜き」と呼んでいたけれど、ほんとうの意味での息抜きができていたかと問われたら答えに詰まってしまう。


 本屋から帰ってすぐに宿の予約を済ませた。2泊3日の休暇をつくるため1ヶ月かけてパタパタと仕事を調整した。


 ——そして今、私は隠岐の島にいる。


 東京から隠岐島まで私の体は電車、飛行機、船に運んでもらっただけなのに、それでも長時間の移動を経た体には蓄積したものがあったらしく、荷を解くことも後回しにしてベッドに倒れ込んだ。


 移動の多さを見越してリネンのワンピースを選んだのは我ながら正解だったと自負している。風を受けるたびに裾がやわらかく揺れるウォッシュドブラックの生地。気負いすぎず、でもきちんと見えるところが気に入っていて、どこかへ旅するときは今日と同じ黒のスニーカーを合わせて出かけるのが、旅の無事を祈る私の願掛けのような習慣だ。


 天井から目を移すと窓の向こうには海が横たわり、シャラノキの葉擦れの音に遠くのセミの声が混じって聞こえている。

「……あ」

 汗で乱れたセミロングの髪を手で直そうとして違和感に気づく。

 帽子がない。

 朝からずっと被っていたつば広の麦わら帽子。チェックインのときラウンジのソファで手続きをして、そういえばあのとき外して置いたままにしてしまった気がする。

慌てて部屋を出てフロントのある本館へと戻った。

 

 本館へは二つの連絡通路があり、フロントに近い方は一度外に出る造りになっている。通路に出た瞬間、海から吹く風が汗で濡れた髪にそっと触れて心地がいい。

 そのとき、本館から一人の女性が出てきた。

「あら、こんにちは」

 からっとした挨拶。40代くらいの女性がペタペタとサンダルの音を立てながら近づいてくる。長い髪をシルバーの髪留めでひとつに束ねた、やわらかな印象の丸い顔。白い無地のTシャツに深いブルーのデニムがとても似合っていて、海外で暮らした経験があるような風通しのいい雰囲気をまとっている。

 軽く会釈をすると、女性はにこやかに笑みを返した。

「そんなに急いで、何かあったの?」

「……はい、帽子をラウンジに置いてきちゃったみたいで……」

「あら、もしかして麦わら帽子じゃない?さっき外から戻ってきた時にソファで見つけて。スタッフさんに預かってもらってるわよ」

「そうだったんですね。ありがとうございます!」

「ここにいると、つい気がゆるんじゃうのよね。私なんて昨夜、ぼんやりしすぎてメガネを冷蔵庫に入れそうになっちゃった」

 そう言うと女性はクスッと笑って、私もつられて笑った。

「ありがとうございます。助かりました……」

「ゆっくり休んでね」

 

 フロントに戻ると、さっきチェックインの手続きをしてくれた女性スタッフが迎えてくれた。

「こちらですね」と両手で帽子を差し出しながら、やわらかく微笑む。ネームプレートには「永海」と書いてある。たぶん私より少し若い。もしかすると、まだ二十代半ばくらいかもしれない。彼女と同じ年齢の頃の私と比べて、今の私は、何か変われただろうか。変わらずにいられているだろうか――


 仕事中心に慌ただしく過ごしてきたこれまでの記憶を遡りながら部屋へと向かっていると、途中に背の高い木製の本棚とソファーが並ぶ一角を見つけた。「図書室」と書かれたこじんまりとした空間。のぞいてみると隠岐島の歴史にまつわる資料や、ライフスタイル関連の雑誌、有名作家の小説や写真集も充実している。

 天気が崩れてフェリーが欠航したら、そのときは天候が回復するまでここでゆっくり過ごそう――現実にそうなっては困ると頭では理解しつつ、どこかで旅ならではの予定不調和にこっそり期待してしまう。

 そんな妄想をしていると、ぐぅっと空腹のサインが小さく鳴った。どうやらこちらは予定調和のようだ。


 夕食に選んだのは、ホテルから歩いて5分もかからない、玄米と有機野菜を使った小さな洋食屋さん。フロントの永海さんが教えてくれた。彼女もそのお店が好きで、週末はよく通っているのだそう。ホテルからお店までの道中は街灯も少なく、星を敷き詰めた夜空が端から端まで広がっている。

 

 夕食を終えて部屋へ戻ると、窓越しの暗闇から潮の音がやさしく響いていた。

 空腹が満たされ、ようやく慌しかった気持ちも落ち着き、改めて部屋を眺めてみる。引き出しの中のティーバッグ、木の台座付きのメモ帳。ベッドの縁に沿うようにぴったりと敷かれたシーツの手触りは柔らかくひんやりしていて、つい指を滑らせてしまう。どれも気配りが行き届いていて、関わった人の気持ちの温度が伝わってくる。

 眠るにはまだ時間があったので、さっき見つけた図書室へ行ってみることにした。

 

 私以外誰もいない図書室。

 さまざまなジャンルの本が並ぶ棚、その一部が空いていて、小さな箱がひとつ、ちょこんと置かれているのをみつけた。さっきは気づかなかった。

 ふたには、小さくこう書かれていた。


[ Words That Breathe — 言葉の深呼吸 — ]


 開けてみると、中には束ねられたカードがざっと数えて五十枚ほど入っていて、どのカードにも大きな余白にゴシック体の短い問いかけが一文添えられている。

 一枚を手にとり、言葉に目を落とす。


—— あなたが呼吸したい場所はどこですか? ——

 

 部屋に戻り、ベッドサイドの灯りをつける。電球色の柔らかな光の中。さっきの言葉が私のなかで繰り返し響き、海風のように心の奥をふわりと通り過ぎていった。

 

           *

 

 小さい頃から絵を描くのが好きだった。写実的に描くと言うよりは見たものを自分なりにアレンジして仕上げるのが楽しくて、学生の頃アルバイトをしていた喫茶店で飼われていた猫をミニマルなデザインにして描いてみたら、店長がそれを気に入り、そのままお店のロゴになった。


 それ以降、『 猫の店 』としての認知が広がり、お店も賑わった。

 自身の手で生み出したものが人に喜んでもらえること、そしてそれが予想もしていなかった効果を生んでくれることに私はこの上ない感動を覚えた。なんて幸せなのだろう、と。

 それはデザイナーとして初めて「息をした」瞬間だった。

 

 それからの私はデザインと言うものを意識して世の中を見るようになっていった。あのマークもこの言葉も、ここに選ばれている配色も、すべてが手に取る誰かの幸せのために一役買っているのだと言うことを知った。


 私も幸せの橋渡し役でいたい。


 大学卒業後、なんとかデザインオフィスへの就職に漕ぎ着け、私を頼りない妹でも見るように気にかけてくれるふたつ年上の先輩にも恵まれた。

「菜摘、ちゃんと息できてるか?」といつもさりげなく気遣ってくれる彼はとても優秀で穏やかで、二歳しか歳が違わないとは思えないほど達観している、まるで何度か人生を経験してきたような少し不思議な空気をまとう人だった。

 

 入社三年目に、新創刊される雑誌のロゴを任せてもらったことがあった。印刷された誌面で静かに佇んでいるそれを見て、先輩は手を取って喜んでくれた。


 そして、私が30歳になった去年の夏、ある企業のアパレルブランドの立ち上げに、私はアートディレクターとしてコンセプトづくりから関わらせてもらえることになった。

 ブランドの担当の方とは、何度もメールをやりとりした。


 資料の行間に込めた意図まで丁寧に読み取ってくれる人で、修正もいつも前向きな言葉と一緒に返ってきた。

「これ、すごくブランドらしくなってきましたね」

 はじめての打ち合わせから数えて三ヶ月が経つ頃、そんな言葉をもらったときは、目には見えない確かなあたたかさを感じた。

 

 その後、先方からの返信が急に滞るようになり、少し間を置いて「社内で方向性を再検討することになりまして」という言葉と共に、別の広告企業へ業務を移行する旨の知らせが届いた。


「……正直、悔しいです」

 仕事の帰りに立ち寄ったカフェでそう小さくつぶやく私へ、先輩は静かに微笑みながら言った。

「 『前向きな妥協 』 をすることも、けっこういいものだよ」

 私が黙っていると、先輩は言葉を続けた。

「ここまで育んできたことはちゃんと自分の中に残るし、関わってくれた人も周りの人たちもそれを見てくれている。諦めてしまえばそこでおしまいだけど、前向きに妥協したその先には、まだ未来が繋がっている」

 先輩は私を見ながら、そっと言葉をつないだ。

「理想の結果としては不完全かもしれない。だけど、未来に繋がるために必要な出来事のひとつだったと思えば、今はこれでいいって思えるんじゃない?どんなことがあっても、自分が大切にしているものは捨てちゃいけないよ」

 

 ——私は、どんなデザインをしていきたいんだろう。忘れてはいけないもの。


 たぶん、自分はもう少し、人と人の呼吸が、関わってくれる人の息が届く範囲でデザインをしていたいんだと思う。

 図案としての正しさだけでなく、会話の端にこぼれる 『温度 』のようなものを、受け取りながら作っていきたい。

 その気持ちが、私の背中をそっと押す。

 今日まで続いてきた日常を手放してみる、その先にある未来も悪くないかも。

「前向きな妥協」

 

           *

 

 翌朝、食堂に向かうと昨日の女性が先に座っていた。

「おはよう。帽子、無事に戻った?」

「はい、ちゃんとありました」

「よかった。私ね、ここに泊まるときはいつも同じ部屋を取ってもらっているの。今年も202号室」


 亜紀と名乗るその女性はとても気さくに話しかけてくれて、この季節にはこの魚がおいしい、この花が咲くのはこの時期だけ、といった季節ごとに見える隠岐島の魅力と、島で見る雨あがりの夕焼けがどれほど美しいかを想い出を愛おしむように語ってくれた。

 

 朝食のあと、私たちは海へつづくシャラノキの小道を散歩しながら少しだけおしゃべりをすることにした。趣味の話や、これまで旅した国の話など、世代こそ違えど会話を重ねるたびにお互い惹かれるものが似ていることが分かり、お姉ちゃんのような友達ができたようで、それが私にはうれしかった。

 「私、10年前に初めて隠岐島へ来たの。その時、あなたと同じように忘れ物しちゃって」

「そうなんですか、それも一緒ですね」

「忘れ物って、その時はどうしようってなっちゃうけど、過ぎてしまえばこうやって笑い話にもなるから不思議よね。忘れるって、悪いことばかりじゃないね」

「はい……ほんとに」

「ねえ、私ね、最近思うの。捨ててしまったものはそれっきりだけど、忘れたものとか、なくしちゃったものは戻ってくるものだなって」

「戻ってくる……」


 亜紀さんはやわらかく笑った。


 朝いちばんのフェリーが海を切って港へと進んでいく。

 太陽の熱が、ゆっくりと肌にしみてくる。私はそのあたたかさを感じながらうなずいた。

「忘れていたことを、思い出すために、旅に出るのかもしれませんね」

 無意識にぽつりとこぼれた言葉に、自分で少し恥ずかしくなる。けれど、それは確かに、自分の奥から静かに出てきたものだった。

「うん、そうかもね」

 亜紀さんはそう言って、開いたファスナーのように広がっていくフェリーの波を眺めている。

 

 しばらく、ふたりの間に言葉のない時間が流れた。

 

 思いっきり空気を吸い込んで目を閉じ、私は昨日の言葉を思い出す。


 —— あなたが呼吸したい場所はどこですか? ——


 向きを変えた海風が、朝支度前の私の髪をふわりと通り過ぎていった。




第二章へ

第二章は、202号室の宿泊者 亜紀と、島で暮らす青年タネとの物語。


2025年8月上旬公開予定


| イメージ曲 |

breathe with nature

music by yamaguchi tatsuya.

https://www.instagram.com/yamaguchitatsuya_/

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