第七章 隠された真実と揺れる心
雨が静かに船体を叩きつける。灰色の空は厚い雲に覆われ、水平線すら曖昧に揺れていた。
アクア・エテルナ号は、動けぬまま波の上にぽつんと漂っている。潮の匂いに混じって湿った木製の甲板が軋む音が微かに響く。
青木蓮はデッキに立ち、重苦しい空気を胸に吸い込んだ。冷たい海風が頬を撫で、汗ばんだ額をさらっていく。
彼の目は遠く、揺れる海面をじっと見つめていたが、その瞳の奥には焦燥と苛立ちが渦巻いている。
「こんな閉ざされた空間で、連続殺人が起きるなんて……」
蓮の呟きは、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。
閉じ込められた密室。外部との連絡は断たれ、犯人は確実にこの船内にいる。
逃げ場のないこの環境は、精神の均衡を徐々に蝕んでいく。
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隣には佐藤美咲が立っていた。彼女の長い黒髪はしっとりと濡れ、落ち着いた瞳が蓮を見つめる。
彼女は華奢ながらも凛とした姿勢で、柔らかな風が頬を撫でるたびに髪がふわりと揺れた。
「蓮、私も怖い。でも、怯えていては真実は掴めないわ」
彼女の声は小さいが力強く、確かな意思が込められていた。
蓮にとって、美咲は単なる恋人ではなく、人生の伴侶のような存在だ。
その温もりが、冷え切った船内で唯一の救いだった。
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二人は室内に戻り、被害者たちが関わった「プロジェクト・オリオン」の資料を広げた。
紙の擦れる音が静寂を際立たせる。
重役会議の議事録、メールのやり取り、被害者のメモ。
それらは、失敗に終わった事業の断片を浮かび上がらせていた。
「被害者たちは全員、このプロジェクトに深く関わっていた」蓮が指を差す。
「そして、全員がこの失敗で名誉も財産も失った」
美咲は沈痛な面持ちで頷いた。
「彼らの中に、復讐を誓った者がいるのかもしれない。脅迫状も見つかっているの」
「ただの怨恨じゃない。もっと複雑な動機だ」
蓮はそう言いながらも、自分の心に薄い影を感じていた。
事件の真相を暴くことが、彼自身の過去にも繋がっていることに気付いていたのだ。
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そのとき、船内放送が響いた。
「全乗客の皆様にお知らせします。安全確保のため、今後は移動制限を行います。ご協力ください」
沈黙の中、乗客たちの表情に不安が広がる。
狭い廊下の隅々からは、誰かが息を潜めてこちらを伺う気配がした。
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蓮と美咲は映像解析の結果、犯人の動きと疑われる黒いコートの人物を追い、加賀健一の部屋へ辿り着いた。
木製の重いドアは湿気で少し膨らみ、隙間からは冷えた空気が漏れ出していた。
「ここに何かが隠されている」蓮は慎重にノックしたが、返事はなかった。
美咲がそっと窓の外を覗く。雨は弱まり、濡れた手すりが月明かりに銀色に輝く。
彼女の瞳に、揺れる波紋のような不安と覚悟が映っていた。
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突然、室内から微かな物音が聞こえた。
蓮は息を殺して扉をゆっくり押し開けた。
中には、加賀健一が机に向かい、何かを懸命に書き込んでいる姿があった。
彼の顔は険しく、額には深い皺が刻まれている。
「加賀さん……何をしているんですか?」蓮の声が静かに響いた。
加賀は一瞬驚いたが、すぐに冷静を装い、ゆっくりと振り返った。
「これは、私の最後の手紙だ。君たちには関係ないことだよ」
その言葉には、どこか諦めと覚悟が混ざっていた。
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蓮は部屋を見渡し、机の上に散らばる紙片に目を凝らした。
それは、プロジェクト・オリオンの真相を示す内部告発のメモだった。
「これが真実ならば、事件の全貌は全く違う顔を持つことになる」
美咲の手が震えた。彼女はそっと蓮の腕に触れ、心の内を共有した。
「蓮……私たち、本当にこの闇に踏み込んで大丈夫なの?」
蓮は静かに頷き、彼女の手をしっかり握った。
「美咲、真実は時に痛みを伴う。でも、僕たちはそれを乗り越えなければならない」
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船は今も静かに揺れている。
外界と隔絶されたこの密室の中で、時間は限られている。
真実を探る者たちの決意が、嵐の前の静寂を切り裂こうとしていた。