第一章 出港前夜
本作は、密室状態の豪華客船を舞台に繰り広げられる心理戦と複雑なトリックを中心に描いた中編ミステリーです。
読者の皆さまには、登場人物たちの思惑と真実が交錯する物語の中で、何度も騙され、翻弄される体験を味わっていただければと思います。
特に最後のどんでん返しは、本作の肝となる部分ですので、どうぞじっくりとお楽しみください。
港は夜の冷たい空気に包まれていた。春の風が僅かに肌を撫で、遠くで波が岸壁に当たる音が繰り返し響く。青木蓮は、まだ明るさの残る空を見上げながら、豪華客船『アクア・エテルナ号』の全容を目に焼き付けた。
船体は夜の闇の中に白く浮かび上がり、甲板のあちこちに灯る灯りがまるで星のように煌めいている。300メートルを超す巨大なその船は、単なるクルーズ船ではなかった。数々の政治家、企業家、文化人たちがこの船に乗り込み、表向きは“非日常の贅沢な航海”を楽しむが、その裏には複雑な思惑や秘密が隠されている。
蓮の手元には、乗船許可証と船室のカードキーが握られていた。だが、それらよりも彼の胸に重くのしかかっていたのは、この船内で何か大きな事件が起きる予感だった。
「蓮、待ってたわよ」
背後から穏やかで優しい声がした。振り返ると、佐藤美咲が微笑みを浮かべて立っていた。彼女は報道関係者であり、蓮の旧友だ。退職した警察官でありながらも、今はジャーナリストとしての勘を研ぎ澄ませている蓮にとって、美咲は唯一無二の理解者だった。
「美咲、こんなところで会えるとは思わなかったよ」
「あなたが取材で乗るって聞いて、私も来ちゃった。何かあったら力になりたいから」
その言葉は、冷え切った心にじんわりと暖かさを届けた。彼女の声には、明るさだけではない、どこか揺るがない確信があった。
二人は船内に歩を進めた。豪華なカーペットの感触、重厚な木製の壁、遠くから聞こえてくるピアノの旋律。船内は現実離れした優雅さで満たされているが、蓮の感覚はそれとは裏腹に、重苦しい何かを察知していた。
「さあ、明日から本格的に取材が始まる。乗客の中に、隠された秘密があるはずだ」
「あなたの勘は鋭いから、きっと真実にたどり着けるわ」
二人の会話は自然と事件の予感に引き寄せられていった。
船が港を離れると、蓮は窓から水平線を見つめた。朱に染まる夕陽が波間に揺れている。だが、彼の視線の先には未来が見えなかった。
これから起きる惨劇が、静かに彼らを待ち構えているのだと。