決意
さて。
長政様と結婚した私だけれど、取り急ぎ乗り越えなければならない難関が待ち受けていることを、私は忘れていない。
そう、長政様のお父上、浅井久政殿の攻略が待っているってわけ。
私が読んできた本によると、長政様とは対立関係にある、って話なのよね。
ただ、それは本当かどうかはわからないって感じでもあった。
でも、乳母の話だと、私と長政様の婚儀中、良い雰囲気で迎え入れてくれている人なんて、誰一人としていなかったって言っていたから、義父上もきっとよろしく思っていないんだろうってことは想像できる。
そもそも、長政様と対立している要因って……。
「あ……そうだった…」
その要因って、長政様が前の奥さんとの関係を勝手に破談にした経緯があったからだった。
その婚姻生活はたったの四ヶ月。一体何が原因で離縁したんだろう。
聞きたいけど、なんだか聞いちゃいけない気もする。
モヤモヤするわね。
そもそもそれが原因で、前の奥さんの里である、六角氏と揉めに揉めたっていう知識なんだけど、あってるかしら。
それで勝手に離縁なんかしおってって感じで、義父上と長政様が不仲って話なのよね。
うーん。でも、それとは別に、私は私で嫌われている気がする。
だって、あの織田信長の妹だもの。
時は戦国時代。国を持つ武将たるもの、きっとみんなが天下を取る夢を抱いているに違いない。
だけど世の中の勢いは兄上にある。
義父上にしてみれば、小童とも言える兄上に先を越されそうなわけだから、面白いはずがないじゃない。
「んー…どうしようかな」
先ほどまで部屋にいた長政様は、家臣に呼ばれて一度部屋を出て行った。
すぐに戻るとは言っていたけれど……。
おそらく、一緒に義父上に挨拶に行くのではないかしら。
じゃないと、私、どうやって義父上とコンタクトを取ったらいいのか、わからないもの。
やっぱり挨拶はしておかなきゃでしょ?
「待たせたな、お市」
「長政様」
しばらく一人でうんうん唸ってると、長政様が戻ってきた。
着物も着替えていた。
かくいう私も乳母に手伝ってもらって、寝間着から着替えたところではあるんだけど。
「市、これから父上に挨拶に向かうことになる。大丈夫そうか?」
「え?」
長政様が私の顔を覗き込んで、そんな風に尋ねてきた。
それはまるで、私の心の中を見透かしたような言葉だったから、ちょっとした違和感を覚える。
どうして不安になっているって思ったんだろうって。
でも、深く考えることでもないわよね。
『お市の方』はここでは完全にアウェーだもん。
長政様じゃなくても心配になるって話よ。
「お気遣いありがとうございます、長政様。すべて、覚悟の上でございます」
だから、私は長政様の顔を見上げて、にっこりと微笑んだ。
確かに多少は緊張するけど。いや、さっきまではかなりどうしようって不安だったけど、長政様の優しさに触れたら、なんだか勇気が出てきたの。
なんだろう。本当に不思議な人。
私が思っていた『浅井長政』ではなかったけれど、とても優しくて気遣いができて、まだ会って二日だけれど、とんでもない安心感がある。
「良い瞳だ」
「っ!」
微笑んでいた私に、長政様はその長い腕を伸ばして、ゆっくりと頭を撫でてくれた。
な、なに!? この甘い展開は!
私ってばまた、顔が赤くなっていないかしら!?
「それでは、参ろうか」
「は、はいっ」
私はそのまま長政様に連れられて、義理の父上になる浅井久政殿の元へと向かった。
随分と長く城の中を歩いている気がする。
私の知識によると、おそらく私たちがいる本丸から、義父上がいらっしゃる小丸へ向かっているのかもしれない。
本丸と小丸の間には、京極丸もあったはずだから……。
そりゃ遠いよね。
それにしても……。
私は長政様に連れられて歩きながら、物珍しげにあちこちを見てしまっていた。
だって、小谷の城よ?
現在では「ここにあったよ」ぐらいしか残されていない、あの有名な小谷の城の中を、私は今歩いている。
そりゃ転生してしまって不安で仕方がないけれど、それでもこうしたものに触れられるっていうのは、歴女としてはたまらない状況で。
時折見える外は緑に包まれていて、空気も清々しい。
遠くにはキラキラと光る湖面が見える。あれはきっと琵琶湖ね!
そしてその向こうに見えるのは比叡山?
後に兄上がとんでもないことをしてしまう山だわ。
「どうした、市。何か見えるのか?」
そんなことをぼんやりと考えていた私に、長政様が足を止めて声をかけてくれた。
「い、いえ、とても綺麗な風景だと思いまして」
私はそう言いながら、そっと遠くに見える湖面を指した。
「ああ。あれはとても大きな湖だ。近くで見るときっと驚くだろう。今度、共に向かってみるか?」
「よ、よろしいのですか!?」
そんなっ!
現在でも知られている琵琶湖を、戦国時代に見られるなんて!
そんな凄いことってないわよね!
「ああ、約束しよう」
私の瞳がキラキラ輝いてしまっていたのかもしれない。
長政様は少しくすくす笑いながらも、笑顔で頷いてくれた。
「ありがとうございます、長政様」
私はまたにっこり笑いながらそう言った。
なんだか「ありがとう」ばかり言っている気がするけど。
本当に感謝の気持ちが絶えないんだもん。仕方ないよね。
なんだろう。長政様となら、転生してきた不安も、そしてこれからこの小谷の城で暮らしていく不安も、全部なくなってしまいそうになる。
安心なんてできやしないんだけど。
だって、この城は……数年後には兄上に滅ぼされてしまうんだから。
優しい長政様も、その時に……。
……ん?
ちょっと待って!?
確かに、小谷の城は滅ぼされ、浅井長政親子は亡くなってしまう。
でも、今。
私はその事実を知っている!
何がどうなって小谷の城が焼かれてしまうのか、長政様が命を落としてしまうのか、私、知ってるじゃない!
てことは、もしかして。
私がこの知識を駆使して頑張ったら、長政様を救えたりしない?
い、いや、待ちなさい、私!
そんなことをしたら、歴史を歪めてしまうんじゃないかしら。
お兄さまの時代の後、秀吉、そして家康の時代がやってくる。
それはどうなっちゃうの?
ここで歴史を変えてしまうと、私がもし現代に戻った時、世の中はどうなって……。
い、いや、それこそ冷静になりなさい、私。
私は……あの時、完全に交通事故にあってた。
薄れていく意識の中で、おびただしく流れていく自分の血液を見た気がする。
体中が痛くて、感覚がなくなって……。
思い出しただけでも身震いしてしまうぐらい、怖かった。
あんな状況で生きているわけがない。そう思えるほどに。
だから、歴史を変えてしまってもいいのでは?
戻るところなんてないんだから。
長政様を助けて、そして長政様の時代を作るのも、ありなんじゃないの?
「どうした市?」
「あ、い、いえ、なんでもありません」
突然深い考え事に陥ってしまった私に、長政様が不思議そうに尋ねてきた。
だから私は笑顔を向けて、小さく首を振る。
でも、心の中はとてもざわめいていた。
長政様と、新しい世を作る!
歴史の記憶を持った私なら、きっとやれる!
どこからともなく、そんな強い自信と勇気を、私は心で感じていた。