2-05 遣らずの庭の魔女
地元に帰省した大学生のユリは、近所に住む老女・ヨウコの自宅の庭で、白骨化した彼女の遺体を発見する。
年齢差こそあったものの、唯一無二の友人同士だった二人。ユリは、ヨウコの遺体を花壇に埋め、彼女が言い遺した『最期の願い』を叶えるために奔走する。
ユリの記憶と、ヨウコが育てた特別な『花』たちから紐解かれる、彼女たちの約束。そして、ヨウコの庭に隠された真実とは――?
ヨウコさんが亡くなっていた。
大学が夏休みに入り、地元に帰ってきたその日。なんの気なしに訪れてみたヨウコさんの家の庭で、横たわる白骨遺体を見つけた。雑草が生い茂った花壇の中に、まるで棺桶に入れられたような格好で眠っていた白骨遺体。腕に着けていた農作業用のアームカバーの柄で、すぐに彼女だと分かった。
私は警察に通報することなく、彼女の遺体に土をかけて、花壇の中に埋めた。それが、最適解だと思ったからだ。
◇
私がまだ小学六年生だった当時、ヨウコさんは近所でも有名な人だった。
ヨウコさんは温かそうな印象の名前とは裏腹に、鬼婆という表現が実にしっくりくる人だった。シワシワに湿った醤油煎餅に、小さな目玉をつけたような凄まじい顔。そこへさらに、真っ白な髪がぼうぼうに生えていて、まさにやまんばのようだった。
ヨウコさんは庭いじりが大好きで、育てた花をとても大事にするから、近所の子がボールを取りに庭に入っただけで怒る。『度胸試し』と称して、彼女の庭の奥にある花を摘んで戻ってこれるか、という遊びをしていた男子たちは、ヨウコさんに見つかった途端、ものすごい剣幕で怒られたという。
もちろん、よその家の庭に勝手に入って遊ぶような子供に、怒って注意するのは当然だと思う。ただ、その怒り方が半端じゃない。逃げた男子の一人をおばあさんとは思えないスピードで追跡し、自宅に逃げ込んだところをさらに怒鳴り込み、『度胸試し』に参加していた他の男子たちの名前も言わせて、そのすべての家にも怒鳴り込みに行ったというのだ。彼女のあまりの迫力に泣いてしまった親もいたらしい。
近所の伝説となっていた鬼婆のヨウコさんと、私が知り合ったきっかけ──それは、私が彼女の庭に侵入してしまったことから始まった。
その日、私は熱で学校を早退することになった。母は仕事だったので、私は一人で家路を歩いていた。ヨウコさんの家の前をいつものように通り過ぎようとした時、ある花が目についた。何の変哲もない、真っ白な紫陽花だった。しかし、私はどうにもその紫陽花に心惹かれて、あろうことかヨウコさんの庭に足を踏み入れてしまった。
間近で見たその花は、吸い込みたくなるほど綺麗だった。紫陽花と言えば、ピンクや紫、青色というイメージが強かったから、当時の私にとって白い紫陽花はとても衝撃的だったのだ。
他の花には目もくれず、その紫陽花だけにしばらく見とれていると、庭に面したヨウコさんの家の窓が、ガラガラと開けられた。私は心臓が飛び出るんじゃないかと思うほど吃驚した。窓を開けたヨウコさんが、私のことを真顔でじーっと見ていたのだ。
「ひ、あ、あの」
なにか言わなければ、謝らなければ、と口を動かしてみるけれど、舌が硬直して動かない。
終わった、と思った。私はヨウコさんに家まで追いかけ回され、泣くまで怒鳴られてしまうんだ……そして母からも「なんてことをしたんだ」と叱られ、あの度胸試しをした男子たちと同様に、クラスの笑いものにされるのだ。
ヨウコさんは絶望している私をしばらく見つめたあと、静かに口を開いて、こう言った。
「あんた、その花が気に入ったのかね」
「へっ……?」
絶対に怒られると思っていた私は、思いがけない質問にきょとんとしていた。ヨウコさんが、まったく怒っていない。興味津々といったふうに、小さな目を私に向けている。私は声が上手く出せなかったので、代わりに頷いて返事をした。
すると――ヨウコさんはニッと笑った。
「あんたは見る目があるね。あたしもそれが一番好きなんだよ」
ヨウコさんが笑った! あの鬼婆と名高いヨウコさんが、こんな顔をするなんて信じられなかった。おばあさんに言うのもなんだけど、まるでやんちゃな子供みたいな笑い方をする人だった。
「どれ、あんたにも分けてあげようか」
ヨウコさんは家の奥に一旦引っ込むと、園芸用のハサミと水を入れたペットボトルを持ってきた。まだ花芽のついていない若い枝をパチンと切り取り、ペットボトルに挿すと、それを私に差し出す。
「家に帰ったらこれを庭に挿して、毎日水をあげな。ひと月もすれば根っこが生えてくるから」
「え……はい……」
私は躊躇いながらも、差し出されたペットボトルを受け取る。大事な花なのに、私みたいな子供がもらってもいいのだろうか。
「あんた、学校はどうしたね?」
「あ、えっと、熱が出て、早退してきて」
「おや、それは引き止めて悪かったね。早う帰って休みな」
ヨウコさんが謝った! 鬼婆と呼ばれたヨウコさんが! もしかしてこの人は、ヨウコさんの双子の姉妹とかじゃないんだろうかと思った。けれど、彼女は一人暮らしだったはずだ。兄弟もおらず、結婚もしていない、天涯孤独の身だと近所のおばさんから聞いたことがある。
「そうそう、その花は『オシロちゃん』って言うんだよ。水やりの時に呼んであげれば喜ぶからね」
ヨウコさんは最後にそう言って、家に帰る私を見送ってくれた。
◇
「今日は塾に行けない? 何を言ってるの、ちょっと熱が出たくらいで。お母さんだって微熱でも仕事に行くことがあるんだから、ユリも頑張って行かなきゃダメよ」
帰宅後、仕事から帰ってきた母に熱で早退したことを伝えると、毎度お決まりの台詞が返ってきた。そこで私は「お母さんに見せて」と保健室の先生が書いてくれた手紙を渡す。内容は見ていないけど、多分、「娘さんを休ませてあげてください」という主旨だったのだと思う。
母は手紙を読むと、私のほうをキッと睨んできた。
「あんた、先生を騙してまで勉強をサボりたいの? いつもいつも、サボることにばっかり頭を使って! これじゃあ成績が下がっていくのも当然だわ」
まあ、これも予想したとおりだ。母は私の話をまともに聞かない人だったから、小学生だった当時も諦めていた。
今思えば、私はその頃、ストレスが限界に近かったのだと思う。ずっと原因不明の微熱が続いていて、時折目がチカチカしてふらつくこともあった。けれど、母はこれもサボリだと決めつけていた。体温計は私が細工をしたと言って捨ててしまったし、私がふらふらしているのも演技だと思っていたようだ。
なので、ヨウコさんに挿し木をもらったことは、もちろん母には内緒だ。庭に挿したりでもしたら、すぐに引っこ抜かれて捨てられるに決まっている。ヨウコさんがせっかくくれた優しい気持ちを、子供なりにも大事にしたかったのだ。
私は母に内緒で鉢を買ってきて、もらった挿し木を育ててみることにした。ヨウコさんの言ったとおり、水をあげる度に「オシロちゃん」と呼んであげた。ついでに、学校であったことや日々の愚痴なんかも、オシロちゃんに聞いてもらった。これが案外、ストレス解消によかったらしく、私は少しずつ楽になっていった。熱も下がり、ふらつくこともなくなった。私は幼心にも、「オシロちゃんが助けてくれたのだ」と考えるようになり、よりいっそう大事に育てるようになった。
一ヶ月くらい経って、オシロちゃんの挿し木から新しい芽が出てきた。毎日水をあげていて、ようやく現れたオシロちゃんの変化だった。私はこのことをヨウコさんに伝えたくなって、芽が出た翌日に彼女の家を訪ねた。ヨウコさんは最初、怖い顔をして玄関から出てきたけれど、訪ねてきたのが私だと分かると、笑顔で家の中に入れてくれた。
「オシロちゃんを大事にしてくれてありがとうねえ」
ヨウコさんは私の報告を聞いて嬉しそうに笑いながら、お茶とカステラを出してくれた。私が話している間、ヨウコさんはずっと穏やかで、近所で鬼婆と呼ばれているのが嘘のようだった。
気づけば私は、ヨウコさんとたくさんお喋りをしていた。話題は好きな花に、家庭菜園、学校の行事のことなど……。そんな感じですっかり夢中になっていた私は、壁に掛かっていた時計を見て、ぎょっとした。
「塾の時間が過ぎてる!」
あまり長く話していたつもりはなかったのに、いつの間にか外は暗くなっていた。
私は全身から血の気が引いていくのを感じた。今度こそ、本当の意味で塾をサボってしまった。家に帰れば間違いなく、顔を真っ赤にして怒った母が待ち構えていることだろう。夕飯を抜きにされて、許してもらえるまで反省文を書かされる未来が見えた。
「なんだい、塾ってのは。そんなに大事なもんなのかい」
ヨウコさんは不思議そうに聞いてくるので、私は「毎日塾に行かなければ、母に怒られる」と説明した。ついでに「具合が悪くても、気持ちがつらくても、母は休ませてくれない」とも。
私は以前から密かに、ヨウコさんのような怖い人が、我が家に怒鳴り込んでくれないかと期待していたのだ。そうなるように差し向けようとしている、ずる賢い自分自身に反吐が出たりもしたが……そう願わずにはいられなかった。
すると、ヨウコさんはすっ……と真顔になった。味気ない、無味無臭の水道水のような顔だった。
「大丈夫だよ。あんたはオシロちゃんに気に入られてるだろうからね」
ヨウコさんが言ったことの意味が分からず、私は困惑する。けれど、彼女がなんらかの確信を持っていることだけは、なんとなく分かった。「早くおうちに帰りな」と言われたので、私は彼女の言葉を信じて家に帰った。
――ヨウコさんが言ったとおり、私は帰宅しても怒られなかった。怒る人が、家の中にいなかった。
真っ暗な自宅の玄関でぼんやりと佇んだまま、私はふっと思い出した。
確か、オシロちゃんの芽が出た昨日のこと――私はオシロちゃんの鉢植えに水をあげながら、何気なく愚痴っていたのだ。
「もっと優しいお母さんがよかったな」