2-25 春待ちウサギ、冬の章
シュニー・フランツ・フォン・スノールトの名を聞いたことがない人間は、バルクハルツ帝国広しと言えども多くはないだろう。
12歳にして辺境伯に命ぜられた若き天才。
元王族から奴隷までどんな領民にも分け隔てなく接し、時には己の財を投げ出してまで民のために尽力する情の人。
雪と氷に閉ざされようとしているこの世界に抗い続ける英雄。
その活躍を従者の目線から綴った小説は今や帝国全土で親しまれ、民の話題を日々攫っている。
だが、華々しい英雄譚の知名度に反して、己の領地を長く離れることがない彼を実際に知る者は驚くほどに少ない。
そんな彼が如何にして辺境の地の領主となり今日のように語られる事となったのか、その歩みを紐解いていこう。
「この愚民が……!」
新任辺境伯、シュニー・フランツ・フォン・ルプスガナ改めシュニー・フランツ・フォン・スノールトの第一歩は、領民への罵声から始まった。
「あのなぁ、坊ちゃん。貴族ごっこはやめとけ」
煌びやかだった礼服を纏った、整えられていた金髪の少年である。
御付きの職人に作らせた豪奢な衣服は、今や吹き付けられる雪に白み役割を果たせてはいない。
皇家御用達の高級油で丹念に整えたはずの髪は、冷たく乾いた風で散々にかき回されもはや見る影も無い。
「新しい領主サマは、ワガママな上怒りっぽい方って話だからよ。見つかったらやべえぞ?」
「だから、ボクが! その領主だ!」
ガチガチ歯を噛み合わせる音と言葉が、だいたい半々ずつ。
顔は青ざめ、怒りに叫ぶ声すら寒さに震えか細い。
寒さに震えながら服飾屋の親父に食ってかかるその姿からは、領主の威厳は何一つとして感じられない。
「まあいいや。吹雪いてきたし、とりあえず今夜は泊ってきな。自称領主様に凍え死なれちゃたまらん」
当然、そんな少年の主張がまともに受け取られるわけもなく。
「ええい、もういいッ! 後で覚えておくことだな!」
「あっ……おいっ!」
新任領主の第一歩……これから治める領地の視察と威光の誇示は、大失敗に終わった。
「くそっ……平民風情が、一体誰に口を利いていると……!」
『領主の居館』とは名ばかりのボロ小屋に戻るため、シュニーはふらふらと雪道を歩く。
雪の白と氷の透明が一面を覆い尽くす銀世界。
軒に氷柱が垂れ下がった家々からは、暖炉の灯りすら所々にしか見えない。
倒壊したまま放置されているものさえある。解体して薪にする余力すらないのだろう。
「なぜ、ボクが……このような目に遭わねばならないんだ……!」
貧しく凍てついた、滅びゆく世界。
シュニーの眼前に広がる光景はまるで、彼の現況を写しているかのようだった。
「ボクは……ルプスガナ家の……長男、なのに……」
有力貴族の家に生まれ、我儘放題に生きてきた。
生家が『才無き者、自ら知り育たぬ者に生きる価値なし』という苛烈な思想を持ち、その放任が跡継ぎに相応しき能ある子か確かめる為だったなどと、欠片も気付くことなく。
結果が、12歳の誕生日に贈られた領主の地位だ。
きっとそれは、彼に与えられた最後の機会だったのだろう。
地位の重さを自覚し、その上でお役目を受けられるのか、はたまた己には荷が重いと辞退できるのか。
治める地が帝国にとってどんな意味を持つ場所なのか、調べて判断できるのか。
「認められたんじゃ、なかったのか……?」
シュニーは、二つ返事でそのプレゼントを受け取った。
これくらいの地位は自分なら当然だ、と。
そんな傲慢さと無知のままに判断した結果、彼は今ここにいる。
帝国の“流刑地”。
辺境伯という地位が本来置かれる他国との最前線ではなく、世界を白く閉ざす災厄に敗れ、もう既に見捨てられた土地に。
誇りとしていた家名すら剥ぎ取られた上で。
「どうして、なんだ……」
嘆きの声は、一面の白に吸い込まれるだけだった。
積る雪と疲労に足を取られ、シュニーは受け身すら碌に取れず白の絨毯に飛び込む。
ああ、こんなはずじゃなかったのに。
どうにか体を起こそうとして、己が踏み固めた雪に滑って今度は仰向けに倒れる。
「は、はは」
これが、領主の有様か。
帝国史に語り継がれる将を数多く輩出し幾度もの冬を駆け、『帝国の狼』と内外から畏れられた貴族家の跡継ぎの姿か?
少年の思考は、傲慢な怒りから自嘲へと移り変わっていく。
もう起き上がることもできない。起き上がることを、止めてしまった。
体に、思考に、冷たさが降り積もっていく。
ここで終われば、もう苦しむことも恥をかくことも無いだろう。
しんしんと雪が舞い落ちる、鈍色の空。
生涯最後に見る景色としては、なんともまあ陰鬱で。でも、今の自分に相応しい気がして。
ざく、ざく、という耳鳴りが聞こえた気がした。
それから、赤色が不意に視界に映り込む。
ああ、とうとう死神が迎えに来たらしい。
薄ぼんやりとした思考を最期に、シュニーの意識は白に埋もれ──
「ずぷっとなー」
「おひょぉうっ!?」
──なかった。
唐突に襲い来た、腹への熱。
臍に生暖かい何かを突っ込まれた感触に、彼は情けない悲鳴を上げながらびくんと跳ねる。
「ななっ、なにをすするぶぶぶ無礼者っ!」
「せーぞんかくにん」
とんだ蛮行だった。
領主の服を捲り勝手に肌に触れるばかりか、指を突っ込むなど!
怒りのまま勢い任せで立ち上がり、下手人の姿をはっきり目に捉えようとし。
「いきてたならよかった。とっととおうちにかえるといい」
シュニーの思考は、そこで一度停止した。
雪兎のような少女だった。
雪景色に溶けてしまいそうな、ところどころが跳ねた白の髪。
髪に負けない程に色の薄い肌。
身に巻いているのは、灰色のぼろ布。
赤い二つの瞳だけが、彼女の存在に彩りを残している。
「ここはあまちゃんがいきていけるとこじゃないぞ、しんいり」
「な、あ……」
その顔に浮かんでいたのは、無。
色と同時に感情もどこかに置いてきてしまったのかと思わせるような無表情であった。
どこに住んでいるのだろうか? きっとここの民だろう。ボクの命を助けようとしたなんて、大義じゃないか。礼を取らせてやってもいい。何であれば名前を聞いて、いや別に不埒な感情があるわけじゃないとも。家族にも纏めて褒章を与えるためだ。他意なんて何も。
無礼者、と繰り返そうとしたのに、考えが纏まらない。
さっきまで凍えていたはずなのに、頭が茹ったように熱くてたまらない。
「な、な、名乗ることを許す! このスノールト領の新たなる領主、シュニー・フランツ・フォン……スノールトにな!」
大混乱の中でシュニーにできたのは、不格好な自己紹介と質問だけだった。
できる限り背を逸らして、指を突き付ける。
散々威光に縋ってきた生家ではなく、この地の領主としての名を名乗る。
自分を強く格好よく見せる方法を、それしか知らなかったから。
今の彼に見せられる意地は、それだけしか無かったから。
そうして、こてんと首を傾げる少女の返答を待つ事、3秒、4秒、5秒。
「なのってほしかったら、はるまでまつことだな。べいべー」
彼女は、シュニーの精一杯を無視して背を向け去っていった。
気まぐれで行動が読めない、ウサギのように。
「そしたら、なまえくらいはおしえてあげる。ぽんこつ領主」
「な、な……!」
シュニーには、少女の姿を見送ることしかできない。
平民風情がなんという態度だ。罰してやる。
帝都で暮らしていた時には、思い通りにならない相手にはすぐそう言ってやっていた。
でもそんな普段通りの傲慢さが、何故か出てこない。言葉にできない。
何故、どうして。
寒さも忘れしばし立ちすくんで、己の無力無能を突き付けられ続けた少年はようやくその理由に気付く。
「は、はは……」
あまちゃんだとかポンコツだとか散々に言ってきたけども。
彼女は、自分が領主である、ということを疑いも否定もしなかったのだ。
―――――
「セバス……セバス!」
「おかえりなさいませ。そして私はセバスではなくセルバンテスです、お坊ちゃま。執事といえばセバスという固定観念は全国のセバスさんを不幸にするのですよ? この程度の配慮もできないグズだから厄介払いされたのでは?」
「主人に対して口が過ぎるだろ!」
帝国歴1725年。雪歴137年。
バルクハルツ帝国最北端、スノールト領に新たな領主が着任した。
帝国の鼻つまみ者や脛に傷持つ者たちが追いやられる流罪の地。
支援の打ち切りが決定され、先代領主が逃亡した見捨てられた地。
氷魔の大規模侵攻が予測され、一年後の春を迎えるまでに滅ぶ事が確定した、誰もが諦めの中で最期を迎えようとしている絶望の地。
「……いや、今はどうでもいい! 頼みがある!」
「はぁ。お坊ちゃまが『頼み』なんて、雪じゃなくて炎が降るのでは?」
そんな地に追いやられた少年は、熱を持った口調で従者に希う。
彼は無知で無謀で、おまけに傲慢だった。
過酷な現実の数々を、ひと欠片程度も理解していなかった。
けれど……だからこそ、今この瞬間に逃げ出さないで済んだのかもしれない。
「いい領主になる方法、今すぐ教えてくれたまえ!」
かくして、第一歩から躓いた愚かな少年の二歩目は始まった。
「それと同時並行で、できれば最速で学びたい」
「何をですか?」
後にシュニーの歩みがやたら美化された物語として纏められ(恥じらい嫌がる彼を無視して)領民の手に届けられた時、序章の最後の一文で吹き出さなかった者はいなかったという。
「あの……その……だな。アレだ。えーっと……」
我儘ばかりのダメ貴族の少年が、時に民と衝突し時に分かり合い、歯を食いしばり命を懸け、失敗に失敗を繰り返し、それでも己の役目を投げ出さず次々起こる問題に立ち向かい続けられた理由とは。
最初のきっかけとは、何だったのか。
「女の子を、確実に口説ける方法だ」
それが、ただの一目惚れだったなどと。
今更言われなくたって誰もが知っていたけれど、それでも文字に起こされると笑わずにはいられなかったのである。