2-20 Diverse verse 『全ての夜より深い闇から全ての朝より寂しい君へ』
『砂の魔法使い』と呼ばれる奇妙で驚異的な自然現象が観測されるようになっておよそ半世紀。変貌する空や大地とそれに伴い崩壊を続ける生態系の狭間で人々は自らの住環境を地下へと求めた。深く静かな闇を掘り進み、作り物の光と水と酸素で辛うじて生み出すことが出来た新天地に欠けていたもの。明日を生きる、希望。
それはステージを駆け抜け歌い、踊り、輝き放つアイドルたちに託された。
常闇を駆け巡る七色の星、湧き上がる歓声、高まる熱狂。その心に灯火を、その身体には篝火を、その歌声には心焦がす炎を。青春と魂を焼べ、かつて在ったという青空にさえ飛び立たんとする者達。
ここにまたひとり、新たな輝きを秘めたアイドルが未知数の才能と曖昧な動機を秘め、立つべき舞台を目指す。渡良瀬陽助。太陽の下、広がる黄土色の空と漆黒の闇に瞬く閃光が交差する地下の狭間で、彼とその仲間は何を見るのか――
アイドルになるって事は、駅の売店で缶コーヒーを買えなくなるって事。
その一挙手一投足はステージや配信番組、ショート動画は勿論、プライベートの些細な行動さえも、人々の注目を否応無しに集めてしまうから。むしろ全く集められないほうが困るのだ。
それがアイドルの生き方だと渡良瀬陽助は聞かされた。しかしかれにはその自覚が無い。
今日から君はアイドルだ――などと言われても、実は俺、アイドルなんです! などと叫んでみても、着慣れてややくたびれ気味のジャケットに身体より大きめのジーンズ、顔立ちそのものは端正とはいえ寝癖の落としきれなかった髪を見て賞賛したり歓声を上げたり、慌ててデバイスで撮影、というか盗撮してネット上にアップしようなどと言う輩は居る筈が無い。朝早くのプラットフォームには電車を待つ者も、ベンチで居眠りをする者も僅かにしか見当たらない。
まだ何者でも無い少年を、その身に余る名を持て余し、掌から零れ落としそうな陽助を知る者は無い。
――いや、ひとりは確実に居る。
いつも高校へ向かう前、愛飲しているのは甘み強めのカフェオレ。自動販売機から勢いよく飛び出してくるそれを取り、春先の緩やかな肌寒さに反して刺すような熱を帯びたスチール缶をお手玉する。程よく掌が温かさに慣れて初めて口をつけると、纏わりついていた寒気が和らいでいった。
「でも、アイドルって歌うんだろ……暫くお前ともお別れかもな」
的外れな喉の心配をしつつ、空になったコーヒーの缶をしみじみと見つめる。長い銀髪が印象的な可愛らしい女の子のイラストが描かれていた。
「お、マリアージュのシク缶じゃん! 陽助、いらないでしょ!?」
突然の聞き慣れない単語とけたたましい声に振り返る。この駅、この時間。名前を呼んで来るのはただひとり。
砂の気配が強いのか、朝焼けは土気色で太陽は不完全な球形に揺らめいている。風は穏やかなのに線路の向こう、駅前通りの葉や実をつけ始めた街路樹はうめき声のような軋む音を立てている。
煤けた世界の、そこが果てであるかのように夏川純の姿があった。陽助より頭一つ小さく華奢な身体をふるふると動かして、ジージャンの裾からそっと手を伸ばしている。
「おはよう、純。……もう飲んじゃったけど」
「中身じゃない、そっち! レアなデザイン缶なの! ムーンレティスのは」
「ムーン……ああ、配信者か」
見知った顔だが陽助は純が普段、何をしているのかは知らない。いつも性別を感じさせないファッションで持ち物は小さなトートバッグだけだ。その中に教科書やノートは入っていないだろう。
だが陽助は、そのことについて何かを尋ねることは無い。この駅で、毎朝同じ自動販売機で毎回同じ缶コーヒーを買い、たまに他愛も無い話をする程度の間柄である。平凡で、然し『砂の魔法使い』のせいで終わりを迎えても不思議ではない、危うくも楽しみな日常の一幕だった。
その純はうーん、と唸りながら陽助の頭から足元までを怪訝な表情で見ている。
「どうした、早く飲まないと冷めちゃうぞ、コーヒー」
「陽助、今日から地下……行くんだったよな」
かれが老舗芸能事務所、サンライズ・ヒビノプロダクションのスカウトを受けた話をしたのはつい数日前だった。そしてその活動拠点は『砂の魔法使い』による被害のさほど大きくないこの国においてすら政治や経済の中心が既に移行した地下――人類の新世界となる。そこは折角逃げおおせた場所であり、砂が侵入するリスクを恐れて現状は誰もかれもが自由に行き来できるわけでは無い。
従って陽助も、一度入ってしまえば毎朝この駅に来るわけにはいかないのだ。
「何だよ、今生の別れじゃあるまいし。……そりゃ暫くは学校も休むけど」
「そうじゃなくて。お前のどの辺見て、アイドルのスカウトなんて来たんだか。オーラ、出てない」
急に神秘的な単語が飛び出して、陽助は面食らう。『砂の魔法使い』を神の啓示だとか、或いは神そのものだと喧伝している怪しげな団体の存在が取り沙汰されることがある。出現からおよそ半世紀になるというのに、科学的な見地からの解明が未だ見いだせない現象ゆえ、反動的に崇高なものを見出す人間がいても不思議ではない。
だがそういう手合いに、純も加わってしまったのか?
「いや、いきなりそう言われても。砂の神様がどうとかって話?」
「……バカ。それより、お前のことだからアイドルのステージなんてまともに観たこと無いだろ」
そう言いながら純は、バッグのなかから大き目のタブレット端末を取り出した。放出品と思われるその画面を手早く操ると、動画ソフトが起動する。画面は一瞬真っ暗になったかと思うと次の瞬間、傘状のスポットライトが点灯し、そこにはふたつの人影が浮かび上がった。
「……『冬の、想いで』」
その言葉と共に甘く、幻惑的なピアノの旋律が聴こえ始めた。それに呼応するように、ひとり、ふたりではない数のざわめきが暗闇から響き渡る。イントロの演奏が止むと同時にそれらもぴたりと静まりかえり、替わって囁きのような、語りかけるような歌声がさざ波のように鳴り始めた。
「純、イヤホンイヤホン」
陽助は告げた。駅のホームは公共の場だ。慌てて純は、これまた中古品と思われるイヤホンを取り出して片方を陽助の、もう片方を自分の耳に押し込む。突如画面は明転して、鮮やかな白一色の背景、その中央に立つふたりの姿をより明確に映し出す。陽助はそれが、どこかのステージであることに気がついた。
ひとりは光のなか、なお眩しいアイボリーのスーツを上品に着こなし琥珀のように艶やかで澄み渡る歌声を奏でる。もうひとりは漆黒のジャケットをラフに着崩して黒曜石のように溢れる光を切り裂く刃のような響声を鳴らす。静かなバラード調のイントロは徐々にミディアムなビートへ転じて、対照的なボーカルがサビで重なり合うのと呼応するように、客席からはサイリウムの様々な色の輝きと歓声が湧き上がる。カメラは歌うふたりの姿に近づき、離れ、ローリングを繰り返す。
眩しい。けれど目を離せない。ユニゾンの美しい歌声も、情緒的な歌詞も、光と闇の交錯する演出も、エネルギーに満ちた歓声も、陽助の魂を駆り立てる。タブレットの小さな画面でその状態なのだから、ステージ下の観客たちの興奮は最高潮といった処だろう。
「M1V 、って二人組だよ。自分たちで曲作りまでするアイドルって珍しいんだけど、わかる? これが、オーラってこと――」
その時、純の解説を遮るようにプラットホームの端で轟音が突如鳴り響いた。線路の真ん中辺りに、2メートル強の柱のようなものが浮かび上がった。それは石や木などでは無く、土――いや、渦巻く竜巻のようにも降り注ぐ雨のようにも見える、立ち上ってはこぼれ落ち、次第にその形を大きくしてゆく、砂粒の集合体だった。
「砂の……砂の魔法使いだっ!」
純は慌ててタブレットをバッグに仕舞い込み、慌てて自動販売機の影に身を隠す。柱は大気に漂う塵を、線路下の小石を砕いてそれすらも取り込み縦に、横に肥大化してゆく。このままでは駅そのものが砂のなかに飲み込まれてしまうのは必定、それに気づいたまばらな乗客たちは慌てて階段を駆け下り逃げ出していた。
「陽助! 逃げよう、このままじゃっ!」
純の悲鳴に反して陽助の様子は平静そのものだった。だが、その心には沸騰するような、コーヒーの熱など問題にならない興奮が滾っていた。つい先ほどまで観ていたアイドルのライブ配信に火をつけられたのかもしれない。つい数日前のことが脳裏をよぎる。
そう、二度目。かれにとって『砂の魔法使い』との遭遇は初めてでは無いのだ。
『君、特異点だよ』
カタカナだらけの役職が書かれた名刺をくれた芸能事務所のあの人は、そう言っていた。
「純、そこから動くんじゃないぞ」
聞いたことも無い陽助の真剣な口調に気圧されて、純は思わず頷く。
「お前、何する気だよ!」
「多分、大丈夫。俺、トクイテン……アイドル、だからさ」
「はぁ? こんな時に関係無いだろ!」
陽助はぽんぽん、と純の黒髪にまとわりついていた砂埃を払う。肩までのセミロングは手入れが行き届いていないのかパサつき気味だ。純は思わず硬直する。
「いつか純にも、さっきみたいな――ううん、もっと凄いステージ観せるから」
静止をしようにも声が出ない。そんな様子の純を背に陽助は塵芥渦巻く『砂の魔法使い』へと歩を進める。身体はたちどころに砂柱の一部に取り込まれてしまう。はずなのに、呼吸は至って正常、五感も冴え渡る。
そのまま息を大きく吸い込むと、開いた口から――
『かー、えーるー、のー、うーたーがぁー! きーこーえてくーるーよ!』
純は思わず尻餅をついた。一瞬でも頼もしい、と思った自分がバカに感じられた。
それは歌であって歌ではない。音程が極端に振れて、声量もただ大きく張り上げるだけのメリハリが全く無い、単なるがなり声だ。
「何してんだあのバカ! あんな酷い歌でアイドルなんて――」
ところがその酷い歌がプラットホーム中に響き渡るのに反して、『砂の魔法使い』はその勢いを急速に弱めていく。一時はホームの屋根を埋め尽くさんばかりに広がっていた砂塵はたちまちのうちに霧散し、線路上に堆積していた小石の破片は雪のように溶け消え去っていた。みるみる力を失う砂柱を追い込むように陽助の声が響き渡る。
『かーえーるーのー、うーたーがぁー! きーこーえーてー!』





