2-19 絵の中の特別な真理子
夏の終わり、瑠衣は亀名純美術館を訪れた。そこでは不可解な現象が起きていた。訪れる人々が跡形もなく消失し、記憶からも抹消されるのだ。瑠衣の前に現れたのは、真理子と名乗る不思議な女性。彼女は自らを美術館の創設者、亀名純によって生み出された絵だと語る。真理子は瑠衣と共に消えた人々と瑠衣自身の失われた記憶を探る旅に出ることを提案する。美術館に隠された秘密、失われた記憶の謎を解き明かすため、二人は絵の世界へと飛び込む。そこで待ち受ける真実とは何か?この夏、真理子と一緒に何があったのか確かめに行こう!
自然豊かな広い公園は夕日に照らされて、そこだけ時間が止まったかのようだった。
どこからか聞こえるギターの音色、飛び去ったカラスのか細い鳴き声、園内に併設されたふれあい牧場の馬の踵のコツコツとした音、ひとつひとつは独立していて騒がしいのに寂しさを引き立てている。
園内の中央に白いレンガ造りのお城のような建物が建っている。古そうに見えるが、昔あったとは思えないほど、以前の時代とは場違いなデザイン。看板には《亀名純美術館》と書かれている。館内に人々が散らばり、展示された絵画に見入りながら静かに歩く。彼らは時折立ち止まり、作品一つ一つに思いを馳せている。
その中に、不安げに歩いている少女が一人。黒い長い髪はポニーテールに結ばれ、白いワンピースに薄青いカーディガンを羽織っている。他の訪問者と同じように絵を眺めてはいるが、その動きは迷いを感じさせる。彼女は絵を鑑賞しているというより、何かを探しているようだった。
すると、少女は1枚の絵の前で立ち止まった。
夕焼けの教室、寂しげにぽつんとテーブルに置かれた花瓶。
誰もいないのが不自然。だからこそ惹かれる。
彼女は引き込まれるように、絵に手を触れようとした。しかし―――
「おさわりは厳禁ですよ、お客さん」
声をかけられ、少女は振り返る。
そこにはブラウンのセミロングマッシュカット。赤いシャツに青いデニム、頭には赤いベレー帽をつけた女性がいた。
「瑠衣さんじゃないですか? どうしたんですか?」
「えっ?」
名前を呼ばれ、瑠衣は戸惑った。
(彼女のことを私は知らないはずだ。彼女はいったい誰だろうか)
瑠衣の戸惑いも気にせずに、目の前の女性は彼女の眼をじっと見た。
「わたしだよ‼ わたし! ほら、天堂まぁりぃここぉぉ!」
真理子の言葉で、瑠衣は目を見開いた。
(真理子、そうだった真理子だ)
瑠衣は思い出す。真理子は私のクラスメイトだ。
私は彼女のことを知っている。彼女の名前は真理子だ。成績優秀、容姿端麗のクラス委員長。
いつもクラスのまとめ役だった彼女をなぜ忘れていたのだろうか。
「期末試験ぶりですね」
真理子は上機嫌そうに、瑠衣に切り出した。
「夏休みの間はどこに行かれていたんですか?」
クラスメイト同士で行われるような他愛のない会話。
そこには責任も負担もない。ただ、思いつくままに話せばいいのだが、
「……あれ……えっと?」
瑠衣は言葉に詰まった。
この夏休みの間に自分は何をやっていたのか。それが思い出せなかった。
「もしかして、憶えていないんですか?」
真理子は探るような目で、言葉を続ける。
「そもそも、瑠衣さんはなぜこの美術館に来たんですか? 誰かを探しているようでしたよ」
言われて、心の奥に潜む感情を触られたように感じた。そう、自分はたしかに誰かを探していた。
だんだん自分のいる場所が怖く感じてきた。周囲には多くはないが人はいる。目の前にはクラスメイトの真理子がいる。だというのに、自分だけ無人島に放置されているような気分だ。
「瑠衣さんは、この美術館で起きている不思議な現象について知っていますか?」
「不思議な現象?」
「そう、ここの美術館では人が消えているんです」
真理子はそう言って周囲を見回す。
「亀名純美術館は、芸術家、亀名純によってつくられた美術館です。開園当初の夏休み初日では大盛況でした。しかし、ここでは奇妙なことが起きているんです。二人のカップルが入ると、一人の男性が出てきた。4人の家族が入ると、3人の家族が出てきた。つまり、美術館のなかで消失している人がいるんです」
「そんなことになっているなら、今頃ニュースになっているはずでしょ」
「それがですね。おかしなことに、残された人々は消えた人のことを覚えていない。彼らが生きていた痕跡さえ残っていないんですよ。最初からいなかったことになる。だから誰も疑問に持たない」
つらつらと語る真理子。まるで近くでずっと見てきたかのようだ。
話を聞いていくうちに、瑠衣のなかに違和感のようなものがたまってきた。
雨漏りをため込む水瓶のような疑心感。溢れた瞬間に沸々と湧き上がってきた疑念。
「あなたはなぜそれを知っているの?
絵の中に吸い込まれた人が人々の記憶から消えるとするならば、あなたが知っているのはおかしいわ。それに、さっきからもっとおかしなことを感じているの」
「それはなんでしょうか?」
真理子は瑠衣をまっすぐと見た。吸い込まれそうな黒い瞳をしている。周囲の明るささえも吸い込むような色だ。瑠衣の心さえも奪いそうな。
瑠衣は、真理子と目があえば、あうほど、自分は彼女と長年の親友であったかのような錯覚に陥る。しかし、奇妙なことに彼女と自分は親しいのだと思えば思うほど、心の中に違和感のようなものが膨らみ、それが不快感としてこみあげてくる。
瑠衣は、美術館で最初にあったころには感じなかったような苛立ちを真理子から感じていた。
「あなたと話せば話すほど、私の記憶の中にあなたが入り込んでいくような気がする。クラスメイトであっただけでなく、あなたとはずっと昔からの幼馴染であったかのような気がするわ。同時に思い出すのよ。あなたは私の教科書が落書きされていたときにどうしてたんだろうとか、私の上履きがトイレに捨てられていた時にもそばにいて何をしてくれたんだろうとか、机の上に花瓶が置いてあった時に、クラス委員であったあなたは何をしてくれたんだろう、てさ」
そう言って、瑠衣はため息をついた。
「私の性格が悪いんだろうけどさ。私の思い出にあなたが挿入されればされるほど、現在までの私に対して介入されていない思い出との矛盾がひどくなって、あなたに対して不快な気分になるのよ」
瑠衣は真理子をにらみつけた。真理子と目があえばあうほど、彼女との間に存在しない記憶が付与される。放課後にショッピングモールで買い物する二人。教科書を忘れたので、隣の席の真理子に見せてもらう。夜中までのこってクラスで文化祭の準備をする。
記憶が付与されればされるほど、瑠衣にとっては違和感でしかなく、感情の動きも体に電流を流されているかのような不快感でしかなかった。
「こんなこと、私だからこそ言えるのだけれども、貴方、私の記憶を操作しているでしょ? あなたこそ、美術館での行方不明の原因なんじゃないの?」
真理子は感心したように、目を瞬かせた。
「素晴らしいですね。会ってすぐに私の能力に気づくなんて。なかなかできるもんじゃないですよ」
明るいトーンで話し出す真理子に、瑠衣は非人間的なものを感じていた。
「あなたはいったい何者なの?」
「簡単に言えば、私は絵です」
「え?」
真理子は手を口にあげて大げさに笑いをこらえたような仕草をした。
「瑠衣さんは今、え? と絵をかけましたか? 面白い冗談ですね」
「してないわよ……話が見えないんだけども……」
「つまりですね。私は亀名純によって産み出された絵なんですよ。母が描く絵には不思議な力があったんです。母は失踪する直前までそのことに気づいていなかったようですが」
「失踪? いないの?」
「ええ、おそらくは母も絵の中に入ってしまったようです」
真理子は大げさにため息をついた。
「私は絵の中に消えた母を探しています。まあ、これは私に限った話ではないかもしれません。この美術館に訪れた人々は往々にして自身の捉えどころのない喪失感にさいなまれて再度訪れている人ばかりですから。もちろん、瑠衣さんも」
そう言って、真理子は瑠衣を見た。
「瑠衣さん、ピアスしてますよね?」
真理子は瑠衣の横髪をかきあげた。
耳にピアスがついてる。
「最近、つけたばかりですよね。痛かったんじゃないですか。いつ、つけたか覚えてますか?」
「そんなの……忘れたわよ」
「私、思うんですけどね。瑠衣さんみたいな真面目そうな子がですよ。ピアスをつけるなんてよほどのことがないとしないと思うんですよ。しかもそのことを覚えていない。きっと誰かをきっかけにしてこの夏の間につけたんじゃないですかね」
真理子は美術館を見回しながら、言った。
「なので、提案があります。一緒に絵の中に消えた人々を探しに行きませんか? 探しているうちに、あなたは大切な記憶を思い出すかもしれません。私ならそれができます」
真理子の口調には自信があふれていた。瑠衣は真理子の態度から、彼女が本当にそれができるのだろうと思っていた。
「なぜ、私となの? 人助けがしたいなら、一人ですればいいんじゃないの?」
「もうすでに、何度も絵の中に入って、消えた人々とコンタクトを取りました。しかし、結果として私の存在は彼らの抱えている問題を複雑化してしまい、解決を困難なものにしてしまいました。私は絵です。描かれてからまだ間もない。人のことを知らなすぎる私だけだと肝心なところで……選択を誤ってしまう」
真理子はため息をついた。
「だからこそ、一人でなく二人で絵の中に入る必要があるんです。あなたがいてくれれば、私は間違いを犯さないかもしれない。あなたには私の力の影響を受けづらいようだから」
瑠衣は考え、結論を出す。
「わかったわ、でも助けるってどうやるの?」
「単純ですよ。絵の中に入るんです」
そう言って、真理子は瑠衣の手を取って、一枚の絵に向かって走り出した。
その絵は、たくさんの死体の上に、玉座が乗っており、そこに一人の少女が座っていた。彼女はつまらなそうに死体の山を見降ろしている。
二人はその絵の中に入っていった。